起1ー③
京介が夕方近くにマンションへ到着すると、六階の角にある京介の部屋にはすでに明かりが灯っていた。エレベータが点検中のため、仕方なく階段で六階まで駆け上がると、京介は乱れた息を整えながら、眼下に広がる杉之原の街並みを眺めた。マンションの前を流れる川は近くで見ると汚くて泥臭い匂いを放っているのだが、六階から見える川はむしろ流麗で美しく、周りの人工的な景色に自然の力強さを与えているようだった。
京介が部屋の鍵を開けて中に入ると、武司がちょうど夕食の支度をしているところだった。
「京介か。おかえり。」
「ただいま。今日は早かったね。」
「ああ。明日から長期滞在だから、今日は早めに切り上げてきた。」
部屋の間取りは一般的な二LDKだったが、キッチンがかなり立派な作りになっていた。理由は簡単で、武司の趣味が料理だったからだ。武司は仕事で長期滞在しているときには料理をしないが、東京のマンションにいるときはよく料理を作って京介にふるまった。料理歴は長く、腕前はかなりのものだ。
「今日の夕食は何?」
「今日は飛鳥鍋だぞ。先月奈良に行ったときに食べたんだが、とてもおいしくてね。次の仕事でここを発つ前にどうしても作りたかったんだ。」
武司は発掘などの仕事で地方に行ったときは、その土地の郷土料理を食べることにしていた。そこでおいしい料理に出会うと、すぐに自分でも作りたくなってしまうので、仕事を終えた後に自宅でそういった料理を作るのがいつも楽しみだった。武司はよく「京介に振る舞うため」に郷土料理を作ると言っているが、それを口実にして自分で作りたいものを作っているだけではないかと京介はうすうす感じていた。
「これが飛鳥鍋ね。あとどのくらいでできそうなの?」
「二十分くらいだ。それまでもう少し待っててくれ。」
京介は几帳面な方ではあったが、武司ほどではなかった。武司が料理をするときは、レシピはもちろん、効率的な動作や後片付けのしやすさまで考慮して計画を練るので、料理が失敗することはほとんどなかった。武司が考古学者としてどんな仕事をしているのか知らなかったが、計画に従って正確に動く武司の調理姿を見ていると、京介は考古学者としての武司の仕事もこの料理のように正確なんだろうなと思った。
京介は一度自室に入り、二十分後に再びリビングへ戻ってみると、ちょうど夕食の準備ができたところだった。
「時間ぴったりだね。」
「まあな。料理だけが俺の取り柄だ。」
そう言って武司は笑った。
「それ嫌味?まあいいや、お腹空いたから早く食べよう。」
京介と武司は向かい合って座ると、静かに食事を始めた。二人は普段よく話をするのだが、食事のときはあまり話をしなかった。特に意識してそうしているわけではないが、お互い食べることに夢中になってしまい、結局話すことを忘れてしまう、というのが主な理由だった。そのため、食事中にあまり話をしないことがいつの間にか二人の暗黙の取り決めとなっていたのだ。
「父さん、コーヒー飲む?」
食事を終えた京介が、自分のインスタントコーヒーを淹れながら武司に尋ねた。
「ああ、淹れてくれ。」
二人はコーヒーを飲みながらリビングでくつろいでいた。そのとき京介は、ふとあの缶蹴り中に起きた出来事を武司に話そうと思った。
「そういえば、今日は大学のサークル活動の一環で缶蹴りをやってきたよ。しかも、場所は杉之原保育園の近くにある公園だった。」
「あそこで缶蹴りを?近頃のサークルは変わったことをやるんだな。」
「俺もそのサークルをよく知らないんだけど、確か、色々な体験を通して文化の本質を学ぶ、みたいな趣旨だったかな。」
「なるほどね。それで、缶蹴りを体験した感想は?」
京介はひとまず缶蹴りを開始してから秘密基地を思い出すところまでを話した後、当時のことについて武司に聞いてみた。
「ところで、父さんは俺が昔秘密基地でよく遊んだことを覚えてる?」
京介に尋ねられたとき、武司は京介がまだ小学校低学年だったころに妻と三人で行った箱根旅行のことを思い出した。そのときの幸せそうな京介を思い浮かべると、武司は少し目頭が熱くなるのを感じた。
「ああ、覚えているよ。京介はよく秘密基地に行くと言っては、遊びに出かけていたからな。」
「そうだったかな。」
京介は照れながらそう応えると、秘密基地に行って、当時と同じ奇妙な感覚を覚えたところまでを話した。妙に気恥ずかしかったので、「妖気」というフレーズは使わなかった。
武司は話しを聞いていて、京介がこんな楽しそうに何かを話すことはあまりなかったので、少し驚きつつも話の内容に興味を持った。武司はコーヒーを一口飲んで尋ねる。
「奇妙な感覚か。それはどういうものなんだ?」
