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結3-①

「ここまで来てしまったけど、本当に大丈夫かい?」


 千代は廊下を浮かない顔で歩く知美に尋ねた。


「うん。もう平気。」

「そう。でも気分が悪くなったらすぐお婆ちゃんに言うのよ。」


 千代が知美の様子を気にしながら言うと、知美は幾分ぎこちない笑顔で応えた。


「分かってるよ、お婆ちゃん。」


 知美は約一ヶ月ぶりに外出し、千代と一緒に帝国医科大学病院を訪れていた。というのも、あの日以来、知美は京介を失った悲しみをどうすることもできずにいたのだ。知美がいつもの自分であろうとすると、すぐさま知美の心は悲しみでえぐられてしまい、途端に知美は泣き崩れてしまった。そうならないためには自分をもぬけの殻にするしか方法が無かったのだが、それさえ長く続けることは難しく、知美は約一ヶ月間ひたすら大泣きともぬけの殻を繰り返していた。そのため家の外に出ることも全くせず、大学が始まっても授業には顔を出さなかったが、それでも知美は徐々に落ち着きを取り戻していった。京介を失った悲しみは相変わらず知美の中に残っていたが、それにどう対処すれば良いのかが無意識のうちに確立され、いつしか知美の心は自然とその対処法を選択するようになっていたのだ。そうして知美はようやく外出することができるまでに回復したのだった。


 知美と千代は朝日の差し込む廊下を歩いていき、ある病室の前に止まった。扉の前には「原田武司」と書かれた札が見える。千代は何かを確認するようにちらっと知美を見て、その扉を開けた。するとそこには閑散とした室内に真新しいベッドが四つ置かれていて、それぞれに患者が当てがわれているようだった。


 知美と千代は患者の一人一人を確認しながらゆっくりと進んだ。そして一番奥の窓側のベッドへ視線を向けたとき、遠目からでもわかるほど痩せこけた武司が外の景色を見ながら横たわっているのに気付いた。二人はその場で足を止めた。千代は顔を歪め、そっと知美の方へ振り返ってみると、そこには涙を流した知美が口をもごもごと動かしながら立っていた。


「お、お婆ちゃん。」


 知美はふらつきながら千代の胸に顔を埋めた。千代は知美を優しく抱きしめ、そして思ったのだった。武司はこの一ヶ月どれほど苦しんだのだろうか。最愛の息子が目の前で人間を殺戮するのを見て気を失い、気が付いたときにはその息子が死んだという知らせを受けたのだ。それに遺体はまだ帰って来ておらず、直接さよならも言えていない。一緒に寄り添ってくれる妻もすでに他界してしまった。


 千代はそんなことを考えただけで寒気がし、胸が苦しくなってしまったが、武司はそれよりもっと酷い苦しみを感じているに違いない。千代は知美を抱きしめながら耳元で囁いた。


「原田さんに、会いに行けるかい?」


 知美は胸の中で小さく頷いた。今の武司に掛けてやれる言葉はあるはずもないが、それでも一緒に話しをすることに何か意味があるかもしれない、千代の頭にはそんな思いが浮かんでいたのだった。


 二人はお互いの顔を見て表情を整えると、武司のベッドに近づいていった。武司は二人の接近に気付くと、引きつった笑顔で声を掛けた。


「どうも。」


 武司の掠れた声は辛うじて二人の耳に届いた。二人は軽い会釈を返すと、千代が申し訳なさそうに話し出した。


「今、少しよろしいですか?」

「ええ、もちろんです。」

「原田さんが長く入院されていると聞いたので、心配になってお伺いしました。知美もだいぶ回復して、ここへ一緒に来たいと言いましたので、連れてきました。」


 すると武司は二人の顔を交互に見ながら言った。


「わざわざありがとうございます。」


 武司はあの日以来酷く体調を崩し、ずっと入院を続けていた。まともに食事もとれないほどで、何とか点滴で凌いでいるという状況だった。


「お身体の具合はどうですか?」


 千代が尋ねると武司の表情が一気に曇った。まるで知美と千代の存在を忘れ、自分の殻に籠ってしまったかのようだ。その表情が普段ベッドで寝ているときの武司の表情なのだろう。しかし武司は無理矢理笑って見せると、なけなしの力を込めて言った。


