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起1ー①

 杉之原駅の改札を出た京介は、いつものように自宅へ帰ろうとしていた。休日のお昼時だったので、随分たくさんの人たちが目の前を行き交っていたが、京介には人々の表情がどこか無機質な印象を与えているのが不気味に感じられた。京介のすぐ隣には幼馴染の知美が歩いていて、少し先の地面を難しい顔で見つめている。どうやら考えごとをしているようだ。京介は知美に何か話しかけようと思ったが、今はそのときじゃないような気がして黙っていた。


 二人は駅の三番出口につながるエスカレータの無い階段へ向かっていたのだが、そのとき京介は、ふと目の前を行き交う人々が二人の行く手を防ごうとしているように感じられた。しかしそれは実際のところ、京介の周りの空気がまるで蜂蜜のように粘度の高い液体となって、京介の動きを邪魔しているようだった。これは一体何だろうと思った京介は、とりあえず液体の中を強引に歩こうとするが、謎の液体に絡まって上手く歩けなかった。一方の知美は、必死にもがく京介をよそに何ともない様子で進んで行くので、二人の間隔はどんどん開いていった。焦った京介は自分の異変を知美に知らせるために叫ぼうとしたが、液体が喉元にべっとり絡みつき、上手く声も出せなかった。


 液体は次に京介の体内へ流れ込んで来た。口や鼻、耳などありとあらゆる穴から侵入し、好き勝手に暴れ始める。しかし身動きの取れない京介は、まるで金属を流し込まれた鋳型のようにそれを受け入れるしかなく、ジリジリと体内に広がる液体に窒息していった。それによって京介の意識は徐々に遠くなり、目の前の景色はグルグルと回り始めたのだが、そのとき京介は、なぜか自分の身体が何者かに乗っ取られてくような感覚を覚えた。京介が弱った隙を突き、液体を媒介として京介の中へ滑り込んで来るようだ。京介は息苦しさと恐怖心でパニックになり、咄嗟に前を歩く知美の名前を心の中で叫んだ。しかし京介の声が知美に届くはずも無く、知美の背中はどんどん小さくなって行き、それとともに京介の絶望は風船のように膨れ上がった。


 それからというもの、京介は知美が階段を上って姿を消すまでの間、必死に何者かと戦い続けた。その時間は数分にも数時間にも感じられたが、京介はその何者かに負けてはいけないような気がして、諦めること無く抗った。そしていつしか知美の姿が見えなくなったとき、京介は自分の中に何か別の感覚が生まれてくるのを感じ、その直後に耳元で聞きなれたアラームの音が鳴り響いた。


 京介は目を覚ましてベッドから飛び起きると、急いで携帯のアラームを消した。夢の恐怖とアラーム音に対する驚きのせいか、京介は少しの間意識が定まらず、アラームを消したままの姿勢で固まっていた。しかし、しばらくすると京介の頭はクリアになり、いつもの現実が京介の元に戻って来た。そしてそのとき京介は寝汗でパジャマがぐっしょり濡れていることに気付いたのだった。


「さっきの怖いやつは夢だったのか。」


 京介は独り言をしゃべった後、最近は特に印象に残るような夢を見ていなかったのを思い出した。それに夢のことを考えた記憶すらほとんど無い。しかし、今日の夢はあまりにも印象的であり、夢の中で感じた感触がそのまま身体に残っているほどだったので、京介は当分その夢のことは忘れないだろうなと思った。


 気を取り直してパジャマを着替えると、ベッド横の机にあったお茶を一口飲んだ。そのまま二度寝しようかと思ったが、再びあの夢の中に入ってしまうかもしれないという恐怖が湧いて来たので、京介はあきらめてリビングへ向かった。


 京介は父親の武司と共に東京のマンションで暮らしている。母親は京介が小さいときに病気で他界してしまったので、それ以来武司が一人で京介を育ててきた。しかし武司は日本考古学者であり、学者の人が共通して持つような、自分の関心ある世界にのめり込んで、他の多くのことに関して無頓着になってしまう性格を少なからず持っていたので、京介は一人で過ごす時間が他の子供よりも長かった。それでも武司は京介を愛していたし、また京介に対して親として最低限の勤めはやってきたので、京介も武司の学者気質を嫌っておらず、ある意味で自由奔放に育ててくれたことには感謝していた。


 京介が自室から出たとき、紺のジーンズにブラウンのジャケットを着た武司が外出の準備をしていた。机のわきに置かれた武司愛用の大きなスーツケースとリュックは、長年使いこまれたためか独特な存在感をまとっていた。


「おはよう。またどっかに行ってくるの?」

「ああ。長崎の方で興味深いものが発掘されたみたいで、明日から三か月くらい向こうに滞在する予定だ。俺がいない間の生活費は、いつものようにカードで銀行から下ろして使ってくれ。」


 武司は仕事がら長く家をあけることがよくあったので、京介にはそれは慣れっこだった。しかも今回はやや短めの三か月だ。


「わかった。ところで、父さんはいつも長期滞在前は楽しそうだね。」

「当たり前だろ。考古学者やってて、発掘調査を楽しみにしていない奴なんていないよ。お前も学者の血がちょっとくらい流れているんだから、何か夢中になって取り組めるものでも探したらどうだ?」

「言われなくても分かってるよ。」


 京介は大学三年生だが、まだ進路を決めかねていた。武司とこうして顔を合わすときは、ときどき将来のことについて話をしたが、京介は正直、学者として幸せそうな武司のことをうらやましく思っていた。京介はそんな武司を見るたびに、不安と焦燥と妬みが入り混じったような感情に襲われた。


