承1-④
九人全員を乗せた車の車内は異様な熱気に包まれていた。大音量で流れてくるラテン系の曲がさらに皆のボルテージを高めており、車内を冷やすために入れられた冷房でさえその熱気を冷ますことはできないようだ。
「全員乗ったみたいだな。じゃあ、出発するぞ。」
千道はシートベルを締め、ヘッドライトを点灯させると、ゆっくりアクセルを踏んで車を走らせた。助手席に乗った京介は心臓に響いてくる重低音のバスを感じながら、自分の気分が皆の雰囲気に同調していくのが分かった。それは京介にとって珍しいことだった。京介は本来人見知りをする方だったのに、初めて会った人たちと飲み会をすることにワクワクしているのだ。千気の異次元バトルを見たせいだろうと京介は思った。
十分ほど経ったころ、車は千道の家に到着した。千道の家は都心からだいぶ離れていたが、高級そうなマンションの一室だった。途中で買ったお酒やつまみ、食材などを持って、皆は千道の部屋がある十階までエレベータで上がった。十階からは遠くの方に見慣れた都会の夜景が見えたのだが、その日に限って京介はそれにひどく気分が高まってしまい、思わず隣にいた和樹にそのことで話しかけようとした。しかし皆は特に関心を持っていない様子だったので、京介は心の中で静かに興奮を消化した。
千道の部屋はとてもシンプルで、まるでモデルルームのようにまとまった部屋だった。玄関を上がると左手側に手前のキッチンと奥のリビングが一緒になった二十畳ほどの空間が広がっていて、リビングにはL字ソファーと角に置かれた大型テレビとの間に洒落た机が配置され、L字ソファーの長い一辺と向かい合ったキッチンには調理器具や食器などが丁寧に整頓されて置かれていた。京介はそんな千道の部屋を初めて見たとき、むしろ多くのものがすっきりとまとまり過ぎているせいか、そこからは生活感というものがほとんど感じられなかった。千道は本当にこの部屋で生活しているのだろうか。
皆は買って来たものをリビングの机に置くと、松下が早速お酒を配り始めた。
「皆それぞれお酒を持ってね。あ、谷本君はこれよ。」
谷本はそう言われて渋々コーラを受け取ると、L字ソファーの角に座った。京介もお酒を受け取ると、乾杯の準備ができるまでL字ソファーの長い一辺の後ろにある窓から東京の夜景を眺めた。
乾杯の準備が整うと、皆が千道の方を見てスタートの合図を待った。
「今日の集まりは京介の歓迎会を兼ねているから、皆楽しくやってくれ。それじゃあ、かんぱーい!」
千道の掛け声で飲み会はスタートした。京介は乾杯と同時にビールを勢いよく飲んでみた。すると気持ちの良い冷気とまろやかな苦みが口の中に広がり、嚥下の直後には爽快な喉越しを伴ってビールが胃に流れ落ちていった。京介はそんな一連の作用の結果として生み出される幸福感が全身に広がっていくのを感じた。どうやら身体の状態がいつもより鋭敏になっているようだ。京介がそんな一口目のビールに感嘆の吐息を漏らしていると、横で見ていた向井が京介に話しかけた。
「京介君、良い飲みっぷりだね。」
「ええ、何だか今日は気分が良くって。お酒も美味しいし、勢い余ってゴクゴクいっちゃいました。僕はあまり飲む方じゃないので、こんなことは珍しいんですけど。」
それを聞いて向井は付け加えるように言った。
「実はね、皆ここに来ると、気分が良くなってお酒が美味しくなるらしいよ。本当に。」
向井の隣にいた松下も話しに加わってきた。
「そうそう。だから私たちはここの飲み会が大好きなのよ。ね、向井さん。」
「ああ。俺なんてほとんど毎回参加してるからな。その結果がこの腹なんだけどね。あはは。」
「でも、それは向井さんのせいじゃないわ。ここが楽し過ぎちゃうのが悪いのよ。私、本当に千武会の雰囲気が大好き。」
京介は二人の会話を聞いてなぜそうなるのか疑問だったが、自分と同じような感覚を皆と共有できていることを知って素直に嬉しかった。
「皆さんは、どんな経緯で千武会に入ったんですか。」
京介がずっと気になっていたことを聞いてみると、向井はお菓子をバリバリ食べながら答えた。
「俺の場合はね、びっくりするかもしれないけど、立ち飲み屋で会社の部下と二人で飲んでいたときに、千ちゃんに話しかけられたのがきっかけだよ。部下がトイレに行っている間に、俺の横で飲んでいた千ちゃんがいきなり話しかけてきて、最初はかなり怪しんだんだけど、話してみたら意外と盛り上がってね。トイレから帰って来た部下と一緒に仲良くなっちゃったんだよ。その後に俺と千ちゃんの二人だけで二軒目に行くことになって、そこで意気投合したんだ。しばらくして千武会に誘われて、それで面白そうだから入ったんだよ。ちょうど二年くらい前の話かな。ちなみに俺は三番弟子ね。」
向井の後に今度は松下が口を開いた。
「向井さんはそんな経緯だったのね。知らなかった。私は普通に路上で話しかけられたのがきっかけよ。来月の中旬から三週間くらいアメリカを優雅に一人旅しようと思って、ここ四ヶ月くらい英会話教室に通ってるんだけど、ちょうど英会話教室に通い始めたころ、帰りがけに偶然千ちゃんに話しかけられたのよ。突然でびっくりしたけど、千ちゃんと話した瞬間に何か惹かれるものを感じたから、特に怪しむこともなく友達になったわ。その後は向井さんと同じね。」
それを聞いて今度は京介が話し始めた。
「そうだったんですか。僕の場合は、最初に沙希と大学で知り合いになって、偶然沙希に千気を使えるような状態にしてもらったんです。」
