11話「背信の主に、唯一の願いを。」
「はぁ……」
太陽はすっかり顔を隠し、月と星が出番を迎えている。昼間の喧騒を忘れ去った、けれど決して寂しくはない静音が街を包んでいた。時計台を見上げると、その針はもう一時間も前に日付が変わったことを示している。
ため息の通り、鬱々とした気分でゆっくり帰路を歩む。
「……いえ、私が悪いわけじゃないわ。仕方なかったのよ」
こうやってごまかそうとするのも、もう何度目だろう。しかし、こうでもしないと逃げ出してしまいそうだった。
おそらく、いえ、ほぼ間違いなく、セレネは怒っている。午後からは一緒にお祭に行こうなんて言ったくせに、約束の時間はとうに過ぎ、それどころか日付さえ変わってしまったのだ。信じて待っている者に対する、これが裏切りでなくてなんなのだろう。
亀のような歩みも、頼んで買っておいてもらった葡萄酒も、騎士団の制服を着替えぬままなのも、全部全部言い訳。許してもらう為の悪あがきで、いえ、それ未満のご機嫌取り程度のものでしかなくて。どうあれ、最低な行いに変わりない。
思い描くのは、どこかご都合主義な展開。
申し訳なさそうにドアを開けると、そこにはセレネが立っている。どうしてこんなに遅くなったんですかと詰問されて、謝りながらも説明して。でもきっとそんなことで許してはくれない。葡萄酒を差し出して、せめてこれから一緒に飲もうって誘って……それで許してくれるかしら? 仕方ないですね、今回だけですよって言ってくれるかしら?
この妄想の一番都合のいい部分は、玄関のドアにチェーンが掛けられていない想定なところ。本気で怒っていたら、私はこの寒空の下でひたすら謝り続けることになるか、一晩野宿することになる。
これから起こる出来事を想像するというのは、心に大きな負担をかける。それが憂鬱なことであろうと、そうでなかろうと。事実、私は今とても胃が痛い。
そして、たとえどんなにゆっくり歩を進めたとしても、やがては目的地にたどり着く。これがなんらかの目標であったなら喜ばしいことだけれど、今はたどり着いてしまったことが恨めしく思えた。
明かりが漏れ出ている様子はない。寝てしまったのかしら?
そうだといいのだけれど。相も変わらず最低な期待をしながら、私は鍵を差す。回す。
「……?」
しかし、確かに鍵は開けたはずなのに、ドアを引いても開いてはくれなかった。チェーンがかかっていたわけじゃない。首を傾げつつ、再度鍵を差し込んで回すと、聞き慣れた開錠音が響く。
「開いてた……?」
鍵を開けたまま寝てしまったのかもしれない。不用心だ。
彼女が寝入っている可能性を考慮して、音を立てないようそっとドアを開ける。憂慮していたチェーンも、幸い掛けられてはいなかった。
忍び足。静寂と暗闇の中を、手探りで進んでいく。星明かりのある外の方がよほど明るいくらいだ。ランプに火を灯し、ダイニングのテーブルに酒瓶を置く。今日はもう着替えて寝よう。そう考えていた時だった。
「――」
「っ!」
不穏な音。深い夜特有の無音の中に、わずかなノイズ。それは確実に、断続的に家の中から聞こえてくる。音の発生源はセレネの自室。
……起きてるなら、今、きちんと謝るべきよね。
決意は固まった。緊張に呑まれぬ為、唾を飲み込む。
「……セレネ、起きてる? 遅くなったけど、今帰ったわ」
「……」
明確な返事がないことが、胸に突き刺さる。
「あの、セレネ……約束を破ったこと、ごめんなさい。でもその……せめて、顔を見せてくれないかしら。目を見て謝りたいのよ」
「……」
責めてくれて構わない。頬を張られたって、どんなに酷な罵倒を受けたとしても、それらは全て、私が受け止めなきゃいけないことだから。
ただ、彼女の顔が見たかった。真正面から怒って欲しかった。帰路はあんなに憂鬱だったのに、今ではセレネの感情を求めてやまない。
このまま無視を決め込まれる方がよほどつらい……もしかすると、これこそが今日一番の逃げなのかもしれなかった。
