承3-②
これが沙希の記憶にある千道との出会いであり、千道が千武会をスタートさせるきっかけとなった出会いでもあった。あの公園で千道が沙希の右手を強く握ったときに沙希へ流れ込んだものが昔の千道の純粋な千気であり、その千気の印象があまりにも沙希の心を深く感銘させたので、約五年経っても沙希は千道との出会いをよく覚えていたのだ。もちろん、そのときに感じた幸せな気分も覚えていた。
沙希が千道に感じている不安はまさにその昔感じた千道の千気が発端だった。千道が千武会を始めたのは沙希と初めて会ってから少し後のことで、そのころから千道の千気は凶暴で圧迫感のあるものだったが、それはあくまで表面的なものであり、その根底にあるのはあの公園で沙希に流れ込んできた純粋な千気だった。
しかし千武会での修行を重ねるにつれて、千道の純粋な千気は少しずつ変化していることに沙希は気付いてしまった。それも優しさや穏やかさなどの沙希が大好きだったものから、狂気や快楽の類への変化だった。最近ではその変化を他の人に僅かでも悟られたくないと思ったのか、千道はクールダウン時に行う千気のストレッチも行わなくなっている。
もちろんこのような千気の変化だけでは、千道に対する不安を今のようにひどく煽るところまではいかなかった。ところが、沙希はその不安をさらに煽るような点に気付いてしまったのだ。それは、その変化と組手が開始されるタイミングが奇妙な一致をしていることだ。千道の千気が変化していったといっても、その変化量は千武会が始まってしばらくはごく少量だった。そのためその変化を感じられる者は、千武会を始める前の千道を知っていて、かつ千気の感知能力に人一倍優れていた沙希だけだったのだが、その沙希ですら千武会が始まってしばらくの間はその変化を感じ取ることはできなかった。
ところが、始めのころは行っていなかった組手が千道の提案により不定期で開催されるようになった三年ほど前の時点から、その変化がごく稀に微かな違和感として少しずつ感じられるようになり、その不定期開催していた組手が月例大会として開催されるようになった一年半ほど前の時点からは、その変化がしばしば沙希の意識に引っかかるようになっていったのだ。そのことに気付いた沙希は、変化した千道の千気が語るような欲望を貪るために、千道は組手を始めたのではないかと疑うようになった。
さらに沙希を不安にさせたことは、京介と拓也の組手と、その後の千道と沙希の組手だった。千武会の目的やルールを考えれば、千武会は当然千武会員が自由に修行でき、各自がそれぞれのペースで成長をしていける場所であるはずなのに、千武会員の成長を早く見たいという千道の個人的な理由でその千武会員を危険にさらしてまで強引に短期間で成長することを強いたのだ。それによる影響が派生して千武会員も一人辞めてしまったかもしれない。
そういったことはそれまでに無かったので、沙希は約一ヶ月間なぜ千道が京介と拓也にそのようなことをしたのか分からず、ひどく混乱していた。しかし京介と拓也の組手が行われたとき、沙希は偶然にもその理由を理解してしまった。つまり、京介と拓也のそれぞれが組手中に自身の成長をはっきりと示すような攻撃を繰り出したとき、千道が興奮のあまりわずかに千気を漏らしていて、千道の隣で組手を見ていた沙希はその漏れ出た千気の中に快楽や狂気といった類の片鱗を感じ取ってしまったのだ。
そして決定的だったのが、二人の組手の後に行われた千道と沙希の組手だ。沙希はその組手の最中、沙希の成長を体感した千道が放った千気の中に殺意のようなものを感じ取ってしまったのだ。それはおそらく、暴力的行為による快楽や狂気を貪るために当然現れるべくして現れたものであって、沙希を怯ませるには十分なものだった。怯んだ沙希に千道が馬乗りになって顔面の横に拳を振り下ろす瞬間、沙希は本当に殺されると思ってしまった。
そのようなことが起こったので、沙希は千道が千武会を自分の恐ろしい欲求を満たすために利用するような悪魔に変わってしまったのではないか、という不安を感じ始めたのだ。
身体のストレッチを終えた沙希は、そんな不安を抱えながらも京介の様子を見に医務室へ向かった。医務室に入り、京介が起きているのを確認すると、沙希は京介に話しかけた。
「京介君、身体の具合はどう?」
「ああ、だいぶ良くなったよ。もう大丈夫だと思う。」
すると沙希は恥ずかしそうに話し始めた。
「拓也さんとの組手、本当にすごかった。京介君の使ったあの千気の技は、たぶん私の使っているのと似てる技だと思う。京介君のは私のより数段高いレベルだけど。千気のコントロールが高いレベルにあって初めてできる芸当だと思う。」
「そうなんだね。なんか沙希に褒めてもらえるとすごく嬉しいよ。」
京介の言葉に沙希は顔を赤らめた。
「俺さ、沙希に感謝しないといけないんだ。実は、拓也さんの圧倒的な強さを前にして、勝つことをあきらめかけていたんだよ。そのとき、たまたま沙希が視界に入って、それで組手前に沙希に言われたことを思い出したんだ。それがきっかけであの技を発見することができたんだよ。本当にありがとう。」
