承2-①
翌日、京介は夕方から千武会の道場へ向かっていた。高山のバス停から昨夜と同じ道を歩いて道場の前にやって来たのだが、京介は道場が昨夜の活気ある様子とは全く違っていることに驚いた。というのも、目の前にある道場は水を打ったように静かで穏やかだったので、そのせいか一瞬前日とは別の道場に来てしまったのではないかと疑ったほどだった。しかしそれでも道場の中にははっきりと千道の存在も感じられ、そのことが京介にはひどく不気味に思えた。
京介が道場の中に入ると、千道が道場の中央にポツンと立っているのが見えた。千道の他には誰もいない。京介は千道に声をかけようとしたのだが、そのとき千道の様子にどこか違和感があるのを感じ取った。京介は道場の脇に腰を下ろして千道の様子をしばらく観察していると、どうやら千道の千気が滑らかに変化していっており、それが違和感の正体のようだった。さらに京介が驚いたことに、その変化の様子というのは実に流麗で、まるでドビュッシーのアラベスク第一番を聞いているような心地良さを京介に与えていたのだ。京介が目を閉じてそんな千道の千気を感じていると、徐々に不思議な高揚感が身体全体を満たしていった。
京介が少しの間その高揚感を楽しんでいると、突然千道の千気が動きを止めた。京介はそれに気付いて目を開けると、ちょうど千道と目が合った。京介は立ち上がって会釈をする。
「よう、京介じゃねーか。いるなら言ってくれよ。」
「すみません。つい千道さんの千気に聞き入っちゃって。」
すると千道はそれにびっくりしたのかしばらく目を丸くして京介を見た。
「お前、もしかして俺の千気の動きが感じられたのか?」
「何となくですけど。」
「本当お前の才能には恐れ入ったよ。今俺がやっていたのは自分の千気をコントロールする修行で、普通は自分自身の千気のコントロールがある程度できるようになるまでは、他人の千気の動きなんてほとんど分からないんだぞ。」
「はぁ。」
京介が気の無い返事をすると、千道は仕切り直して言った。
「全くお前の今後が楽しみだよ。今日から俺がみっちり鍛えてやるから覚悟しとけ。」
「はい、よろしくお願いします。」
千道は京介の返事に頷くと、道場の脇に置いてあったホワイトボートを京介から見える位置に移動させた。そして、黒のマーカーを使ってホワイトボードに大きく何かを殴り書きした。書かれた言葉は「秘密」、「道場外での使用禁止」、「自己責任」の三つだった。
「千武会にはここに書かれた三つのルールがある。一つ目は千気や千武会に関するあらゆることを秘密にすること。二つ目は道場以外では千気を使用禁止とすること。三つ目は修行中に何か不幸なことが起こるかもしれないが、そういったことは自己責任で修行をすること。これら三つのルールが守れなければすぐに千武会を退会してもらう。もちろん千武会や千気、俺たちのことは全く知らなかったこととしてな。」
「分かりました。」
「逆に言えば、これら以外は自由だ。月謝も払わなくていいし、勝手に道場に来て修行してもらってもいい。まぁ、俺は朝から晩まで毎日道場にいるから、一人だけでここで修行することはあまりないと思うが。」
千道はそう言って再びホワイトボードに何かを殴り書きした。そこには「目的」、「自己を高めること」の二つが書かれていた。
「次に千武会の目的だけどな、自己を高めること、それだけだ。千武会ではひたすら自分の千気と向き合い、それを自分なりに高めていくんだ。その過程でお前は多くのことを学ぶだろう。これが千武会の目的だ。ここまでで何か質問あるか?」
「じゃあ一つだけ。これまでに千武会を退会した人はいるんですか?」
「今のところゼロだ。俺が千武会に勧誘するやつを選定してるわけだが、なかなかの目利きだろ。皆信頼できて、千気の能力的にも優秀なやつらだ。」
そう言って千道はホワイトボードをひっくり返した。
「それじゃあ次に、これまでに分かっている千気の知見について教えるぞ。」
実は京介は千気のことを色々聞きたくて堪らなかったので、それがようやく聞けると思うと興奮してきた。
「千気の歴史はまだ五年ちょっとなんだが、その間に千気に関して色々なことが分かってきた。本当に千気は興味深いぞ。」
千道が千気のことを話すときの目は子供のように輝いていたので、その目を見ていると京介は父親の武司が考古学に関して話している姿を連想し、千道に対して少し親近感を覚えた。千道はそんな京介の様子を見て言った。
「千気の修行として本来最初に行うことは、千気を習得するための修行だ。お前はすでに千気を習得しているから、やる必要はないけどな。」
京介は苦笑いをしながら相槌を打った。
「その修行の末に晴れて千気を習得すると、ご存じのように千気が使えるようになる。」
千道はそう言ってホワイトボードに「千気の機能」、「強化」、「感知」と殴り書きした。