「だいぶ良くなりましたよ。早く身体を治して、京介をあんな風にしてしまった千気のことを調べないといけませんから。いつまでも寝ているわけには。」


 それを聞くと二人は言いたいことを飲み込んで相槌を打った。すると千代は手土産を持って来たのを思い出し、それをベッド脇の小さな机に置いた。


「あの、果物をいくつか持って来たので、良かったら食べてください。」

「ありがとうございます。」


 武司は先ほどと同じ笑顔でお礼を述べると、不意に二人へ質問を投げかけた。


「そういえば、事件について何か新しく分かったことはありますか?」


 その質問に知美が答えた。


「はい。いくつかあるのでお伝えします。」


 知美は家に引き籠っている間、竹田たちの捜査にはできる限り協力していたので、そのときに竹田からこっそり聞いたことを武司に話した。


 竹田が言うところによると、拓也に関しては、あの日病院に運ばれて間もなく死亡が確認されたそうだ。あれほど酷い状態だったので、むしろそれまで生きていたことが奇跡だったのかもしれない。


 千道に関しては少し詳しく教えてくれた。千道の両親はすでに他界していて、また千道の妻と子供も飛行機事故で亡くなっていた。両親と家族を失った千道は間もなく仕事も辞めてしまったのだが、ちょうどそのころに千武会を始めたそうだ。千武会を続けていく費用や千道の生活費などは、多額の保険金と両親の残した資産で十分賄うことができたようで、それ以来千道は千武会にのめり込み、大量殺人の芽を知らず知らずのうちに育てていったのだ。


 また、今回の殺人事件に関する捜査は近いうちに打ち切りになるらしい。ただ一人生き残った千武会員の谷本に話しを聞き、特に事件に関わった証拠も無かったので、これから捜査は縮小していく方向だそうだ。竹田は千気の正体を明らかにしていく必要があると考えていたので、とても悔しがっていた。


 知美がそれらのことを一通り武司に話すと、武司は残念そうに口を開いた。


「私も竹田さんと同じ意見です。あのような悲劇を繰り返さないようにするためには、千台遺跡のあの五体の人骨との関係も含めて、千気がどういうものか明らかにする必要があります。しかし警察の力が借りられないとなれば、私たちだけで調べていくしかありませんね。」


 武司はそう言った後、会話に疲れたのか大きなため息を付いた。知美はその様子を見て、武司の肩にそっと手を置いた。


「私もできる限り協力しますので、何かあれば言ってください。でもその前に、まずはおじさんの身体を元に戻さないと駄目ですよ。おじさんが倒れちゃったら元も子も無いんですから。」


 武司は知美の話しを聞いて、自分の心がふっと軽くなったような気がした。すると武司の表情も少し緩んだので、それに気付いた知美は自分の心も少し軽くなったような気がした。


「ありがとう、知美ちゃん。まずは自分のことを何とかしないとな。」


 武司はそう言って二人の方に顔を向けた。


「でも、二人が来てくれたおかげで、少し元気になりました。本当にありがとうございました。」


 武司の顔には以前のような笑顔が微かに滲んでいた。どうやら二人と会ったことで、武司の中で何かが大きく動き出したようだ。二人はそのことに安堵しつつ、笑顔で武司に応えた。するとそのとき、中年の女性看護師が日々の回診で武司のところへやって来たので、知美と千代は武司のベッドから一歩後ろへ下がった。


「原田さん、あまり長居しても悪いので、私たちはこれで失礼します。」


 千代がそう言うと、武司は少し疲れた表情で再びお礼を述べた。


「今日はありがとうございました。裕子さんにもよろしくお伝えください。」


 知美と千代は深く頭を下げ、静かに病室を後にした。

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