起3ー②
バスが到着したのは午前十一時頃だった。京介たちはバスを降りると、それぞれ分担して荷物を持ち、バーベキュー場へ向けて歩き始めた。京介は歩きながら高橋に尋ねる。
「バーベキュー場はどんなところ?」
「たぶん見ればびっくりするぞ。とにかく自然を満喫できる場所だ。」
高橋の言葉に京介の気持ちは高ぶった。
バーベキュー場へ歩き出してすぐのところに、ちょっとした林があった。その林の中に入っていくと、蝉の鳴き声に紛れて微かに渓流の音が聞こえ始めたのだが、その音は進むにつれて次第に大きくなっていき、それとともに皆の期待も少しずつ膨らんでいった。そして京介たちがようやく林を抜けたとき、目の前には目的のバーベキュー場が広がった。そのバーベキュー場は森を縫うようにできた幅七メートルほどの川に沿って作られていて、高橋の言う通り自然が満喫できそうなところだ。それにまだ午前中だったためか、人もあまりいなかった。
京介たちは早速河原に下りてみた。すると渓流の音に紛れて何処からともなく涼やかな風が流れ込み、真夏の強い日差しを和らげた。足元には大小様々な石が敷き詰められており、一歩進むごとに落ちている石の特徴が足の裏を通して伝わって来る。対岸に目をやると、そこには川にせり出してくるほどの深い森が広がっていて、日中でさえも薄気味悪く感じられた。
京介たちは川の傍まで行ってみた。すると川の浸食により周囲が大きく窪んでいたせいか、そこは何重にも折り重なった自然の音で溢れていた。京介は一瞬その圧力に押しつぶされたように感じたが、すぐにふっと軽くなり、次の瞬間にはぷかぷかと音の中に漂って行きそうな感覚を覚えた。そして自然の息吹が京介の五感を滑らかに刺激していった。
「ここでバーベキューをやろう。」
京介がそう提案すると、皆は満場一致でそれに賛成した。
バーベキューの参加者は全部で二十人もいたので、皆は昼食が遅くならないように早速手分けして準備を始めた。高橋たちは火起こしを、知美や沙希たちは食材の準備を担当した。京介たちはタープや机、イスなどを準備し、終わり次第他のグループを手伝うことになった。
バーベキューコンロは三つ用意されていた。一つがカレーやご飯用で、他の一つが焼きそばなどの鉄板用、残りの一つが焼肉用だ。高橋たちはそれぞれのコンロで火の準備を始めた。まず黒光りした炭の塊をコンロの底に敷き詰め、その後にガスバーナーで炭を一つ一つ丁寧に炙った。炙られた炭は最初にバチバチッと大きな音を立てたが、その後は静かになり、徐々に炭化していくだけだった。高橋はそれを見ているのがつまらなかったので、ガスバーナーの炙る角度や場所を変えながら、炭をバチバチさせて火を起こした。
知美や沙希たちは設置した簡易テーブルの前に集まっていた。テーブルの上には大量の食材が並んでいて、調理されるのを待ち望んでいるようだ。知美は食材を眺めながらその場にいる人たちに指示を出した。
「とりあえず、由香と滝口君と水野君はその辺にある野菜をじゃんじゃん切ってね。香織と山田君はお米の準備をお願い。渡辺さんは、私とお肉の下準備ね。」
そうして食材の準備が始まった。知美と沙希は手始めに鶏肉やホルモンを用意し、それらを串に刺し始めた。知美が機械的にポンポン焼き鳥用の串を作っていると、沙希は躊躇いがちに知美の方を見た。
「あ、あの!」
沙希はボリュームを間違えたのか、大きな声が周りに響いた。知美はびっくりして動かしていた手を止めると、俯いている沙希の方を向いた。
「いきなりどうしたの?」
「は、長谷川さん。これからは、私のこと沙希って呼んで。」
沙希は顔を赤らめて言った。知美は一瞬の間を置いて沙希に微笑む。
「うん、わかった。じゃあ、私のことも知美って呼んでね。」
「うん、と、知美。」
沙希がニヤニヤして呟くと、呼び捨てで呼んだことに浮かれたのか、鶏肉が沙希の手からするっと飛び出した。しかし沙希の身体はそれにビクッと反応し、鋭い反射神経で空中の鶏肉を素早く右手に収めた。沙希はそれにホッとし、幾らか得意げな目で知美を見たのだが、そのとき再び鶏肉が右手から飛び出し、今度は地面に向かって急降下した。油断していた沙希はさすがに反応できず、鶏肉がヌルっと地面に落ちた。
「ご、ごめんなさい!」
沙希は慌てた様子で咄嗟に謝った。
「全然大丈夫、気にしないで。」
「でも、でも。」
「本当に大丈夫だから。」
知美にそう言われたが、沙希の表情はあからさまに落ち込み、次に鶏肉を刺す手つきまで縮こまってしまった。その様子を見た知美はおかしくて笑い出した。
「ふふっ、沙希は落ち込み過ぎだよ。」
知美の笑顔で沙希の表情が再び明るくなった。知美はころころ変わる沙希の表情を見て言った。
「沙希って面白いね。」
沙希はそれを聞いても何が面白いのかよく分からなかったが、知美が笑ってくれているだけで嬉しかった。
そのころ京介たち男七人のグループは、タープや机、イスなどの準備を早々に終えていた。火起こしや食材の準備にもまだ人手が必要な感じではなかったので、京介たちはひとまず水着になって川に入ることにした。