だから、セレネが部屋の扉を自ら開けてくれたことに、心底安堵した。
――代わりに、息を呑むことになったのだけれど。
「セレネ、あなた……!」
「ぅっ、く……えりかさまぁ……っ」
私は、どこまでも深く後悔した。
散々巡らせた言い訳だの、叱責を受ける覚悟だの。そんなものは全部、全部全部全部、跡形もなく崩れ去った。私は、なんて愚かなのだろう。愚かで鈍くて馬鹿でどうしようもない。自分のことばかりに意識が向いていて、彼女の想いを何もわかっていなかった。わかろうとしなかった。その結果の全てが、余すことなく眼前にあった。
泣きながら、私に縋るように崩れ落ちるセレネは、髪型を整え、爪を切り、見たことのない、とびきり可愛い服に身を包んでいた。
セレネは私との約束の為に、最高のおしゃれをしてくれていた。手酷い裏切りに遭った彼女は怒るでもなく、罵るでもなく、騎士団の制服に強くしがみつき、声を殺して泣いている。
後悔と自己嫌悪は、心の器を満たして溢れてなお、足りることはない。
「セレネ……ごめんなさい」
「うぁ……っ! えりかさま、えりかさまぁ……!」
いつかの……私とセレネが初めて出会ったあの日のようだった。あの日の私のように、彼女は泣いている。そこにある感情は決して怒りなどではない。孤独に耐えきれなくなって、満たしてくれる何かを必死に求める感情。
セレネは今、息が詰まるほどの寂しさに、溺れてしまっている。
なら、すべきことは一つしかない。
「セレネ。着いてきて」
「ふぇ……ぁ、ちょ、エリカ様?」
手を取る。引っ張る。少しくらい強引でも構わない。今はそんなこと気にしてられない。テーブルに座らせた葡萄酒だけを回収して、着替えることもなく、星空の下へ。
「え、エリカ様! 鍵を閉めてません!」
「どうでもいいわ」
私は、不器用だ。彼女が求めていることが何かなんてわからない。人を慰めるなんてしてこなかったから、こういう時の最適解だって知らない。それが自分のせいならば、なおのこと。だから、傷つけてしまっているかもしれない。軽蔑されているかもしれない。
それでも。これ以外の答えを、私は知らない。
大きな通りを抜け、西へ。葡萄酒を買った露店のあった場所を通り過ぎ、さらに街の外れへと向かう。目的地は、会議が終わってから、別れ際にミスティが教えてくれた場所。
「……ここは……?」
「綺麗でしょう」
「……はい」
街の外れにある、月の大きな草原。小高い丘なのだけれど、木々が少なくなって開けている。星空は窓から射す光のように、私達を照らしていた。
酒など適当に放り、ハンカチを取り出す。涙でぐちゃぐちゃになってしまっていたセレネの顔を拭う。
「約束、守れなくてごめんなさい。見過ごせない事件があったのよ。まさか、あなたがそんなに寂しがるなんて思ってなくて……」
月よりも月色をしている彼女は、目の下を真っ赤にしながらまだ消えきらぬ嗚咽を漏らす。
「わた、し……っ、楽しみにしてたんです……」
「……ええ」
「エリカ様と一緒に、って……いつ帰ってくるんでしょうって……ずっと、ずっとぉ……」
「……もし怒ってるなら、遠慮も我慢もしないで、言っていいのよ」
彼女が言いたいことを我慢する道理なんてないのだから。
しかし、セレネは髪を振り乱してまで否定。
「怒ってなんかいません……いませんけど……」
「なに? あなたの言うことなら何でもするわ」
「ぅく……本当、ですか?」
「ええ。本当」
たとえこの場で土下座しろと言われようが、自死しろと言われようが、文句一つ言わずに従うつもりだった。文字通り、何でも。
けれど、そんな覚悟は所詮生半可なもので、口先だけの薄っぺらなものだったのだと、すぐに思い知ることになる。
セレネは、紅潮した頬に彩られた、まるで水面に揺れる満月のような瞳でまっすぐに私を射抜き、言った。
「わたしを……殺してください……!」