「俺らが千気って呼んでるものの実態はまだよく分かっていないが、身体を覆っている液体みたいな摩訶不思議な物質が千気の主要な部分であることは間違いない。」
すると千道はごく微量の千気を自分の身体に纏った。
「千気には大きく分けて、二つの機能がある。一つ目は強化機能だ。実際に目に見える訳じゃないと思うが、今俺が纏っている千気を感じることができるだろ?俺たちはこの千気を自在に操ることによって身体を強化することができる。」
千道は京介が頷くのを見ると、話しを次に進めた。
「二つ目は感知機能だ。察しは付いていると思うが、お前は千武会の入会テストのとき、この感知機能を使って俺の居場所を発見したわけだ。ここまでで何か質問は?」
「大丈夫です。」
「よろしい。じゃあ一つ目の強化機能について詳しく説明する。強化機能を例えるなら、まぁ防弾チョッキみたいなものだ。しかしそれとは比べ物にならないほど高機能だぞ。」
千道はそう言うと突然強い千気を放出した。京介はそれに驚いて少し怯んだ。
「京介、俺を思いっきり蹴ってみろ。」
予想外の指示に京介は思わず聞き返した。
「え、思いっきり蹴るんですか?」
「ああ。いいから思いっきり蹴ってみろ。お前元サッカー部だから蹴りには自信あるんだろ?ん?」
千道の挑発的な表情に少しイラっとした京介は、本気で蹴ってやろうと思った。
「分かりました。じゃあ、思いっきりいきます。」
京介は見様見真似で格闘技風の構えを取ると、千道の左太腿めがけて渾身の右ローキックを放った。すると一瞬の間を置いて京介の右足が千道の左太腿に直撃したのだが、そのとき京介は分厚い布のようなものを蹴った気がして、あまり手ごたえを感じなかった。
「千道さん、これは?」
京介が狐につままれたような顔をしていると、それを見て千道が笑い出した。
「ははっ。予想通りのリアクションだな。そう、これが千気の強化機能だ。千気が物理的に盾となって身体を守ってくれるんだよ。しかも千気は身体全体を覆っているから、今みたいにお前の蹴りの威力を身体全体に分散させて、上手いことその威力を逃がしてくれるってわけ。」
「す、すごいですね。」
「それだけじゃないぜ。千気の密度を高くすると、それに応じて防御力もどんどん高くなる。修行することで千気の最大密度を高めることができるから、鍛えるほど防御力を高められるってわけよ。当然、千気の密度のコントロールは自由自在だ。」
京介の驚いた顔を見ながら、千道は話しを先へ進めた。
「まだあるぞ。今は防御の話ししかしてなかったが、千気は攻撃にも有効に働く。お前は昨日の俺たちの組手を見ているから分かると思うが、あの奇想奇天烈な身体能力のことだ。」
すると千道は道場の中央に向かって歩いて行き、京介との間に少し距離を取った。
「俺がさっき言ったことを覚えているか?千気の密度を自由自在にコントロールできるって部分だ。千気の密度を自由自在にコントロールできるってことは、身体の動きに合わせて筋肉みたいに千気を収縮、膨張できるってことだ。例えばこんな風にしゃがんだ状態で足の千気をうまく収縮させ、一気に膨張させてやると、こんなこともできる。」
そう言って千道はしゃがんだ状態から一気に自分の両足を伸長させた。そのときの両足の動きは京介が知っている人間の動きとは微妙にずれているように感じられ、そのために非人間的な不気味さを京介に与えた。しかしそれは一瞬の出来事だったので、京介がその不気味さに浸る間もなく、次の瞬間には千道の身体は五メートル程の高さまでふわりと浮き上がっていた。そして上空の一番高い位置で一瞬静止した後、地面に向かって徐々に加速し、再び元いた場所に着地した。千道は間抜けな顔をした京介の前に戻って来て、次の話しを始めた。
「この動きは一見簡単そうに見えるんだが、実際にやってみるとかなり難しいぞ。何せ、人間の筋肉の動きを千気で真似するようなもんだからな。繊細な千気のコントロールが必要になる。」
京介は混乱しつつも一生懸命頭を働かせた。
「だから先ほど千道さんがやっていたような千気のコントロールの修行が重要になってくるんですね。」
「ああ、そうだ。攻撃力を効果的に高めようと思ったら、ただ千気の密度を高めるだけでは不十分ということだ。パンチやキックなどのあらゆる攻撃手段に対して正確に千気をコントロールすることで、初めて望む攻撃力が手に入るってわけだ。」
「なるほど。」
「もちろん、攻撃力に関して千気の最大密度を高めるのも大事だぞ。例えば壁にパンチするとき、たとえ千気を上手くコントロールしてパンチを高速で打ち出したとしても、拳や手首を覆う千気の密度が低ければお前の手は粉々に砕けちまうからな。だから両方バランス良く鍛えるのが大事だ。」
「分かりました。」
京介が返事をすると、千道は黒のマーカーを手に取って、再びホワイトボードに何かを書き始めた。千道がマーカーを置いて京介の方に振り返ると、ホワイトボードには「密度(力強さ)」、「コントロール」、「バランス」という言葉が追加されていた。