「大学は、やりたいことを見つけるにはいい環境だと思うよ。焦らずゆっくり探せばいいんじゃないか。」

「気長に探すよ。」

「焦りは禁物だからな。それじゃ、大学に行ってくるよ。」

「うん。」


 武司が部屋を出た後、京介はしばらく窓から見える入道雲を眺めたままボーっとしていた。そして突然、大学へ行かなければと思い立ち、急いで支度を始めた。


 京介の通う大学は杉之原駅から乗り換えを挟んで八駅のところにあった。乗車時間は約二十分で、自宅から大学の構内までは何だかんだで三十五分くらいはかかり、教室まで行くとなるとプラス五分は必要だった。朝の準備に手間取った京介は不運にも電車の遅延に遭遇し、一限目の授業に遅れそうだったが、何とか開始前に教室へ滑り込むことができた。元サッカー部の脚力がようやく日の目を見た瞬間だ。京介がいつものように最後列の椅子に座ると、見計らったように先生が授業を開始した。


 しかし京介はなかなか授業に集中することができなかった。しかも内容が量子力学なんて難しそうなものだからなおさらだ。京介は授業に集中することをあきらめて、先生が板書するとき小刻みに揺れる尻をぼんやりと眺めていた。するとそのとき、デニムジャケットに黒いパンツ姿の知美が後ろの扉からこそこそと入ってきて、申し訳なさそうな様子で京介の隣に座った。


 知美は京介の幼馴染だ。二人は小学校まで一緒で中高と別々になったのだが、大学で再び同じ学校へ通うことになった。また特にどちらから告白したというわけではないが、大学二年のころから二人は付き合い始めたのだった。


「おはよう。今日はね、偶然おばあさんが道端に倒れていてね、助けを呼んであげてたの。」


 知美は遅刻した時によく言う言い訳を小声で話し始めた。京介はすかさず突っ込みを入れる。


「知美の周辺では頻繁におばあさんが倒れるんだな。」

「それもそうだね。じゃあ今度はおじいさんにするよ。」


 京介は他愛もない話しを知美としていたとき、ふと今朝の夢に知美が出てきたことを思い出した。そして再びあの恐ろしい感覚が蘇ってくるのを感じた。


「京ちゃん、どうかしたの?いつもと違うね。」


 そう言って知美が京介の顔を覗き込んだのだが、京介は何となく知美の視線を避けてしまった。これには理由があって、京介は昔から知美のあの眼で見られるのが苦手だったのだ。あの眼で見られると、自分の感情や思想が全て見透かされているような気がして、そわそわと落ち着かなかった。世の中には量子力学のような摩訶不思議な現象が存在するが、知美の眼もそれらと同類なのかもしれない。


 京介は不意に諦めたような表情を浮かべると、知美の眼を見てひそひそ話し出す。


「知美の前では隠し事は無理だな。」

「そうだよ。私、京ちゃんのことなら何でもわかっちゃうんだから。それで、どうしたの?」

「今朝ちょっと怖い夢を見てね。」

「そうなの?どんな夢?」

「何者かに自分の身体が侵食されていって、最後には自分じゃなくなってしまう夢。凄く怖くて、苦しかった。実はその夢に知美が出てきてさ、俺必死で知美に助けを求めたんだぞ。でも素通りされた。」


 京介がいくらかむすっとした様子で言うと、知美は申し訳なさそうに前髪を触った。


「そうだったの。なんかごめんね。」

「いいよ、どうしようもなかったし。」


 知美は京介の物憂げな表情を見て、何かを思い付いたように話し出した。


「そういえば、今日の文化サークルは子供のころやった遊びがテーマになっててね、皆で缶蹴りをやる予定なの。開催場所は私たちが昔よく缶蹴りをした近所の公園だよ。よかったら京ちゃんも一緒にやらない?思いっきり遊べば元気が出るかも。」


 京介は突然の誘いに少しうろたえたが、久しぶりに童心に返って遊ぶのも悪くないと思った。そして何よりも、知美の助言には従った方が良い。というのも、昔から知美の遊び相手はもっぱら男で、京介や他の男友達と一緒にサッカーや野球をするほどのわんぱく少女だったのだが、それでいてなぜか感性も鋭く、友達自身が気づかないような小さな変化を感じ取ることができた。昔、まだ京介の母親が生きていたころ、京介は特に意識していたわけではないが、母親の表情や行動に対して微かな違和感を感じるようになっていた。そのとき知美は京介の内なる微妙な変化を見て取ると、「どうしたの?なんか元気なさそうだね。」と京介に話しかけ、母親の健康が良くないかもしれないことを京介に認識させたのだ。京介がその内容を両親に伝えたことで、結果として病気の早期発見につながり、母親の寿命をかなり延ばすことができた。


 そんな出来事があったので、京介は知美が心配して言ったことには何か重要な意味が隠されていると思うようになった。そのため、あまり乗り気ではなかったが、今回も誘いに従って缶蹴りへ行くことに決めた。


「そうだな、たまにはそういうのも悪くない。」

「そうだよ、京ちゃん。たまには思いっきり遊ばなくっちゃ。」


 知美はそう言って笑顔を見せた。京介はやれやれと思いながらも、小さな期待が胸の奥でくすぶっているのが分かった。


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