14話「初めて知る幸せに、ささやかな願いを。」
「……以上が私の知り得た情報です」
「ふむう……」
王城、第四会議室。狭く、普段は全く使われないらしいその部屋で、防衛大臣は立派に蓄えた髭を撫でつけながら唸る。
対面には、正装の私とセレネ。彼女は無意識にか、私の裾を摘まんでいた。
私は、セレネのことをほとんど隠さずに話していた。防衛大臣と言えば、騎士団にとっては直属の上司と言っても過言でなく、他国との戦争が回避出来るかどうか、あるいは優位な形で進められるかというのは、彼の決定に委ねられていた。もちろん、戦場での騎士団の奮起が占める部分も大きいけれど。
――黒い鍵。
大事なものを対価として願いを叶えるというアイテム。私がセレネの諜報活動とその内容を話すに至ったのは、この保険が手に入ったからに他ならなかった。あまりに大きすぎたリスクも、これで無条件に回避することが出来る。セレネの処罰を懸念する必要はなく、残りの材料である「リンディスが仕掛けてくるであろう戦で後手を踏むリスク」を確実に潰す。その為のこの会談だ。
無論、寝返ったことで彼女と私が無罪放免になるのなら、それに越したことはない。
大臣はしばし黙った後、私でなくセレネに問うた。
「騎士団長の侍女よ。他に隠していることはないのかね? あるいは、虚偽の情報を我々に話しているとか」
「いえ……嘘など言っていません。隠し事もございません」
「ふむう……」
再び唸る彼の視線には、疑念が含まれているようだった。
それも無理からぬことで、スパイが「自分はスパイだ」と言ってきたところで、そもそも信じていいのかがわからない。仮にスパイであると信じたとして、二重スパイだとか三重スパイだとか。いくらでも疑いはかけられる。重大な嘘や隠し事をしたものは、本当に大事な時こそ疑われる。寓話になる程度には共通認識だ。
上手く反論出来ないセレネに、助け舟を出す。
「大臣。彼女を信じていただけないでしょうか。リンディスと真っ向からぶつかれば負けないとはいえ、準備をしておくに越したことはありません。向こうはこちらの手の内を知り尽くしているのです」
「しかしな。もし発言に偽りがあったならなんとする? こやつに誘導されているのやもしれん。裏をかかれて最も傷つくのは民なのだぞ?」
「それは……承知しておりますが……」
ごもっとも。正しさを地で行く正論だ。
セレネの発言に対し、騎士団長である私が責任を取る。そう言うのは簡単。けれど大臣の言うように、戦争で傷つくのは私だけじゃない。責任を取るなんて言ったところで、仮に私が処刑されたところで、戦いに巻き込まれて死んでしまった人達は帰って来ない。
私が極刑を恐れて言い出せなかったのと同様。死を極度に恐れるのは、そのリスクだけはゼロに等しくないと受け入れられないのは、誰だって同じだ。
手を変える。
「でしたら、来たる日に備え、本格的な戦の用意だけでもさせてはいただけないでしょうか。もちろん、戦争になりうる可能性があるという情報の共有も」
「ふむう……しかしな、民に無用な不安を与えたくはない」
「民が安寧な日々を過ごせるようにする為には、真に平和でなくてはなりません。偽りの平和を演出することは、むしろ民を危険に晒すことに他ならないはずです」
「騎士団長の言う通りではあるが……ふむう」
大臣は少しだけ悩んだが、
「……承知した。明日の会議でこの話題を共有しておこう」
承諾してくれた。話がわかるのはありがたいことだ。
「しかし」
逆接。
「それで侍女の犯した間諜の罪がなくなるかはわからぬ。他の大臣、あるいは陛下や民が大きく反発するやもしれんからな」
「それは……」
私は口ごもる。セレネは言い訳のしようもない、とでもいうように口を開かない。
そう、罪。彼女と私の罪。それが国に許されなければ、私は切りたくない札を切るしかない。即ち、黒い鍵なのだけれど。しかし、願いが大きい分「大事なもの」という代償は大きいに違いない。「セレネの罪を許して欲しい」という願いの代償に、セレネの命が持っていかれるかもしれない。そういう、願いには違反していないから問題ないとか、いかにも悪魔のやりそうなことだ。
保険と称したものだけれど、安易には使えない。あくまでも最後の手段であり、不要になって海にでも捨ててしまうのが理想といえば理想だ。
「それは……その場合は仕方ありませんが……ちなみに、大臣はどう思われますか?」
「儂か? 儂は許してもよいと考えておる」
「何故?」
「はっはっは。そちらから訊いてきて、随分驚いた顔をするのだな」
温厚な防衛大臣は固い態度を止め、愉快そうに笑った。
「事が起きてからであれば許されざる罪だが、謎の多かったリンディス公国の不審な動きを先に知ることが出来た。ここで戦が起きずとも、民に無用な混乱を与えたとは考えんよ。国を預かる大臣でなく、一人の人間として、だがな」
ほう、とセレネが息を吐くのが聞こえた。私よりもずっと強く気を張っていたのだろう。
大臣は彼女の緊張を慮ってか、何気ない話題のように続ける。
「他の者がどう考えるかはわからぬ。だが儂個人は責めるどころか、感謝すらしているよ。防衛大臣だからかもしれぬがな」
動向の読めない国が近隣にあると、それだけで肩が凝る。と、そう続いた。
それから、
「戦争に参加するにはな、大義名分が必要だ。大義なき攻撃は侵略行為であり、周囲の国、自国の民からの信頼を失いかねん。大国であればあるほど、身動きは取りにくくなるものだ」
「では、やはり?」
大臣は鷹揚に頷く。
「うむ。騎士団長の考えている通り、こちらからリンディスに攻め入ることは出来ない。しかし、防衛としての反撃であればそれだけで大義となろう。……しかし、かの国は何を考えているのやら」
