転1-④
京介は約束の時間になるまで待機しようと自宅に戻っていたのだが、ベッドの上で冷静に考えてみると自分の状況がとんでもなく滑稽に思えてきた。前回の月例大会まではある意味で楽しくやっていると思っていたのに、あれよあれよという間に玉山のラボへ潜入することになってしまったのだ。こんな急展開は一体誰が予想できただろうか。もっと言えば、京介はまだ千武会に入って一ヶ月ちょっとだというのに、もう千武会がピンチになり、その状況を救えるかもしれない大事な行動を取ろうとしている。しかもそれがラボへの潜入というハリウッド映画に出てきそうなミッションなのだ。京介は約一ヶ月前とそんな状況との落差があまりにも大きく感じられたので、ラボへ潜入するという非現実感が京介を滑稽に思わせたのだ。しかし沙希と一緒ならそんな滑稽と思えるミッションもなんとかなりそうな気がした。まるでハリウッド俳優気取りだ。沙希はヒロインだろうか。
京介がそんなことを考えていると、突然携帯が鳴った。携帯を確認すると、それは知美からのラインで「今家にいる?いるならそっち行ってもいい?」という内容だったが、京介は正直気が進まなかった。何せこれから千武会の今後を左右するミッションを実行するのだ。他のことに気を散らしている暇はない。そう思った京介は「今家にいるけど、この後用事あるから、今日はごめん。」と返信したのだが、知美がどうしてもと言うので「少しならいいよ。」と承諾の返事をした。
しばらくして知美が京介の部屋にやって来たのだが、知美は京介の姿を見たとき、その場で立ったまま動かなくなった。
「どうかしたの?」
京介が尋ねると知美は暗い顔で俯いてしまった。肩が微かに震えているようだ。
「どうしたんだよ。何か言いたいことがあるなら言えよ。」
京介が冷めた調子で言うと、知美は怯えながら弱々しく話し始めた。
「私がアメリカから帰って来た後くらいから、京ちゃんは変わっちゃったよ。」
「変わった?どこが?」
「じゃあ、何でこんなに部屋が汚いの?いつもあんなに几帳面に整えていたのにどうして?」
京介は自分の部屋を見回してみた。そういえば、確かにいつもより汚い気がする。
「それと、京ちゃん私に嘘ついたでしょ?その瘦せこけた外見は夏バテのせいなんかじゃない。」
俺そんな言い訳したっけなと思いながら、京介は知美の話しを聞いていた。知美は徐々に語気を強めながら言った。
「それに、京ちゃんは今まで私と寝るときはすぐ眠りに落ちていたのに、なんで寝られなくなったの?終いにはベッドから降りて床で寝てたでしょ。」
そんなこともあったような気がしたなと思った京介だったが、とりあえず言い訳の言葉を考え、それを口にした。
「それ、全部気のせいだよ。」
しかし知美はそんな言い訳を無視して言った。
「それにさ、さっき高橋君から聞いたよ。京ちゃんがおかしくなっちゃったって。」
すると京介は昼に高橋と会ったことを思い出した。
「高橋はそんなこと知美に言いやがったのかよ。あいつ、何か誤解してるだけだから気にすんなって。」
「京ちゃん、それは違うよ。誤解しているのは京ちゃんの方だよ。」
京介はそう言われて知美を見返した。
「何でだよ。」
「ていうか、何で分からないの?高橋君は京ちゃんの一番の親友でしょ。今まで一緒に苦楽を共にしてきたじゃん。それなのに、どうしてそんな高橋君に対して、全てにおいて無関心でいられるの?高橋君、京ちゃんは会っている間ずーっと心ここにあらずで、自分のことはまるで赤の他人みたいに思われていたって言ってたよ。」
「何でそんなことが高橋に分かるんだよ。別に関心持って高橋に接してたよ。」
知美は京介の言葉を聞くと、力なくうなだれて言った。
「誰だって分かるよ。京ちゃんのその顔を見れば。」
