9話「小さな夢に、愛の約束を。」
騎士団への勧誘の話をしてから数日。
私は夕食を終え、最近の日課である騎士団の人事資料の洗い出しと整理をしていた。資料を見る限りでは、今のところ医療部隊以外に差し迫った問題はなく、親しみやすく顔の広いミスティにも調べてもらったけれど、彼の見解も似たようなものだった。
「んー……っ!」
座り続けるのは血行にもよくない。疲労も溜まってきて、私は切り上げることにした。何をするにも同じことだけれど、毎日継続することが大事。今日たくさん頑張っても、明日サボりたくなるくらいなら、今日の作業は少しにして止めてしまう方が、長期的に見れば圧倒的なプラスになる。仕事や習慣というのは、息をするみたいに、食事を摂るみたいに生活の一部にしてしまうべき。私はそう考えている。
そんな考え方なものだから、気分の乗らなくなった私はセレネの部屋を訪ねることにした。
当たり前のことだけれど、侍女と言ってもプライバシーがある。思えば、こんな風に彼女の部屋に行って構ってもらおうと思ったのは今日が初めてだった。
小さくノック。
「セレネ? 今いいかしら?」
声をかけるも、返答がない。
「……?」
どうしたのかしら。出かけるなんてことは言っていなかったし、その気配もなかった。トイレに行くにもお風呂に行くにも律儀に声をかけてくる彼女のことだ、今は部屋にいるはずなのだけれど。
再度。
「セレネ? いないの?」
「えっ、あ! エリカ様!?」
中から、完全に慌てた声。それから数秒もしない内、扉が開けられる。
「申し訳ございません!」
「私は構わないのだけれど……具合でも悪いの?」
「いえ、そういうわけでは……あの、何かご用ですか?」
「用というほどではないのだけれど」
暇を潰したいだけよ。
「ちょっと暇が出来たのよ。嫌でなければ話し相手になってもらえないかしら」
「あ……ではお茶を」
まるで自分の都合を顧みないのがいかにもセレネらしい。メイドとして当然ともいえるのかもしれないけれど、しかしその提案に、私は首を横に振る。
「それは私がやるわ。来たのは私の方だもの」
「で、ではお願いいたします」
違和感があったのは気のせいではない。普段ならまず間違いなく「エリカ様にそんなことを」と来るはずなのに、今日は珍しく素直に従った。一度で返事をしなかったし、よほど何かに熱中しているのか。
ともあれ湯を沸かし、牛乳を温め、紅茶を淹れる。私好みのアイリッシュ。夜だけれど。
「お待たせ。それで、周りの音が聞こえなくなるほど夢中になって、何をしていたのかしら?」
「実は……これを」
「……? 船?」
整然とした机の上に鎮座しているのは、未完成な一艘の船。おそらく模型だ。模型作りを趣味としていたのも意外だけれど、それよりも私の目を引く奇妙さなのは、その出来かけの船がなぜかビンの中に詰められているところ。
周囲にある小さな小さな船体パーツは、ビンの口に収まるよう分解されているのだろう。
セレネは少し照れたように笑う。
「ボトルシップって言うんです。先日、市場で見かけた時にどうしても欲しくなってしまって……」
彼女自身の給与で買っているのだから、なんら恥じることなどない。むしろ、少しずつ私に対する遠慮がなくなっていくことは喜ばしいことだ。
作業を止め、パーツを片づけ始めるセレネ。どうやら、私と話しながら出来るほど簡単ではないらしかった。
「大変そうね」
「はい。すごく神経を使います。でも、これ……」
口ごもる。セレネは言葉を探し、選り取り、悩んだ末、こう言った。
「……なんだか、わたしみたいで」
「セレネみたい?」
セレネがそれに答えることはなく、眉の下がった笑みを浮かべ、すぐに片づけを再開した。
私の中で、勝手な憶測が芽吹き始める。
船。広い海を渡り、どこへでも行ける。広い世界、海の向こうに何があるのかなんてこと、誰も知り得ないはずだった。そんな未知の世界を切り拓いていく、冒険心に溢れた乗り物。
けれどそれが、ビンの中に詰められてしまっている。狭苦しい箱庭に閉じ込められ、どこへも行くことの出来ない船は、まるで翼をもがれた鳥のようでさえある。
……それとセレネが、似ている?
