起3ー④
気持ち良さがピークに達したころ、京介は何となく周囲の雰囲気が変わっていることに気付いた。何事かと思って思考の世界から戻って来ると、その直後に突然あのゾクゾク感が京介の全身を襲った。
「うわっ!」
京介は思わず声を上げた。前に感じたときよりもかなり強くなっているようだ。
「京介君、大丈夫?」
動揺した京介に沙希が声をかけた。
「う、うん、大丈夫。」
沙希の声に京介は多少落ち着きを取り戻した。そして改めてゾクゾク感に注目したとき、身体の中の変化をはっきりと感じ取ってしまったのだ。京介はゆっくり沙希の方を向くと、唾を飲み込んで言った。
「今、実は、妙なゾクゾク感を感じてるんだけど、それが、おれの「妖気」と反応してるみたい。」
沙希はそれを聞くと不安な様子で京介を見つめた。ところが京介は沙希の目を見ていると、自分がそのゾクゾク感を恐れつつもそれに好奇心を抱いていることに気付いてしまった。すると直後に二つの問いが京介の頭に浮かんだ。恐怖に従って逃げるか、それとも好奇心に引きずられて留まるか。しかし京介の心はすでに答えを出していたようだ。京介は意を決して口を開いた。
「もう少し散歩に付き合ってくれないか?俺、ゾクゾク感の源を見てみたいんだ。」
それを聞いて沙希は嬉しそうに言った。
「うん、もちろん。」
二人は早速その感じがする方へ進んで行った。先ほどまでの散歩とは異なり、一歩進むごとに興奮と恐怖が目まぐるしく入れ替わるような散歩だった。そのせいか京介は身体の疲労を忘れ、夢中で森の中を進んで行った。
しばらく進んだ後、京介は微かに気配が変化したように感じ、すぐに足を止めた。するとその直後、突如としてゾクゾク感が消えてしまったのだ。京介はびっくりして沙希の方を見た。しかし次の瞬間、再びゾクゾク感が復活し、今度はさらにその源と思しきものがすごい勢いで移動し始めた。京介は混乱して沙希に言った。
「沙希、良く分からないけど、今ゾクゾク感が色々な方向に素早く移動してる。どうしよう?」
「だ、大丈夫だと思うから、とにかく近づいてみよう。」
京介は沙希の言葉に頷くと、気配の方向を見失わないように急いで距離を詰めた。すでに川からかなり離れた所まで来ており、木々の密集度合いはさらに増していた。視界も悪くなり、後を追うには最悪な環境だったが、逆に京介の集中力は研ぎ澄まされていった。
しばらく移動した後、京介はゾクゾク感の源がかなり近い位置にいることを感じ、その場で足を止めた。するとその源も移動を止め、再びゾクゾク感を消し去ってしまったのだが、極度に集中した京介には理解できた。それは消えたわけではなく、ゾクゾク感を殺して潜んでいるだけだと。京介は振り返って沙希に言った。
「すぐ近くにいる気がする。必ず見つけ出す。」
その言葉に沙希がゴクリと唾を飲むと、京介は目を閉じてその源に集中した。すると次第に京介の身体は五感を制限し、不要な情報を遮断していった。そしてあるとき、京介は剥き出しになった自分の第六感が、明け方に降り積もった雪のようにふわりと周囲を満たしているのに気付いた。京介がそれに沿って意識を源の方に向けると、そこには何かがごそごそと動いているような雰囲気があり、次の瞬間にはその場にくっきりとした足跡が残されたのだ。京介はそれにハッとして「あそこだ!」と叫ぶと、その場所めがけて一目散に走り出した。沙希も京介の後に続いた。
「はぁ、はぁ、この辺りのはずだ。」
京介はそう言って周りを見渡したが、そこには同じような森の風景が広がっているだけで、他には何もなかった。京介は自分の特定した場所が間違っているかもしれないと思い、沙希にそう伝えようとした。しかしそのとき、突然強烈なプレッシャーが京介を襲った。それは例のゾクゾク感を何倍にも強めたようなもので、京介の身体はあまりの衝撃に震え始めた。そして一人の男が木陰から姿を現した。
「こりゃ想像以上だ。」
京介は声のする方へ振り向くと、そのプレッシャーの源と思わしき男が立っていた。男は上半身裸で、膝丈までのボロボロのジーンズを履いていた。年齢は四十歳過ぎくらいだろうか。身長は百八十センチほどで、陸上選手のように無駄の無い筋肉質な体格だった。顔には深い皺が刻まれ、ぼさぼさな長髪の隙間から見える眼光はとても鋭かったので、その顔で睨まれたものはたちまち怖気づいて逃げ出すに違いない。
「沙希、お前の言う通りだよ。」
京介は男が発した言葉に唖然とし、沙希の方へゆっくり振り返った。京介と沙希の目が合うと、沙希は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、京介君。騙すつもりじゃなかったんだけど。」
「ど、どういうこと?」
京介が混乱した頭で沙希に尋ねると、その男は唐突に話し出した。
「混乱しているのは分かるが、まあ話を聞け。順を追って説明してやる。まずお前が『妖気』と呼んでいるものがあるだろ?それは、正しくは『千気』というものだ。千気はおれが最初に習得して、他の人に広めたんだよ。沙希は俺の弟子で、千気の使い手だ。それでお前は偶然沙希の千気に触れて、千気を習得したってわけだ。分かったか?」