話しを聞いた向井は驚いた様子で言った。
「そりゃすごいな。普通、千気を使えるようになるまで、数週間の間、継続して千気介入を受ける必要があるんだけど、京介君はそれをすっ飛ばして千気を習得したわけか。」
向井の話しに相槌を打っていた松下は、その後の経緯を話すように京介を促した。
「それで、その後は沙希と一緒に個人的に千気のことを調べていたんですけど、二日前に沙希と一緒に道場の裏の森で千道さんと初めて会って、そこで千道さんによる千武会への入会テストを受けました。僕はどうやらそのテストに合格したみたいで、今ここにいます。」
二人は驚いた様子で顔を見合わせた。そして松下が口を開く。
「千ちゃんからのテストに合格するって本当にすごいわね。私たちもよく千ちゃんから無茶苦茶なことを言われたりするから、そのすごさが分かるの。」
地獄耳の千道は、松下の位置から遠く離れた場所にいたにもかかわらずその話しを聞いていたようだった。
「おい松下、何か言ったか?」
「何でもないでーす。」
千道の言葉に松下がとぼけた返事をすると、それを見て京介はクスリと笑った。
京介は二人としばらく話した後、ビールが無くなったのでキッチンへ取りに行った。そして真新しい冷蔵庫の扉を開けようとしたとき、ふと後ろから拓也の声が聞こえて来るのに気付いた。
「あー、また今日も沙希に勝てなかったわ。もう何回負けたかも忘れちゃったよ。お前強すぎる。悔しいけどもうお手上げだから、どうすりゃ勝てるようになるか、お前の意見を聞かせてくれよ。」
プライドを捨てたような拓也の言葉に、沙希は戸惑った様子で答えた。
「拓也さんには、たぶん千気をコントロールする修行が不足していると思います。」
横で聞いていた千道も話に加わった。
「その通りだぞ、拓也。お前最近千気のコントロールの修行サボって、千気の力強さばっか鍛えてるだろ。知ってるんだぜ。」
拓也は千道と沙希から痛いところを突かれ、うなだれるようにして言った。
「やっぱりそうか。薄々気づいてはいたんだけど。でもさ、千道さん、俺にとって千気のコントロールは難しくて、修行してもあんまり成長した感じがしないんだよ。だから、千気のコントロールをいくら頑張っても、おそらく沙希みたいに上手くはならないだろ。こればっかりは生まれ持った才能が大きく影響してると思うし。だから沙希みたいにならずとも強くなる方法がほかにあるような気がするんだよな。」
これに対して千道が口を開いた。
「お前は馬鹿だな。お前の場合は千気のバランスが力強さの方に偏り過ぎてんだよ。だから、もう少し千気のコントロールの修行をすれば、良いバランスになって沙希に勝つ可能性も出てくるんだよ。」
「そういうもんかな。それなら才能に恵まれなかった千気のコントロールも少し修行してみるか。どっかの誰かは千武会一才能に恵まれているみたいだけど。」
京介は冷蔵庫のビールを選びながら、自分のことを言われているなと思った。千道は拓也の目を見ながら言った。
「お前、京介に嫉妬してんのか?心配すんな、お前も十分才能に溢れているよ。たぶん、千気の力強さなら千武会一番だぞ。」
拓也は「ふーん」と言って、残り少ないビールを一気に飲み干した。
京介たちはその後も飲み会を楽しんだ。そして飲み会も終盤に差し掛かったころ、京介は何気なく周りを見回してみると、ふと千道がリビングにいないことに気付いた。京介はそのことを向井に尋ねた。
「向井さん、千道さんがいないみたいなんですけど、どこに行ったか知ってますか?」
「ああ、千ちゃんはたぶん自室にいると思うよ。あそこが自室だよ。」
「そうなんですか。こんな時に自室で一体何してるんですかね。」
「たぶん仕事じゃないかな。千ちゃんって毎日道場にいるから、俺たち千武会員はいつでも自由に道場に行って、千ちゃんから稽古をつけてもらうことができるんだけど、俺たち千ちゃんに一円も払ってないからね。全部千ちゃんのボランティアで、それでいて千ちゃんは千武会のことをいつも最優先に考えてくれるんだよ。だから、皆がこうして盛り上がって楽しんでる隙に、今みたいに少しずつ仕事をして、生活費や千武会の経費を稼いでいるって噂だよ。ただ、千ちゃんは自分自身に関することは全然教えてくれなくて、実際はどうなのか分からないけどね。」
「そうだったんですか。いずれにしても、千道さんにとって千武会は本当に大切なものなんですね。」
「そうだね。たぶん京介君が千武会に入ったことを一番喜んでるのは千ちゃんだから、できるだけ道場に顔を出してあげなよ。」
「分かりました。」
京介は千武会に対する千道の思いを知り、少し胸が熱くなった。まだ夏休みが始まったばかりなので、夏休み中はなるべく道場に顔を出そうと京介は思った。
太陽が東京の街並みを赤く照らし始めたころ、飲み会はお開きとなった。初めて飲み会に参加した京介だったが、時間はあっという間に過ぎてしまい、正直まだ飲み足りないという気持ちだった。京介がそんな高ぶった気持ちを抑えつつ、帰りのタクシーに乗り込もうとしたとき、千道が後ろから声を掛けた。
「京介、俺は毎日道場にいるから、いつでも来ていいぞ。みっちり鍛えてやるから。」
「分かりました。明日、ではないですね、今日、早速伺います。」
そう言って京介はタクシーに乗り込むと、自宅の住所を運転手に伝えた。運転手がタクシーを走らせるとすぐに、先ほどの高ぶった気持ちが嘘のように京介は眠りに落ちた。