「ちなみに、千気の密度と言う代わりに、千気の力強さとも言うから覚えといてくれ。」
「はい。」
「あと、千気の強化機能の修行に関しては、千気の力強さとコントロールを高めることが修行の基本となるからな。以上が千気の強化機能についての説明だが、何か質問あるか?」
京介は少し考えた後、前日の組手で気になっていたことを質問した。
「そういえば、昨日の千道さんと沙希の組手のとき、千道さんが沙希の回し蹴りのカウンターに対して、右ストレートを途中でピタッと止めてそのカウンターを回避してましたよね?それって千気の強化機能と関係があるんですか?」
「いい質問だな。大いに関係しているぞ。あれはな、千気を足に集中し、その集中した千気だけで床を掴んだんだよ。つまり千気だけを独立してコントロールし、それをまるで本物の手足みたいにして、床を掴んで踏ん張ったってわけだ。」
「なるほど。」
「それに関連して、難しいけど面白い『かけっこ』っていう修行があるから、見せてやるよ。」
千道はそう言って道場の壁に近づき、おもむろにしゃがみ込んだ。そして勢いよく壁に向かって跳躍したかと思うと、両手両足が壁に付いた瞬間に千道の身体はピタッと張り付いて動かなくなった。
「えっ!どういうことですか?」
京介は驚きの反応を示した。
「良いリアクションだな。びっくりしたろ?千気で壁を掴めれば、こうして垂直な壁にも張り付くことができる。それからな、さらにこの壁に張り付いた状態からこんなこともできるぞ。」
そう言って千道は垂直な壁からむくっと身体を起こすと、まるでその壁が地面であるかのようにスッと立ち上がった。そして垂直な壁に再度しゃがみ込んだ姿勢を取ると、千道は道場の別の壁に向かって勢い良く跳躍した。すると千道の身体は美しい放物線を描きながら空中へ舞い上がり、しばらくそこで遊泳を行った後、別の壁に「ドザァァ」と音を立てて張り付いた。
「どうだ、ムササビみたいだろ?」
千道はそう言うと垂直な壁から下りて京介の近くにやって来た。
「『かけっこ』の修行はいつもは外の森でやるんだが、あんな風に地面には下りずに、木々の間を二人でかけっこしながら移動する修行だ。ちなみに逃げてるやつは追われているやつから逃げ切ったら勝ちで、追ってるやつは逃げてるやつを捕まえたら勝ちだ。この修行により、千気の複雑なコントロールと力強さを同時に鍛えられるんだよ。」
「なるほど。そういった千気の使い方もあるんですね。」
「他にもまだまだいくらでもあるぞ。千気の面白いところの一つはな、使い手の創造力次第で様々な千気のあり方が現れるところだ。」
千道は興奮した様子で話を続けた。
「面白いことに、千気の修行をしているとな、今まで想像もできなかった千気のあり方に気が付いて、それまで築き上げてきた千気の理論をぶっ壊して一から考え直す、っていう経験を何度もするんだ。それだけ千気は奥が深くて、興味深い。」
京介は千道の話しを聞いていて、さらに千気に興味を持った。そして早く千気の修行をやりたくて仕方が無くなってきた。千道はそんな京介の目をじっと見ながら言った。
「早く修行したい気持ちは分かるが、もう少し待て。この後に二つ目の感知機能の説明をして、それで説明は終わりだから。」
「は、はい、分かりました。」
京介は千道に自分の心境を知られたのが恥ずかしく、ドギマギと返事をした。
「感知機能に関してはまだ分かっていない部分が多いんだが、今のところ千気を習得する可能性のある人、またはすでに習得した人の状態や居場所を知る能力、と定義している。」
「なるほど。つまり、千気を習得する可能性のある人に関しては、例えば千堂さんが新たに千武会員を勧誘する場合などに、その人の性格だったり千気のポテンシャルなどを感じられると同時に、その人の居場所も感じ取ることができる、ってことですね?」
「そうだ。」
「すでに千気を習得した人に関しては、例えば千武会の入会テストのときに、俺が千気を使用していない千道さんの居場所を見つけた場合ですとか、昨日の千道さんと沙希の組手のときに、沙希が千道さんの姿を見ていない状態で千道さんの居場所を正確に掴んでいた場合のように、千気を習得した人の居場所を特定できたり、俺が千道さんの千気を感じただけで千道さんの力量がある程度分かってしまうように、千気を習得した人の強さなどが感じ取れる、ということですね?」
「そういうことだ。感知機能の修行方法に関しては、特に決まったやり方が確立されているわけじゃない。個人で勝手にやっているのが現状だ。ただ、千気のコントロールが上手いやつほど、感知機能も高い傾向にはあると思うが。」
「なるほど、分かりました。」
京介は返事をすると、千道の様子を伺いながら尋ねた。
「これで千気の説明は終わりですか?」
「ああ、終わりだ。それじゃあ早速千気の修行を始めるか?」
「はい!」
京介の元気の良い返事が静かな道場に木霊した。