それはつまり、彼女自身が現状に不満を抱いているということ。生きているのに死んでいる。死んでいるのに生きている。航海に出れぬ船は船にあらず、飛べない鳥は鳥にあらず。
そう、思ったのだけれど。
「あっ! ち、違いますよ! 違いますからそんな怖い顔しないでください」
ハッとした彼女は手を振って全力の否定。
「言葉のアヤっていうか。とにかく、なんか似てるなって思って、それで買っただけなんです」
「私が縛り付けてるんじゃないかって、そう感じてるんじゃないかって思ったわ」
「まさか。わたしはエリカ様といるのが大好きです」
臆面もなくそういうことを言うのが我が家のメイド。言われた方はわずかばかりの期待を抱いて、それから消すような愚かな主人だけれど。この時も例に漏れず紅茶を吹き出しそうになり、我慢することで精一杯だった。
ごまかす。
「……それならどこが似てると思うの?」
立場とか、現状でないのなら。彼女は満月色の瞳を揺らす。
「そうですね……」
しばし、悩む。紅茶を含み、カップを置き、さらに数十秒の沈黙。説明に困るような内容なのか、自身が理解出来ていないのか。真相は定かではないし、セレネにしかわからないようなことなのだけれど。
私はその長い時間こそが答えであるような、そんな気がした。
彼女の中でこねくり回した答えが、ようやく出力される。
「よくわかりません」
曖昧な笑みだった。
ただ、
「でも、これを完成させたらこうしたい、ってことは決まってるんです」
「それは?」
「海に。海に流すんです」
彼女は出来かけのボトルシップをそーっと棚の上に飾り、愛しそうに見詰めながら語る。ともすれば、人生の理想そのものを語るみたいに。
「どこか、私のあずかり知らないような遠くに行って欲しい。そして、これが誰か知らない人の手に渡って、もし大事にしてくれたら、それが最高だって。そう思うんです」
「近くの人に渡したりはしないの?」
セレネのものなのだから私が口を挟むことでないのだけれど。大変な思いをして作ったのに、全然知らない人にその行く末を託してしまうのは、なんだかもったいないような気がする。
セレネはキョトンとした。私の発言が心底から不思議で、理解出来ないという顔だ。
「どうしてですか? 近くの人はこうしてお話したり、お誕生日にはプレゼントも差し上げられるじゃないですか」
「それはそうかもしれないけれど……なら、遠くの誰かとやり取りしてみたいの?」
「いえ、やり取りというか。例えば、ここにお手紙を書いて入れておいたとしても、そのお返事は要らないんです。誰かが読んでくれて、あとはその人の自由にしてくれれば。大事にしてくれたら嬉しいですけど、誰かにあげてもいいし、なんなら捨ててしまっても構いません」
無欲なものだと思う。普通そういうのって、返事を求めたり、手にしてくれた人といつか出会えるかもしれないと思いを馳せたり、大事にしてくれることを願ったり。気持ちを繋げる架け橋になってくれることを望むものではないのか。
なのにセレネのそれは、ただの一方通行だ。彼女の気持ちが届くかどうかさえ考慮されていない。
しかし、そんな一般論など芯からどうでもよさそうに、彼女はそれを語り続けた。
「顔も性格も知らない誰かとわたしを、この船が繋いでくれるんです。何も知らないままなのに、繋がってるんです。それって素敵じゃないですか」
考えを巡らせ、想像力をめいっぱい働かせてイメージする。ただ、結局。
「……私にはよくわからないわ」
よくわからなかった。セレネと……遠くにいた憧れの人に思いを馳せながら育ち、今では近くにいる人とより深く繋がりたいと思う私とは、根本的に相容れない考え方なのかもしれない。遠い水平線を見て、手を伸ばそうとする私と、静かに見守ろうとする彼女では。