京介はそれを聞いてあの研究室見学のときの異変を思い出し、沙希の方を見て言った。
「まさか、あの研究室見学のとき?」
その質問に沙希は黙って頷いた。京介の身体と精神はすでにズタボロであり、そこに沙希が京介を騙していたという事実がのしかかったので、京介は自分を上手く抑えることができなかった。そして怒りに満ちた表情で沙希に言った。
「なんで教えてくれなかったの?」
沙希はそれを聞くと怯えた様子で俯いてしまった。するとそこで再び男が割って入った。
「おいおい、沙希に当たるのはお門違いもいいとこだぜ。お前はな、選ばれた人間なんだよ。まさに千気の申し子だな。だからお前は沙希に感謝するべきなんだぜ。沙希がお前を見つけてやらなかったら、お前はこのまま一生平凡な人生で幕を閉じてたんだからな。」
男はポケットから煙草を取り出し、それに火を付けた。そして美味しそうに煙草を吸い始める。
「自己紹介がまだだったな。おれは千道卓。千ちゃんって呼んでも良いぞ。あと年齢不詳でよろしく。さっきも言ったけど、千気を最初に習得したのはおれな。あ、そういえば、お前がずっと感じてる嫌な気配あるだろ?それ、おれの千気が発してる気配ね。覚えといて。」
千道はまるで自分の千気の気配を覚えさせるように千気を発し続けていた。京介はそのプレッシャーに長くさらされ、徐々に意識が朦朧としてきた。千道はさらに話しを続ける。
「それで、おれは千気を武術に応用した『千武』ってやつを開発したわけ。お前は自分でいろいろ試したりしてるだろ?物質と千気を相互作用させたりして。例えばそうゆうのが千武に関わってくる。で、その千武を皆で鍛えたいなと思って、おれが千武会ってのを始めたのさ。ちなみに、沙希はこんなに若いのに、おれの一番弟子なんだぜ。びっくりだろ?」
その言葉に沙希は少し恥ずかしそうだった。
「ほんとにシャイだな、沙希は。あ、それで話を戻すと、お前は研究室見学のときに、沙希からわずか一瞬だけ千気の介入を受けただけで、千気を習得しちまったんだ。そんなやつ今まで見たことねーよ。その後も、お前の様子は逐一沙希から報告を受けてたけど、これまでの誰よりも千気の才能に溢れてるよ。さっきはおれの位置まで特定されちまったし。」
千道はそう言うと、長くなった煙草の灰を人差し指でたたき落とした。
「今日はな、お前の力を実際に見るために、沙希に協力してもらったんだよ。つまり、お前をここに連れてきて、おれを発見できるかテストしたわけだ。だから、沙希を恨むんじゃねーぞ。それで、テスト結果だけど、お前は合格な。」
京介は千道の話しを聞いていたが、朦朧とする頭では上手く話しの内容を掴めなかった。しかし、千道という男はあまり信用できないように感じ、京介は思い切って口を開いた。
「おい、あんた千道とか言ったな。千気だの千武会だの、わけのわからないことを言って、一体何が目的なんだ?おれを千武会に入らせて、何をさせたいんだ?」
それを聞いて千道は突然笑い出した。
「あっはっは!京介君よ、冗談は顔だけにしてくれないか。おれには分かってんだよ。お前も俺たちと同類だってことがな。」
千道は持っていた煙草を投げ捨てると、両足を広げて中腰になった。その直後、千道の周りで突然砂埃が巻き上がったかと思うと、信じられないスピードで千道が京介に接近した。そして、地面の土をえぐりながら京介の目の前で止まった。まさに一瞬の出来事で、京介は全く動けなかった。そして千道は両手を京介の肩に置くと、さらに強力な千気を発した。
「お前も本当はうずうずしてるんだろ?自分に正直にならなきゃ身体に毒だぜ。千武会へ来いよ。一緒にやろう。」
京介の中に千道の強力な千気が介入してきた。しかし京介はもう意識を保っていることができなかった。京介は薄れゆく意識の中、心の奥底で何かが疼くのを感じた…。
「…い、京介、大丈夫か?」
京介は誰かの声で目を覚ますと、目の前には高橋と沙希の心配そうな顔が二つ並んでいるのに気付いた。周囲に目を向けると、そこにはいくつかのベッドが並んでいて、看護師の人たちが行き来していた。どうやら病院のベッドの上にいるようだ。京介は高橋と沙希に手伝ってもらい、ゆっくりとベッドから起き上がった。ちょうどそのとき、武司に連絡をしていた知美が病室に戻って来た。
「あ、目を覚ましたの?よかった!」
知美はそう言って京介の傍に小走りで向かった。
「大丈夫?痛いところ無い?」
「ああ、大丈夫。」
「京ちゃんが熱中症で倒れたって聞いて、ほ、本当に心配だったんだからね。ぶ、無事でよかった。」
知美は京介が無事だと分かって気が緩んだのか、皆の前で泣き始めた。京介は知美に心配させて申し訳ないなと思ったが、まだ自分がなぜここにいるのか思い出せなかった。沙希はそんな京介の状況を見て取った。
「京介君は私と一緒に森の中を散歩してて、熱中症で気を失った。その後、救急車でここに運び込まれた。」
すると京介はその言葉であの一部始終を思い出した。千道の千気で気を失ったのだ。
「皆、心配かけてごめん。もう大丈夫。」
京介は静かにベッドから立ち上がった。まだ少しクラクラするようだ。そして部屋の窓際までとぼとぼ歩いて行くと、地平線に沈みかけている太陽をしばらく眺めた。




