承1-①
京介を乗せたバスはトロトロと薄暗い道を走っていた。京介は長いこと後輪タイヤの真上に座り冷たい窓枠に頭を預けていたので、バスがそのときどこを走っているのか全然分からなかったが、僅かに見える外の景色からずいぶんと山奥までやって来たように感じた。腕時計を見ると午後の七時過ぎで、乗車してから三十分ほど経過していたこともあってか、座れない人がいる程込んでいたバスの車内にはすでに数えるほどの人しか残っていなかった。京介は車内に向けていた目を少しだけ動かし、再び同じ体勢で狭い外の世界を見つめた。
あのバーベキューの日からまだ二日しか経っていなかったが、京介は千武会に参加するために、千武会が開かれるという山奥の道場へ向かっていた。というのも、京介が運ばれた病院で皆と別れた直後、沙希から千武会に関する連絡が早速送られて来たのだ。それによると、毎週土曜日の夜は千武会員の全員が道場に集まって修行をするので、今週の土曜日は京介にもぜひ参加してほしい、とのことだった。
京介は最初その連絡をもらったとき、あの日千道から受けた恐怖を思い出してブルッと身体が震えた。京介の本能に千気の強烈なイメージが刻み込まれたようで、まるで喉に引っ掛かった小骨のように鬱陶しく付きまとったのだが、京介はそれにもかかわらず千武会に参加してみようと思った。特に深い理由があるわけでは無かったが、京介の頭の片隅にあったのは、千道の千気で気を失う直前に感じた妙な疼きだった。快感に近いものと言ってもいいかもしれない。京介はそれに何となく引き寄せられるように参加を決意したのだった。
千武会の道場はバーベキューを行った場所のすぐ近くだった。京介はそれを知ったとき、なるほどなと思った。それぞれの場所が近ければ、千道が京介の様子を見に来やすいし、普段あの辺りの森は修行に使っているそうだから、京介の力を試すのもやりやすかったのだろう。京介は沙希や千道にまんまと乗せられてあの森へ入って行ったのだなと思った。特に沙希は京介と研究室見学で会って以来、一貫して京介を騙し続けてきたことになるので、なかなかの名女優ぶりだった。つい二か月前までは地味で人見知りで目立たない存在だったのに、次々と沙希の非凡な面を目の当たりにして、京介は改めて人は見た眼で判断してはいけないことを肝に銘じた。
「次は、高山、高山です。」
車掌が目的のバス停を告げた。京介は窓の外を眺めてみると、対向車のヘッドライトや車内の電灯に照らされて周りの木々が少し見える程度で、まさに山の中といった様子だった。本当にこんなところに道場があるのだろうかと京介は思った。
バスはようやく高山のバス停に到着した。京介は最後の一人を残してバスを降りてみると、そこは民家や商店がいくつか立ち並んでいるだけで、あとは何も無い場所だった。それに人工的な騒音というものもほとんど無く、一番耳に入って来る音は道路脇を流れる川の音だった。京介はそこに一人で立っているのが何となく心細くなり、辺りをきょろきょろ見回していると、不意に川の向こう側にある森から千気の気配が感じられた。京介は森の方へ意識を集中してみると、その気配はどうやら千道のものではないようで、本当にあの森のどこかで複数の人たちが千気の修行をしているんだなと思った。
沙希に教えられたようにバス停横の橋を渡ると、京介はそのまま暗がりの中を真っすぐ進んでいった。すると次第に千気の気配が強くなっていき、五分程歩いたところで右手に明かりの灯ったプレハブ小屋のような建物が見えてきた。近づいてみると、その建物はかなり大きく、頑丈な作りになっているようだ。京介は入口を探すために建物の正面側に回ろうとしたとき、「ドン」と大きな音が建物から聞こえた。京介は最初何か重たいものが地面に落下したのかと思ったが、立て続けに「ドンドン」と聞こえたので、どうやら千武会の人たちが出している音のようだった。
建物の正面側には、入口と思われるドアがポツンと一つあるだけだった。京介はそのドアを開けて中に入ると、すぐにそこの雰囲気が外のものとは違っていることに気付いた。ずしっと厚みのある空気が周囲を隙間なく埋めていて、立っているだけでどこか息苦しい。京介は一度深く深呼吸をすると、重たい足を一歩奥へ進めた。
