16話「争いの終息に、託すべき願いを。」
結論から言うと、リンディス公国の侵攻を食い止めるのは容易だった。
リスクを嫌った王国の協力も得られ、騎士団の配置や陣形、装備周りの大規模な補強がなされた。私の毎日も、戦術の見直しと、公国が攻め入ってくる想定での訓練に変化した。見込みがあると評されていた新人騎士達は特にやる気に溢れていて、恐怖に怯え竦む者はいなかった。医療部隊の教官兼臨時部隊長としてセレネを置いたことで、ミスティを始めとする隊長格の人材が抱える負担も大きく改善された。
迎え撃つ準備は万全の大国。そんな状態とは知らずに攻め入ってくる小国を潰すのに、苦労するはずもない。
もっとも、再装填に時間のかからない、外国製の最新式銃器にはほんの少し苦労させられたけれど。
おそらくそれがスパイを放った後の二の太刀であり、強気に出てきた理由はそこにあるのだろう。噂には聞いていたけれど、あの技術は我が国も輸入すべきだ。今後戦争が起きることがあれば、確実に銃が主力になる。いつまでも鎧と剣では戦えまい。
騎士道精神だの伝統だのと頭のお堅い上司をどうやって納得させようかしら。……そんな、余計なことを考える余裕さえある。指揮官はやっぱり性に合わないわ。
土煙が舞い上がる戦場。騎士達の背中がまた一つ遠くなった。
と、発砲音に驚かないよう調教した馬を駆る、一人の騎士がこちらに向かって来るのが見えた。
「報告いたします! 我が方の被害は最小限、負傷者はありますが、未だ死者の報告はなし! 戦線は我が方の勝勢、リンディスの兵は撤退を開始しています!」
「そう。なら引き続き命を失わないことを優先、休息の間を与えない程度に追撃してちょうだい。深追いはダメよ」
「はっ!」
騎士の背中はさらに遠くなりゆく。
これ以上ないほどスムーズだった。一週間に渡る戦も、もうじき終結することだろう。テロや内乱よりも短い、誰も幸せにならず、誰かの心に何かを感じさせることもない戦争だった。
溜め息を一つ。同時に、背後から馬の気配を感じ取る。
「エリカ!」
傷一つない鎧でやってきたのは、長髪の副団長。
「……何かあった?」
副団長直々の到来に、私はにわかに殺気立つ。しかしそんな私とは反対に、彼は呑気な顔を見せた。
「緊急事態はないよー。ただ、報告だけ。後方部も戦線を押し上げて広げたから」
「囲うつもり?」
「エリカだってそのつもりでしょ?」
「そうね。伝令を送るつもりでいたわ」
向こうが撤退を始めたということは、あとは降伏するか、籠城でもするより他ない。彼らが逃げ行く方向には小さな山があり、そこを越えたらもうリンディス領。そうなると、山中にある砦を利用して立て籠もる可能性が高かった。
守るに易く、攻めるに難い。砦や要塞というのは往々にしてそういうもので、通常、攻め入るには守る側の三倍の兵力が必要になるとされている。そして、相手を攻め落とすよりもこちらが守ることを優先した今回の戦い方では、向こうの戦力はあまり削ぎ落せていない。大国の資源を潤沢に利用した、消耗戦に持ち込むつもりだったからだ。
つまり、立て籠もられる、こちらの戦力を一人だって欠けさせる気はない、という条件を鑑みた場合、落とすには前線部隊だけでなく後方部隊にもしっかり援護してもらう必要がある。
「けどまぁ、よかったね。被害は出なさそうで」
「そうね……すんなり行き過ぎてる気がするわ」
「まだ奥の手があるんじゃないかって疑ってるの?」
「疑っているというより、心配しているという方が正しいわ」
嫌な予感が胸を掻き立てていた。それは戦いの中で感じた違和感が「何か見落としているぞ」と警鐘を鳴らしているというより、絶対に予感出来ないはずの何かを感じ取っているかのよう。疑心暗鬼とか、杞憂とか呼ばれるようなもの。
根拠などないけれど、意識していない部分で、思ってもみなかったような何かが起きる気がして仕方なかった。
ミスティは八重歯を見せて笑う。
「確かに、警戒するに越したことはないけどね。少し肩の力を抜いた方がいいよ。見えるものも見えなくなっちゃう」
そう言って、彼は西の空を指す。
いかにも雨雲という、黒い雲がすぐそこまで迫っていた。予感ではなく、確実に一雨降る予兆だ。
「馬が使えなくなるわね」
「どうする?」
「どうって?」