すでに水着を着ていた京介が最初に川へ入った。気温は三十度を優に超えていたが、川の水はそこそこ冷たかった。京介は冷たさに弱かったので、身体を慣らすようにゆっくりと川の奥へ進んだ。すると、そこにお調子者の佐藤がやって来て、いきなり京介の背中へ飛びかかった。京介はちょうど足場の悪い位置にいたので、よろけてバランスを崩し、佐藤を背負ったまま仰向けに倒れた。京介の顔も水中にぶくぶく潜った。しかし倒れた後も佐藤の腕が首に絡みついていたので、京介は本気で息苦しくなった。死ぬ!と思った京介は、佐藤の腕を必死で振りほどき、バシャバシャともがいて立ち上がった。
「はぁ、はぁ、おい佐藤、いい加減にしろよ!マジでやばかったぞ。」
京介は息を切らせて佐藤に怒鳴った。
「ごめーん、ちょっとやりすぎた。バーベキューでテンション上がってたわ。」
すると佐藤が愛くるしい顔で謝ってきた。京介は佐藤にちょっかいをかけられるのは日常茶飯事だったので、それくらいのことはよくあった。佐藤もいたずら上手なところがあり、京介はいつものように大目に見てやった。まもなく残りの人たちも川に入って来たので、京介たちはその辺りで遊び始めた。
しばらく遊んだ後、京介はちょっと飽きて来たので、次の遊びとして岩場の上から川に飛び込んでみようと皆に提案した。京介たちのいる場所から少し上流に行くと、高さ数メートルの大きな岩場が対岸から突き出している場所があり、そこで数人が列を作って飛び込みの順番を待っていた。皆は京介に賛同し、岩場の方へ移動することにした。
近くまでやって来ると、京介はその岩場を見て驚いた。それは想像よりもかなり大きく、また奇妙に凸凹した形状をしており、まるで生き物のように今にも動き出しそうな印象を与えたのだ。図らずもその岩場が動き出した場面を想像し、京介は小さく苦笑いを浮かべた。
京介たちはジャンケンで岩場から飛び込む人を決めることにした。全部で七人いて、そのうちの負けた三人が飛び込みをする不運な人だ。京介を含め五人は余裕な感じだったが、佐藤と松本は落ち着かない様子だった。
「おい、マジであそこから飛ぶの?結構高いぞ。それに川底は大丈夫か?意外と浅いんじゃね?うわ、今飛んだやつなかなか上がって来ないぞ。」
松本は危険さを訴えるようにぼそぼそとしゃべっていたが、その努力も虚しくジャンケンの掛け声が始まった。
「さーいしょーはグー、」
余裕な五人がもったいぶって握り拳を突き出すと、佐藤と松本も仕方なくそれに続いた。
「ジャンケンポン!」
皆が一斉に七つの手を凝視すると、京介、佐藤、松本がチョキで、それ以外は全員グーだった。
「うわー、まじで無理!」
負けが決まった直後、佐藤は叫んでその場に座り込んだ。そして、なぜ自分が岩場から飛び込めないのかを言い訳がましく説明し始めた。しかし当然その説明は受け入れられず、佐藤は三人がかりで岩場の方へ引きずっていかれた。その様子を見て他の人たちは腹を抱えて笑った。京介は笑いながらも冷静にジャンケンの結果を分析していて、ゲームの言い出しっぺとそれをやりたくないと思っている人が大抵負けるんだなと思った。
岩場のてっぺんまで登るには、一度対岸の森の中に少し入り、それから岩場の方へ抜ける必要があった。ジャンケンに負けた三人は対岸まで泳いで行き、岩や木の枝を掴んで川から這い出ると、岩場に登るために少し森の中に入った。
森の中は上空を覆う樹冠によって薄暗く、そこに満ちる空気もじっとりしていた。京介はそんな森の方を見るのも嫌で、なるべく川の方に顔を向けていた。しかし実際に森を間近で感じたためか、怖いもの見たさというものがふと京介の心に芽生えた。京介はそれとしばらく戦っていたが、ついに根負けして、森の方をちらっと覗き込んでしまった。するとその直後、京介は森の奥から背筋のゾクゾクするような気配を感じ、反射的に「わっ!」と叫んで身を翻した。
「びっくりした!おい京介、脅かすなよ。」
隣で震えていた佐藤が怒鳴った。
「ここで脅かすのはやめろ!」
松本も佐藤に続いた。二人とも飛び込みを前にして余裕が無くなっているようだ。
「悪かった。」と言って京介は二人に謝ったが、自分もある意味脅かされたんだけどね、と心の中で呟いた。
「よし、いくぞ、もういくからな、あーでもやっぱ無理!」
三人目の佐藤は同じようなことを繰り返し叫ぶだけで、なかなか飛び込めなかった。一人目の京介は当然すぐに飛び込み、二人目の松本も意外とすんなり行けたので、それがプレッシャーになっているようだ。後ろに並ぶ人たちはあからさまに不機嫌な顔をしており、京介はその様子を見て佐藤が気の毒になった。
「おりゃー!」
五分程経って、佐藤はようやく変な叫び声とともに飛び込んだ。他の六人は半ば呆れた様子で佐藤を迎えたのだが、佐藤はまるで大役を果たしたかのように得意げだった。
「おーい、もうすぐご飯の準備できるよ!」
そのときちょうど知美が呼びに来たので、京介たちはバーベキュー場所に戻った。