起1ー②
「あ、京ちゃんこっち!」
京介が近所の公園に到着したとき、知美が遠くから手を振って京介を呼んだ。京介は知美を遠目に見ながら公園の中を一望すると、公園の雰囲気が昔とほとんど変わっていないことに気が付いた。広い公園の中央には大きな砂場があり、その砂場を囲むようにいくつかの遊具が備え付けられている。砂場やそれらの遊具は十年以上の歳月をものともしないようだ。
砂場の向こう側には青さびの付いたブランコが4つ並んでいた。左端のブランコは相変わらず横にねじれたままになっていて、乗っても真っすぐに漕げないのだが、それが逆に不思議な乗り心地を引き起こしたので、京介はそのためによく左端のブランコに乗っていたのを思い出した。
京介が特に好きだった遊具は、ブランコの隣にある回旋塔だ。京介はその回旋塔を見たとき、昔友達の一人を回旋塔に掴ませ、他の皆で回旋塔を勢いよく回し、誰が一番長く掴まっていられるかを競ったことを思い出した。そのとき一番長く掴まっていたのはいつも知美だった。
他にもジャングルジムや滑り台や鉄棒も昔と変わらない様子だった。ただ一つ変わってしまった点は、備え付けられていたトイレが新しくなっていたことだ。京介はあの汚くて近寄りたくもなかったトイレでも、昔の面影を失っていることに対してなぜか寂しく思う気持ちが芽生えてくるのをおかしく思った。
京介は懐かしさを感じながら皆の集まっている砂場付近に近づいていった。缶蹴りに集まった人は全部で十一人で、これだけの人が集まれば缶蹴りも面白くなるに違いない。
京介が砂場に到着すると、文化サークルのリーダーである高橋が口を開いた。
「京介も来たね。じゃあそろそろ缶蹴り始めるか。」
高橋は一七0センチ後半の上背があったが、痩せていてひょろひょろとした印象の男だ。それに眼鏡も掛けていたので、いかにも優等生といったタイプに見えるのだが、それと同時に後輩の面倒見が良く、憎めないタイプでもあった。当然皆から慕われている。
そんな高橋と京介は大学一年のときからの付き合いだ。京介のいる大学では、大学一年の間は同級生と寮生活をすることが義務付けられており、高橋と京介はたまたま寮のグループが同じだったので、お互い話すようになった。高橋はすぐに京介と意気投合し、今では京介の数少ない親友の一人だ。
「まずは鬼決めのジャンケンね。」
高橋の言葉でジャンケンを始めると、不運にも知美が鬼になった。知美は「えーっ」と声を上げたが、まんざらでもなさそうだ。
「じゃあ次は缶を蹴る人ね。」
高橋はそう言って一瞬考える素振りを見せたが、すぐに元サッカー部だという理由で缶蹴り役に京介を指名した。京介はしぶしぶそれに応じたのだが、せっかくだから缶を思いっきり遠くに飛ばしてやろうと思った。そして、京介はまるでスタンドにホームランするかのように空き缶を空中に蹴り上げ、ゲームはスタートした。
京介は思いっきり蹴り上げた瞬間、その空き缶と同様に自分の心も飛び上がったような気がした。心臓の鼓動が激しく高鳴り、全身がムズムズして落ち着かない。まるで散歩の気配を感じ取った犬のように京介の身体が暴れ回っているようだ。そして京介は、空き缶が地面に落ちたときにはすでに童心に返っていた。地面を蹴る足が軽やかに京介を運んでいく。
隠れる場所を探して走り回っている間、昔の記憶が次々と京介の頭に湧いて来た。公園を理由もなく走り回ったことや、友達とけんかして泣きながら家に帰ったこと、知美と駄菓子屋でお菓子を盗んだのが見つかって、全力で走って逃げたことなどが、ついこの前のように思い出される。京介はそれらの思い出をしみじみと感じたとき、今の自分が忘れている大切なことを取り戻したような気がした。