でもそれが不思議と、悲しくはなかった。
苦笑が返される。
「エリカ様のそういうところ、わたし好きです」
単純な生き物の私は、それだけのことにも反応して息を呑んだ。それだけならいつも通りのことなのだけれど、今日はその先の展開が違っていた。
私が想いを隠してごまかしの言葉を口にするより先に、セレネが口を開く。
「エリカ様。わたし……エリカ様のこと、もっと知りたいです」
「は……?」
セレネは恥じらっているようにも、照れているように見えた。私と目が合うと、慌てて視線を落とす。
「許されないことだとわかってるんです。でも、こんなに優しくされたのは初めてで、それで……」
からかわれているに違いない。理性はそう感じていた。感情がどう感じていたかということと、私がどちらの意見に耳を傾けるかなんてことは、言うまでもないことだ。
「そんな言い方したら、勘違いさせるかもしれないわよ? いくら私が相手でも気を付けた方がいいわ」
「勘違いじゃありませんっ!」
聞いたこともないような大声だった。悲しげな瞳が私を映し出す。
彼女は戸惑う私に詰め寄り、押し倒す。私が持っていたカップは勢いのまま放り出され、わずかに残っていた中身が床にシミをつけた。肩が、痛いくらいの強さで掴まれる。
セレネが浮かべていた涙から、目を逸らす。
「……ダメよ。私達じゃ」
「そんなの……そんなのわたしだってわかってますっ!」
わかってる。あなたがわかってることを、私もわかってる。その上でこうして声に出していることも。全部全部、わかってる。
拒む理由なんかないはずだった。私だって、同じ想いなのだから。
どうして拒否するのか、自分自身わからなかった。……この時はまだ、違和感に気づいていなかったから。
「でもっ! でもわたしは……! 好きになってしまったんです! エリカ様のことが! エリカ様しか……いないんです……っ」
激情に震える瞳からぽろぽろと涙がこぼれ、私の頬を濡らしていく。それが、どうしても嘘には思えない。
私はあの日から。彼女は先日から。
それでも私達は間違いなく、紛れもなく両想いだった。
……この想いに委ねても、いいのかしら。
悩んだのは、たった一瞬。
「セレネ……」
名を呼ぶ。指先で涙を拭い去る。微笑んで見せる。
それだけで、それだけで十分に伝わる。そう、確信していたから。
「エリカ様ぁ……っ!」
どちらからともなく、私達は自然に唇を重ねていた。絡み合う舌の熱に、思考が溶けていくような感覚。この瞬間の為に今まで生きてきたのだとさえ思える幸福感。それはまるで、彼女以外が見えなくなっていくような、世界から徐々に隔離されていくかのようだった。
長い長い十数秒を経て、それは終わる。火照った吐息が重なり合い、唾液が艶めかしく糸を引く。
熱に浮かされそうになる思考を必死で繋ぎ止め、冷たくて面白みもないけれど、言わなきゃいけなかったことを口にする。
「セレネ……もうすぐ、国王陛下のご生誕パレードがあるのは知ってるわね?」
「はぃ……」
彼女は息も絶え絶え、意識もどこか薄ぼんやりしているらしく、呂律も回っていなかった。
「国を挙げてのお祭になるわ。騎士団はもちろんその護衛があるのだけれど」
当然、私も護衛係になる。ここ最近休暇が増えていたのは、一年でも特に忙しい時期がやって来るからに他ならない。休み溜め、とでもいうような風習が、なんとなく騎士団にはあった。
「三日目……最終日はね、私の仕事は午前だけになってるのよ。だからその……よかったら、一緒に行きましょう?」
焦点が合ってないセレネは、崩れ落ちるように私の胸の中に沈んだ。服が、ぎゅっと強く握られる。
「……約束ですよ」
「ええ。約束するわ」
穏やかな夜の中、私達はしばらくの間、そうしていた。