薄くなり始めている頭を掻きながら、ちらとセレネを見る。
セレネはびくりと肩を震わせたが、私が手を取ると、いくらか落ち着いたようだった。
「……申し訳ございません。その辺りは、何も」
「そうか。まぁ、今はリュネールが長であろうからな。仕方あるまいて」
「大臣。リンディスの当主をご存じなのですか?」
大臣は頷いて肯定したが、その顔は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
「……知っている。あれは小さい頃から嫌な目をした子供であった。息をするように平然と嘘を吐き、裏で何かを画策しているような男だったよ。彼の父が若くして死んだ時も、当時十二歳になろうかというリュネールの仕業ではないかとの噂もあったほどだ。……危険な男よ」
「それは……さらに警戒を強める必要があるのでは」
ほとんどその責任に関わって来なかったとはいえ、私も貴族の端くれ。そのリュネールという男がいかに危険かは十分に理解出来た。
貴族というのは一般的な市民と比べて権利を多く持っており、その最たるものは被選挙権だ。政治に関わることが出来るだけで収入は多く、しかし逆説的に民草からの信頼や評判というのは家の存続に直結していると言ってもいい。
収入が多いということは単純に富裕層であり、私みたいに職業選択の自由もきく。家が貧しければその家を継ぐか、あるいは騎士になるしかないが、貴族であればそれに加えて政治の道、学問を受けて様々な分野に進む道など、選ぶ自由が存在している。
つまり、リンディスの当主であり、実質的に公国の王ともいえるリュネールという男は、貴族として名を上げる為に独立し、強国であるローリスを征服することでそれを達成しようとしているのだ。無謀としか言いようのない行い。しかし裏を返せば、教養がありながらそんな大胆な方針を取るような人物が、たった一人のスパイを頼りにしているはずがないということ。
二の手三の手を用意している……私でなくてもそう見るのは自然なことだった。目の前の、国を守る役割の大臣も。
「場合によっては公国を再起不能にし、再びローリスに取り込むことも視野に入る」
「リュネールを戦争犯罪人として始末する、というわけですか」
「そういうことだ」
あえてぼかさない、生々しい言い方をしたにもかかわらず、大臣は微塵も否定しなかった。
「いずれにせよ、向こうが仕掛けてくるのを待つしかない」
「いいえ、大臣。ここで私達の意見が合致した以上、待つのではありません。待ち構えるのです」
「む……その通りだな。では騎士団長よ、騎士団の再編、戦術の再構成など、実戦的な対策は任せたぞ」
「はい。連絡は密に」
考えをわかちあった者同士として握手を交わし、私はセレネを連れて会議室を後にした。
日々のざわめきは、戦が近いことなどまるで感じさせない。このままの空気で戦争になれば危険だと思う反面、平和そのものの空気を中断させなければならないことは、少し残念でもある。
「エリカ様……」
セレネは唇を引き結ぶような表情で呼びかけてくる。歩は止めない。
「なに?」
「本当に、ありがとうございます……」
「いいのよ別に。あなたから直接大臣に告げるよりずっといいでしょう? それに私は、あなたの」
「そういうことでは! ……そうでは、なくて」
私の言葉を遮った大きな声に、城内を忙しく行き交う人々が振り向いた。視線に晒され、セレネは萎縮する。
「わたしを、信じてくださって」
上目遣いに告げられたそれはひどく単純で、根本的なものだった。私はそれをどうとも思っていないけれど、セレネにとっては、非常に大きなことであったらしかった。
「わたしの言葉がエリカ様に信じてもらえるなんて、身に余る幸せです」
「大袈裟ねぇ」
「いいえ、ちっとも大袈裟ではありません。だって、私の理想の騎士様にこんなにも優しくしてもらえる。お仕えすることが許されている。それだけで、願いが叶っているようなものですから」
「願い、ねぇ。やっぱり大袈裟よ」
今までの人世が報われなかったから、願うことすら許されなかったから、幸せの価値観が大きく下がっている。望まなくなっている。本人は幸せだと思っているのかもしれないけれど、それは不幸の中での幸せにしか過ぎない。
それを否定するつもりはないけれど、やっぱりどこか、寂しい幸福観だ。
「そうね……これくらいで幸せだと言うなら、もう少し高望みしていいわ。私が叶えてあげる」
だから、彼女の幸せを更新してあげたかった。一番を塗り替え続けて、私で満たしてやろうなんていう欲望も、なくはなかったけれど。
「エリカ様……」
「私に叶えられることなら、なんでも。すぐには思いつかないかもしれないけど、思いついたら否定せず言ってみたらいいわ」
私の言葉を受けた彼女は、やはりというべきか、ひどく悩んだ。形のいい顎に手をやり、自分の幸せは何なのかということを――おそらく人生で初めて――考えている。
それは、広くて複雑な王城の正門をくぐり、美しい金色の髪を太陽の下に晒すまで続いた。
そして、セレネは小さく控えめに、私の袖を引く。
「思いついたかしら」
「ぁ、あの……」
「言ってみなさい。叶えられるかどうかは、私が判断するから」
彼女はもじもじと言いにくそうにしていたが、私の言葉を受けて、その呼吸をいくらか落ち着けた。
それから上目のまま、私の耳元に顔を寄せる。周囲の誰にも聞こえぬよう、熱のこもった吐息と共に、その願いを口にした。
私が、予想だにしなかった願いを。
「エリカ様……わたしを、抱いてください」
叶えない理由は、私にはなかった。
……心の準備も、出来ていなかったけれど。