すると京介は、ふと公園の近くにある、昔よく遊んだ秘密基地のことを思い出した。再び懐かしさが京介の中に広がってくる。しかしそのとき、京介はそれを感じるや否や、他にも多くの記憶が頭をよぎったにもかかわらず、なぜかその秘密基地が妙に気になってしまい、そこへ行かずにはいられなくなった。京介は向かっていた隠れ場所を走り抜けると、そのまま缶蹴りをほっぽり出して秘密基地に向かった。
秘密基地は三平米くらいしかないボロボロの物置小屋のことで、公園の隣りにある光明神社の敷地内に建てられている。京介は小学生のころ友達と一緒に遊ぶのが好きだったが、たまには一人になりたくなる時があった。そんな時は秘密基地に来て空想の世界に浸るのが京介の楽しみだったのだ。
走り疲れた京介は、光明神社の裏を通る車道で足を止めた。光明神社は敷地の大部分が雑木林に覆われていて、京介のいる場所からはほとんど木々や雑草しか見えなかったのだが、京介は額の汗を拭って雑木林の中を覗き込んでみだ。すると、ごちゃごちゃした枝葉の向こう側に秘密基地らしいものがちらりと姿を見せ、直後に当時の楽しい気持ちが京介の中で蘇ってきた。京介はそのとき具体的な記憶を思い出せなかったが、それでも楽しいという感情はしっかりと記憶されているようだ。人間の記憶とは本来そういうものなのだろう。何をやったかというのはそれほど重要ではないのだ。
そんなことを思いながら秘密基地の方を見ていると、不意に秘密基地へ来るたびに感じていた、ある不思議な感覚を思い出した。当時流行っていた漫画に、「妖気」というエネルギーを操る魔物と人間の戦いを描いたものがあり、その漫画が好きだった京介は不思議な感覚のことを「妖気」と呼んでいた。
あの「妖気」は一体何だったのかと京介は疑問に思った。それはちょうど、誰かに見られているような気配に感じられたり、それでいて身体の中から湧き上がる何かであるようにも感じられたのだが、京介はどうしても「妖気」を上手く形容することができなかった。いくら身体が覚えているとはいえ、十年以上も前のことになると、記憶の所々に歪が潜んでいるようだ。
「妖気」のことで悶々としながらも、京介は秘密基地へ近づこうとした。するとそのとき、京介の頭に昔辿った秘密基地への行き方が突然湧いて来た。そこへ行くには、幅二メートルほどの狭い車道をしばらく進み、不細工な恰好のクヌギを目印に雑木林へ入って行けばいい。その先にあの秘密基地があるはずだ。
京介はクヌギのところまで足を運んでみると、当時の感覚が自分の身体に蘇って来るのが分かった。相変わらず上手く形容できなかったが、それは紛れもなく「妖気」だ。京介は突然の出来事に驚いたが、同時にとても嬉しい気持ちになった。思い出となっていたものが、それと分かる状態で再び現実に戻って来たのだ。これほど感慨深いものはなかなか無いだろう。
秘密基地を遠くに見据えながら、京介はそのクヌギに手を掛けた。そして勢い良く雑木林に足を踏み入れてみると、枯れ枝を踏み鳴らす音がバキバキッと周囲に広がり、雑木林の滞った空気を微かに震わせる。その直後に地面から冷えた空気が立ち上り、京介の上気した身体を包み込んでいった。なんて気持ちの良い空気だろうかと京介は思った。冷気がスッと汗を引かせ、腐葉土の仄かな香りが何とも心地良い。
微かな衝動を感じた京介は、やたらと足を踏み鳴らして歩いた。バキッ、バキッ、バキッとテンポの良い音が響き渡ると、周りの空気がそれとともに循環し始めた。その様子はまるで眠っていた雑木林が覚醒していくようだった。そして京介がようやく秘密基地の前に着いたとき、京介の鼓動は全身を打ち鳴らすほど高鳴っていた。京介にはそれが「妖気」によるものなのか、それとも秘密基地の懐かしさによるものなのか、はたまた雑木林の自然によるものなのかよく分からなかった。