京介はそう言われた瞬間なぜか思考が停止してしまった。思考だけでなく、身体も言うことを聞かないようだった。そして京介は何かに導かれるように洗面台へトボトボ歩いて行き、鏡に映る自分の姿を見た。するとそこには、見に覚えのない人が全てに興味を亡くした顔で立っているだけだった。呆気に取られた京介は、一度身体を動かして確認してみたが、やはり鏡に映っているのは京介本人だ。
「誰だ、こいつは。」
思わずそう呟いた京介はひどく混乱していた。なぜなら、いつも鏡で見ている京介とは姿が全く違うのだ。何が起こったのか、何がどうなってこんな人間になってしまったのか。いや、目の前に見えているやつはもはや人間ですらない、そう思わせるほど不吉でおぞましい目。表情。それがこの俺なのか。京介はそう思った瞬間、恐怖のあまり立っていることができず、その場に崩れ落ちた。そしてその恐怖を紛らわすように叫んだ。
「一体誰なんだよ、お前は!」
その声を聞いた知美は京介のところへ駆け付けると、洗面台の前でうなだれている京介を発見した。しかしそんな京介を前にしても、一体何と声をかけたら良いのか知美には全く分からなかった。
「京ちゃん。」
知美はそう言うと、ただ京介に寄り添おうと思って京介の肩に手を触れた。ところが京介はまるで知美に触れられるのを拒否するかのように、勢いよくその手を振り払った。
「触るんじゃねぇ!」
知美が京介の言動に怯え切った表情を見せると、京介はまだ焦点が上手く合っていない目で知美を見た。知美はガタガタ震え出した。
「もう今日は帰ってくれ!」
「う、うん。分かった。」
知美は消え入りそうな声で言うと、急いで京介の部屋を出て行った。残された京介は洗面台の前でしばらく落ち着くのを待った。いや、もっと正確に言うならば、自分が混乱していて、そのせいで姿が違って見えているに違いない、だから落ち着けば元通りになるはず、そんな希望を胸に抱きつつ、ただ時間が過ぎるのを待っていたのだった。
しばらくして京介は恐る恐る立ち上がろうとした。未だかつて、これほどまでに立ち上がって鏡を見ることが恐ろしいと思ったことがあっただろうか。もちろんそんなことはあるわけがない。心臓が激しく音を立て、その音が京介の鼓膜を不気味に震わせていた。今にも吐きそうな気分だ。
京介はようやく立ち上がって、両手を洗面台の上に置いた。まだ顔は伏せていて、鏡を見ていない。しかし京介はここまで来て、一歩先に進む勇気が出て来なかった。たった顔を起こして目を開けるという動作だけなのに、それができないのだ。誰か俺に勇気を分けてくれ、京介は心の中でそう願った。神にもすがる思いで強く願った。すると京介の身体がその強い願望のためにぶるぶると震え出すのをきっかけに、京介は何かを予感し始めた。そしてその震えが最高潮に達したとき、突然心の中で何かが弾け飛び、ようやく京介はあることを悟ったのだった。そうだ、俺には千気があるじゃないか。壊れかけているかもしれないが、俺には千武会が付いているじゃないか。京介はそう思った途端、身体中に千気が漲って来るのを感じると同時に、それまでの恐怖や陰鬱とした気分は瞬く間に消えさり、あの恐ろしい自分の顔を鏡で再度確認する活力が湧いて来たのだった。
京介は拳を力いっぱい握り込むと、一気に顔を上げて鏡を見た。するとそこにはいつものやつれ気味な京介の顔があるだけで、あのおぞましい表情をした化け物の姿はどこにも見られなかった。京介は何度も強く瞬きしたり、顔もごしごし洗ってみたが、いつもの京介のままだった。そのことに胸をなで下ろした京介は、あれは一体何だったのだろうかと考えてみたが、すぐにどうでもよくなった。その問題は千気がすでに解決してくれたのであり、千気と一緒にいればあいつが姿を現すことはもう無いのだ。京介はそんなことを考えていると、不意に沙希との待ち合わせを思い出した。時計を確認するとそろそろ集合時間になるころだったので、京介は机の上にあったお金を握りしめ、駆け足で部屋を出て行った。