沙希はそれを聞いて、千道に対する不安を感じつつも、心の中が素敵な気持ちで満たされていくのを感じた。沙希はとても幸せな気分になったので、まるであの時と同じような気分だなと思った。
京介と拓也の組手が行われた月例大会の翌日、沙希は千道に朝一で道場に来て欲しいと頼まれていたので、千道の様子を観察する目的も兼ねて道場に来ていた。沙希は道場の下駄箱に靴を入れようとしたとき、その下駄箱に見慣れない靴が入っているのに気が付いた。当然千武会員以外は道場にほぼ来ないので、沙希は誰が来ているのか興味を持った。ひょっとしたら新しい千武会員だろうか。緊張しつつ沙希が道場に入ると、そこには千道の他に見覚えのある男が立っていて、ちょうど二人で話しをしているところだった。沙希は近づいて確認すると、ようやくその男が誰なのか思い出した。その男は少し前に千武会に入会した玉山だった。玉山は入会してから全くと言っていいほど千武会に顔を出さなかったので、沙希も玉山とは一度しか会ったことがなく、どんな人かもほとんど知らなかった。
「おう、沙希か。」
千道が沙希に気付いて声をかけると、玉山も沙希の方に振り返った。
「渡辺さん、お久しぶり。」
玉山の冷たい印象を与える声を聞いたとき、沙希は玉山のことが苦手だったのを思い出した。沙希は笑顔を作って玉山の挨拶に応えた。
「お久しぶりです。」
玉山は見た目が四十代後半かそこらで、細身だか百七十センチ後半の上背はありそうな体格だ。眼鏡の奥には細く見開かれた目が光り、均整の取れた顔立ちからはむしろ冷徹な雰囲気が伝わって来る。玉山は生理学関係の研究をしている科学者らしく、その日もピシッとしたジャケットとスラックスを着ていた。沙希はそんな玉山の話し声や表情が好きになれず、初めて会ったときから苦手意識を持ってしまったのだ。
千道は沙希と玉山が挨拶を交わしたのを見ると、早速本題に入った。
「単刀直入に言うぞ。まだこの三人だけの秘密にしといてもらいたいんだが、今日沙希に来てもらったのは、俺と玉山さんの千気に関する研究に協力して欲しいと思ったからだ。」
沙希はその言葉に驚き、反射的に聞き返した。
「え、どういうことですか?」
「順を追って説明するから、とりあえず場所を移動するぞ。」
千道はそう言って沙希を玉山の車に強引に乗せた。千道と沙希が後部座席に座ったのを確認すると、玉山は静かに車を走らせた。
沙希が困惑した表情をしているのを見て、千道は口を開いた。
「悪いな、無理矢理引っ張って来ちまって。ただ、どうしても玉山さんの研究室を実際に見てもらった方が良いと思ってな。」
沙希がまだ困惑しているのを見て、千道はさらに続けた。
「早い話が、千気をもっと科学的に調べたいってことだ。つまり、千気とは何か、どういう物質なのか、どういう性質を持つのか、千気により身体にはどんな反応があるのか、どんなメカニズムで千気が放出されるのか、なぜ千気が生まれたのか、そういった問いに答えを出す研究をしたいのさ。それで玉山さんに協力してもらってその研究をするんだが、それに沙希も協力して欲しいってことだ。」
沙希はその話しを聞いて、少し興味が湧いたのは事実だった。これまでは千気を修行の対象としてしか見ていなかったが、千気に科学的なメスを入れてみるのも面白そうだ。しかし、話しがあまりに大き過ぎて、千気が世の中にばれてしまうリスクを高めるだろうし、他にも色々と弊害が出てきそうだった。沙希は正直、そういう状況なのになぜ千道がそこまでその研究を進めたいのかよく分からなかった。沙希は気になったことを率直に伝えた。
「そのプロジェクトはとても興味深いと思いました。ただ、それはすでに千武会の範疇を超えています。それに千気の研究をすれば、世の中に千気がばれてしまうリスクを高めると思います。」
それを聞いて、運転席にいる玉山が言った。
「その点はご心配なく。私の個人ラボでやればまずばれることはありませんし、千武会の範疇で研究することは可能です。」
玉山の話しを聞いた沙希だったが、やはりモヤモヤした思いは拭えなかった。たとえ研究は千武会の範疇で進められるとしても、その研究自体の目的は何なのだろうか。まさかその研究によって自己を高めるわけではあるまい。その点も正直に伝えてみた。
「リスクに関しては分かりました。しかし、千武会のそもそもの目的からみれば、その研究は『自己を高める』という目的の範疇からは外れてしまうような気がするのですが。」
それに対して今度は千道が言った。
「研究の成果は全て千気の修行に反映されるから、千武会の目的から外れることは無い。そこは大丈夫だ。」
千道は少し間を置いて続けた。
「協力してくれるか?沙希?」
「分かりました。協力します。」
了承の返事をした沙希だったが、まだ千道のことを完全に信用することはできなかった。