「戦線を押し上げたら戻りにくくなる。このまま砦を攻めるんだったら、後方の守りが長時間薄くなるよ?」
「……」
後方。最後方には医療部隊の陣営がある。そこの守りが薄くなることのリスクは、私にとって国よりも遥かに重大だ。
しかし、私の心の天秤が出した答えは、このまま前進する選択肢を取ることだった。
「……いえ、問題ないわ。私達を前線に釘付けにしたところで、王都までを攻め落とすことは出来ない。負傷者のいる後方が手薄になるのはあなたの言う通りだけれど、向こうにはそこを襲う理由がないわ」
敵の戦力を陽動して一ヵ所に引きつけ、その間に別動隊が重要な拠点に攻め入る……そういう策は当たり前に用いられるけれど、それをするにはリンディスという国では戦力が少なすぎる。大将首ならともかく、野戦病院など襲ったところで、なんになるというのか。
それに、こちらだって馬鹿じゃない。身動きの取りにくい野戦病院が設置されているのは、王都にほど近い見張り砦。王都の防衛の為に残した騎士達が駆けつけるまでにそう時間はかからず、砦自体も大きくないとはいえ、守りの性能は十分あるはずだ。
そう、大丈夫。予感は相変わらず悪い方に傾いていたけれど、理屈の上ではそうなのだから問題ない。……そうね、戦場の空気にあてられて、ちょっと心配性になってるだけよ。
首を振って杞憂を振り払い、瞳を正面へ向ける。
「行くわよ。雨が降る前に本陣を落とす」
「おっけー。じゃ、ほとんどの人員を連れてくね」
「ええ、お願い。私は先に行く」
「任せてよ!」
頼もしい笑みから視線を外し、私は最後の戦場へと身を躍らせた。
「エリカ、包囲完了したよ。戦力比計算だと、総攻撃を開始してから十分もあれば落とせるね」
「ありがとう。それと、ここでは団長」
適当な笑みでごまかす副団長を尻目に、私は最前列へと進み出る。
報告によれば、撤退を図った全ての敵兵が砦の中に逃げ込むのを複数の人物が視認しているとのことだった。それに、一人二人いなくなったところで伏兵にはならない。
「命が惜しければ降伏なさい! 趨勢が決したことくらい、理解出来るでしょう!」
ローリス王国はこのままリンディス公国を再び領地に収めるわ。投降し、この戦争を扇動した者、及び公国の当主リュネールを差し出せば、あなた達の命、今後の生活は保証しましょう。ローリス国民としての市民権を得られるよう計らうわ。
ただし、そちらに抵抗を続ける意思が見受けられたなら、ここで全員死んでもらうわ。一人だって逃さない。余計な情報を本国に持ち帰られたら面倒だもの。
理解出来たかしら? 投降の意思があるなら、指揮官は武器を持たず、十五分以内に正面から出てきなさい。当然一人でね。
「出てくるかな?」
「どうかしら。十五分限界まで粘るという可能性もあるわね。いずれにせよ、今頃熱い議論が交わされてるわよ」
遠くで雷が鳴った。太陽を見せない空は薄暗く、命を燃やした後のような灰色をしている。
早く降伏してくれないかしら。そんな本音を隠しながら、ミスティを始めとする指揮官を集め、攻城戦になった際の計画を密に打ち合わせていた時だった。
「ほよ、出て来たんじゃない?」
砦の中から、一人の男が姿を見せた。インナー以外の防具は外し、武器も持たず、両手はホールドアップ。私達の目の前まで来た彼は、膝を落とした。
「……我々は投降する」
「賢明な判断ね。申し訳ないけれど、しばらくは捕虜扱いね。国際法に則るから安心してちょうだい」
「ああ。承知している」
ミスティが砦に向け、投降を受け入れたことを示す。すると丸腰の兵士が続々と現れ、その全てを私達は捕虜として捕らえた。
終わった……誰かが安堵したように呟く。敵か味方か、それはわからないけれど。どちらだったとしても、これ以上戦わなくて済むというのはこれ以上ない安心。緊張の糸は、完全に切れていた。
私だって、例外じゃない。
「ふぅ……」
「おつかれさま」
「……疲れたわ。大した規模じゃなかったというのにね。もう戦争は一日だって御免被るわ」
精神的な疲労が大きく、呼吸の全てが溜め息になりそうだった。
そんな私に、向こうの指揮官が声をかける。
「なあ、あんたが一番偉いのか?」
「そうよ。ローリス王国騎士団長はこの私。若い女だから納得いかないかしら?」