「その秘密基地にいる間、不思議なエネルギーに包まれているみたいな感じだった。それと同時に自分の中から何か熱いものが湧いてくるのも感じたよ。それでその感覚に集中していたら、いつの間にか一時間も経ってて、他の人たちを心配させちゃったみたい。」
それを聞いて武司は笑いながら言った。
「そこまで京介を集中させる感覚か。俺もそれがどういうものか気になってきたよ。」
「父さんも気になるよね。俺、ちょっとその感覚を調べてみようと思ってさ。面白そうだし。缶蹴りからの帰り道になんとなくそう思った。」
「そうか。そういう直感は大事だと思うぞ。ちょっとその話とは違うかもしれないが、おれが遺跡調査しているとき、たまに違和感というか、自分の中で何か引っかかることが出てくる。つまり、直感的に何かを感じるんだよ。それでその直感に従って調査しているとな、驚くような発見につながることがある。不思議だろ。だから京介が感じた直感は、何か重要なことを伝えようとしているんだと思うよ。」
武司は元々感覚で行動するタイプだ。今でこそ遺跡調査や出土品の保管等でマネジメントの能力は鍛えられていたが、ここぞというときに頼るものはいつも直感だった。武司は京介も自分と同じタイプであることを感じていたのだ。
「ということは、父さんの息子である俺も、その直感に従っていればきっとうまくいくってことだね。」
「ああ。自分を信じて色々やってみろ。」
京介はマグカップを右手で握ったままだったのを思い出すと、まだ少し熱かったコーヒーを一気に飲み干した。
京介が入浴後に部屋でリラックスしていると、知美が京介の部屋を訪ねて来た。知美のマンションは京介のマンションから徒歩十分のところにあったので、夜になるとお互いの部屋を訪ねることがよくあった。
「いらっしゃい。上がって。」
京介は玄関を開けて知美を自分の部屋に通した。知美はいつものようにテレビを付けると、京介のベッドに潜り込んだ。
「本当に京ちゃんのベッドは気持ちがいいよね。それに快適にテレビも見れるし。まさに極楽だわ。」
「そうかな。別に普通だと思うけど。」
「京ちゃんはこの部屋に慣れちゃってるから分からないんだよ。」
二人はしばらくお笑い番組を見ながら話しをした。知美は漫才が大好きで、そのためかどうか分からないが、お笑い芸人の漫才を見ていると、あれやこれやと批評をし始める。純粋に漫才を楽しみたい京介にとってはいい迷惑で、そのときも漫才がテレビで流れ始めると、辛口なコメントが次々と知美の口から飛び出した。
「今のボケはなんか中途半端で、もっと具体性が無いとダメかな。あー、今の突っ込みのセリフはボケとちぐはぐしちゃってる。」
横で聞いていた京介は笑うに笑えなかったので、終いには自分も一緒になって批評し始める始末だった。漫才が終わった後、京介はそのことに関して知美に尋ねてみた。
「前から疑問だったけど、知美は何でそんなに漫才の批評が好きなの?」
知美は意外そうな顔で京介を見た。
「漫才の批評が好きなように見える?」
「うん。漫才を見ているときはだいたい批評してるから。」
「そっか。私、こう見えて実は漫才の批評が特に好きなわけでもないんだよね。昔からそうなんだけど、漫才に関して自分なりの基準みたいなものがあって、見ている漫才がその基準から外れると、何だかむず痒いというか、うずうずしてきちゃうの。だから、あんな風に批評っぽく独り言をしゃべってると気が紛れるの。」
京介が驚いた様子で知美を見ると、知美はさらに続けた。
「でも、感じたことを適当にしゃべってるだけだから、別にすごいものじゃないよ。隣で聞いてて迷惑だったら言ってね。控えるから。」
それを聞いた京介は、冗談っぽく笑いながら言った。
「わかった。控えてほしいときは言うよ。たまには思いっきり笑いたいからさ。」
「あー、やっぱり笑えなかったか。」
そう言って知美は頭を掻いた。
お笑い番組が終わると、京介は突然眠気に襲われた。缶蹴り中に色々あったせいか、京介の身体はひどく疲れていたようだ。知美は京介が眠そうにしているのを見て、布団の中に京介を促した。
「京ちゃん、今日はもう寝よう。私も疲れたし。」
「そうだね。もう寝るか。」
京介は電気を消して知美の横にもぞもぞと入った。布団の中はすでにちょうど良い温かさになっていて、隣に温かさの源が横たわっているのを感じた。
「おやすみ。」
京介は知美の耳元で囁くと、知美が良く寝られるように態勢を整えた。しかし、そうしているうちに強い眠気が襲って来て、京介はあっという間に眠りに落ちてしまった。知美は京介の寝息を聞きながら、微かに見える京介の顔を嬉しそうに眺めた。