正面側の入口を入ってすぐ目の前のところに、道場へと続いていそうな扉があった。京介はそこまで進んでいき、ゆっくり扉を開けると、目に飛び込んで来た光景に息を飲んだ。そこではなんと、地上五メートル程の位置にいる沙希が空中を駆けるように舞っていたのだ。京介は沙希の姿に釘付けになり、そこから目を逸らせなくなった。するとその熱い視線に気付いたのか、空中にいる沙希がちらっと京介の方を見て、そこで二人の視線はぶつかった。そのとき京介は沙希が僅かに微笑んだような気がした。
そして次の瞬間から沙希は下方へ向かって加速し、相手に向かって強烈な一撃を振り下ろした。『ズドン!』と激しい音が道場に響いたが、相手はうまくその一撃を避けており、素早く立ち上がって沙希の方を睨んだ。沙希もスッと立ち上がり、二人はしばらく動きを止めた。
「よう、京介!」
千道が入って来た京介に気付き、嬉しそうに駆け寄って来た。京介は千道の声でハッとし、咄嗟に振り返って千道を見た。
「千道さん、あれは?」
「ああ、あれが千気を使った動きだ。またちゃんと教えてやるから待ってな。」
京介はそう言われて頷いたのだが、そのときようやく目の前にいる千道が初めて会ったときのように上半身裸だったことに気付いた。よっぽど沙希の動きが衝撃的だったようだ。千道はそんな京介をニヤニヤして見ていると、不意に何かを思い出したように「あっ」と声を上げ、次に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「そうだ、まず先に謝っとくけど、最初に会ったときは悪かった。あれは俺流の挨拶ってやつだから、大目に見てくれよ。」
千道は頭をポリポリ掻きながら言った。京介はそれを聞いて色々思い出したが、すぐに軽く頷いて応えた。千道はその後さらに話しを進めた。
「それより、今日はよく来てくれたな。なぜ今日来てほしかったかというと、ちょうど月一の月例大会が行われる日だったからだ。月例大会ってのは、要は、組手を通して互いの千武を高めあう大会で、今は沙希と拓也がやりあってるところだ。」
京介はそれを聞いて道場の中心に目をやった。すると沙希の様子を覗っていた拓也という大柄の男が、突如として沙希の方に突っ込んだ。特に突っ込みを予想させるような初動も無かったので、沙希は虚を突かれたかもしれない。拓也は突っ込みながら身体を左に倒し、その状態で右腕を沙希の胴体に叩き付けようとする構えを見せた。沙希はそれに対して特に何かする様子を見せなかったのだが、拓也の右腕が沙希の身体をまさに捉えようとしたそのとき、突然沙希の身体が高速に変化し、鋭く踏み込んだ沙希の右肘が拓也の右腕を正確に射抜いた。
『ダンッ!』という踏み込み音にやや遅れて、沙希の「はっ!」という掛け声が道場に響いた。その直後、拓也は右腕を打ち抜かれた衝撃で空中を一回転し、そのまま地面に叩きつけられた。そして自動車と正面衝突したかのように『ドンッ、ドドンッ!』と音を立てて転がった後、右腕を抑えてうずくまった。
「そこまで!おい、拓也の手当てを!」
千道の声に続いて数人が拓也の元に集まり、拓也を担いで医務室らしい部屋へ運んでいった。一方の沙希は打ち込んだ場所に留まり、肩を上下させて呼吸をしていた。京介は目の前の光景に腰を抜かし、倒れないようにするので精一杯だった。強く握り込んだ掌は汗でベトベトだ。
「あ、またやっちゃった。」
沙希はそう言って足元に目をやると、そこにはうっすらとだが亀裂が入っていた。どうやら沙希が踏み込んだ衝撃によりできてしまったようだ。沙希はその場からすっと足を退けると、振り返って京介の方を見た。京介はそれに気付き、沙希の方へフラフラと近づいていった。
「沙希、すご過ぎるよ。」
京介はあの光景を表す言葉が出て来なかったので、バカみたいな感想を沙希に伝えてしまった。沙希はその言葉に笑みをこぼすと、謙遜した様子で言った。
「そんなことない。ただ修行した時間が皆より長いだけ。」
二人がそのまま無言で見つめ合っていると、医務室にいた千道たちが戻って来て、二人のところへぞろぞろと近づいた。