「いや、そうじゃない。あんたが一番偉いなら、あんたに言っておかなきゃならないことが」
「エリカ!」
会話を遮断する、ミスティの大声。焦燥を多分に含ませた叫びに、周囲の空気が固まる。彼はいつの間にやら望遠鏡を取り出し、遠方を覗き込んでいた。
「どうしたのよ?」
「エリカ、あれ……」
望遠鏡を手渡され、首を傾げながらも、彼の指さす方向へそれを向ける。
「な――!」
円の中に映っていたのは、立ち上る黒煙だった。方角は王都。いえ、間違いなく王都その場所で煙は上がっている。望遠鏡から目を離しても、既に肉眼で確認出来るほどの大きさになっていた。
騎士団の面々がにわかにざわめく。私はリンディスの指揮官に詰め寄り、胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「あれはどういうことなの」
彼は焦りの中に、わずかな怯えを滲ませた。
「い、今言おうとしたのはあれのことなんだ! 元々俺達は、出来るだけ敵を引きつけて時間稼ぎをしろって言われてた! そうしたら、手薄になった王都を落とすって!」
「そんな戦力はなかったはずよ!」
「密かに開発した最新の兵器を投入するって聞いた! それ一つあれば王都なんか落とせるって! それ以上のことは知らない!」
「……チッ」
舌打ちを一つ。完全に出し抜かれた。向こうはようやく生産され始めたような、最新の銃器を利用してきた。けれどそれさえも囮にし、本当の戦力はさらに強大な兵器と。そういうことだ。小国のくせに、よくもそれだけの資金を調達したものだ。合法の手段とは到底思えない。
騎士団のざわめきは大きくなる。指揮を執る者達は冷静になるよう叫んでいるが、効果は薄いようだった。
そして、天はどこまでもリンディスの味方をした。
雨。先ほどまで一滴も落とさなかったというのに、突如として、まるで夕立のように私達を打ち始める。誰も彼もが、数十秒もしない内に濡れ鼠と化す。
まずい。まずいまずいまずい。
私の中を焦燥が駆け抜け、ぐるぐると旋回し続ける。冷静にならなければと言い聞かせたところで、思考は何一つまとまってはくれなかった。
どうしたら、どうしたらいいのよ。このまま手をこまねいていては王都が、国が。
セレネが――!
「エリカ! エリカ! しっかりしてよ!」
「っ、ミスティ……?」
この場で唯一冷静さを欠いていないミスティが私の肩を揺さぶり、青空のような瞳で私を射抜く。
「今考えるのは、とにかく一刻も早く戻ることだけ! そうでしょ!?」
「……ええ、そうね。その通りよ」
そうだ。今考えなきゃいけないことなんか、一つしかない。もはや馬が使えないとか、戻ったところで強大な兵器がどうとか、そういうことはどうだっていい。ただ、引き返す。前提条件を満たさないことには、何も始まりはしない。それ以外のことは全て、気にする必要のない些事だ。
私の手は、無意識の内にポケットへ行っていた。冷えた思考に染みる、ざらついた金属の感触。
……使うしかないわね。
覚悟を乗せ、一呼吸。
「……ミスティ。騎士団指揮の全権を、一時あなたに託すわ」
「え……? どうするつもり?」
「一つだけ、間に合わせる手段を知ってるわ。だから、一人で先行する」
こんな意味の解らないことを言っても、強く反対されるだろう。逆の立場なら、私だって詳しく問い詰めるし、反対する。
そんな当たり前の予想は、ありがたいことに裏切られた。
「……信じていいんだよね?」
ミスティは……私を支え続けてくれた副団長は、真摯に私の目を見る。こうして相対する彼の瞳に、嘘は通用しない。絶対に逃れられない。
だからこそ、私も視線を逸らすことはない。
「ええ」
沈黙が、場を支配する。
数時間にも感じられる数秒を経て、彼は小さく微笑んだ。
「わかった。ボクに任せて」
「……ごめんなさい」
返される言葉を、私は聞かなかった。
翻り、豪雨に濡れる木々の中を駆ける。最中、ポケットにしまい込んだ黒い鍵を手にし、血が滲むほど強く握る。
震えをねじ伏せ、躊躇を踏み越え、恐怖を切り裂き、願った。
「この身体がどうなろうと構わない。魂が燃え尽きても後悔しない。私に力を。国を……大切な人を守る力を――!」
手の中で黒く眩い輝きが放たれる。
私の願いは、確かに聞き届けられた。