京介はゆっくりと秘密基地の中を見回してみる。しかしそこは雑草が生い茂る荒地のようになっていて、人の手が介入した形跡は全く見られなかったが、京介はそんな秘密基地の中に少し留まってみようと思った。足元に座れそうな場所があったので、そこに生えている雑草を踏み固め、静かに腰を下ろしてみる。すると草や土の匂いが京介の鼻を刺激し、それによって京介はあの頃の秘密基地へ強く引き込まれた。まるで過去と現在がシンクロしていくようで、それぞれの記憶や「妖気」の感覚といったものが京介の中で統合されていくように感じられた。
しばらく時間を忘れて秘密基地に座っていると、京介は突然自分が缶蹴りの途中でここに来ていることを思い出した。腕時計を見るとすでに缶蹴りの開始から一時間以上経っていた。早く戻った方が良い。皆が心配しているかもしれない。そう思った京介は、名残惜しさを感じつつその場を後にした。
「もう、京ちゃんどこに行ってたの?みんな心配してたよ。」
公園に戻った京介に知美が声をかけた。
「ごめん、ちょっといろいろ隠れる場所を探していたら、懐かしい気持ちになっちゃって、昔遊んだ場所とかを見て回ってた。」
「なんだ、そうだったの。」
「ああ。それでさ、昔よく遊びに行っていた秘密基地があってね。それを見たとき、昔秘密基地で感じていた奇妙な感覚を思い出してさ。しかも秘密基地の中に入ったらね、実際にその昔の感覚と同じものを感じたんだよ。とても不思議な体験だった。」
京介が興奮して話すのを見ると、知美は嬉しくなって京介に尋ねた。
「それはどんな感覚?」
「うまく表現できないんだけど、四方八方から誰かに見られてるような感覚と、それに連動するように自分の中から何か熱いものが湧き出てくるような感覚だったよ。その感覚のせいか分からないけど、秘密基地にいる間、不思議なエネルギーの中を漂っているみたいだった。」
それを聞いた知美は、京介の顔を覗き込んで言った。
「やっぱり京ちゃんは変わってるね。」
京介は笑って応える。
「今に始まったことじゃないだろ。」
「確かに。」
知美は京介の一種独特な感じが好きだったので、よく京介にいろいろと質問をして、自分には想像もできないような事柄を京介の中から引き出そうとした。京介も知美とのそんなやりとりが嫌いではなかった。
だいぶ日が暮れてきて、そろそろ缶蹴りも終了の時間だった。最後の一人が鬼に捕まり、皆が次の行動をお互いに探りあうような素振りを見せたとき、高橋が人の輪の中から一歩前に出た。
「じゃあ、今日の文化サークルはこれでお開きにしようか。皆が真剣に缶蹴りをやってくれたから、今日は本当に楽しくて有意義な時間を過ごせたと思う。皆ありがとう。次回の予定もラインで連絡するから、よろしくね。じゃ、解散。」
その後、京介と知美は駅に向かって一緒に歩き出した。知美が京介の姿をちらちら見ると、そこには午前中のような雰囲気は無く、逆に活き活きとした様子がはっきり見て取れた。知美はそのことに少し安堵し、何気なく京介に話しかける。
「元気、出たみたいだね。」
「ああ。今朝からの暗い気分はすっかり晴れたよ。誘ってくれてありがとう。」
知美は京介のお礼を聞くと、綺麗な白い歯を見せて言った。
「どういたしまして。」
京介は知美と一緒に歩きながら、特に印象的だった秘密基地での体験を思い返していた。すると、改めて「妖気」に対する好奇心が湧いて来て、京介は自然と笑みを浮かべるのだった。