第269話 「燕一壽と奏」
「……氷堂先輩」
斬灯に、氷堂と呼ばれた上級生が立ち上がる。その顔は悲しみに打ちひしがれており、直ぐ側にある湖に飛び込んでいきそうな危うさをも感じさせた。
ゆらり、ゆらりと……ゾンビのような動きで2人の前までやってきた氷堂は、ゼクスを見、斬灯を見て深く息を吐く。
「……御雷氷ゼクス、さん」
「ゼクスか御雷氷だけでいいですよ」
「なら、こちらも敬語はいい。……御雷氷、心当たりはあるのか?」
心当たりはあるが、ゼクスはすぐには答えず氷堂を見上げる。そもそも、その心当たりも本来は現在存在してはならないものだ。
【タナトストルドー】は、半年前に雪璃が完璧に【浄化】した。
そんなことを考えながら、少年は上級生の顕現力と外見を素早く観察する。
ひょろりとした身体。筋肉はついていなさそうで、【八顕】の当代で例えれば神牙ミソラのような雰囲気を感じさせるメガネの少年が、果たして【タナトストルドー】と思われるそれと、持ち主に勝てるだろうか?
顕現力もゼクスたち【八顕】や【三劔】レベルでは決してなく、学園で比べても中の上程度だと推測する。
……雪璃と颯の二人がかりでなんとか出来たレベルなのに。
絶対勝てねえ、とゼクスは首を振る。
「まだなんとも」
がっくり、とうなだれた氷堂を見てゼクスは流石に気の毒に感じてしまう。
自分が古都音を失ったらどうなるんだろう? 前日まで普通に話をしていたのに、次の日になれば冷たくなり目を閉じて、その目は二度と開かれることはない。
そのことを、ゼクスも刀眞遼に対して同じようなことをしたわけではあるが。
――ゼクスは少しだけ考えて、すぐに考えることをやめた。
「氷堂先輩……でしたっけ」
「氷堂燕一壽。燕か氷堂でよろしく」
つばくろかずひさ? と首を傾げたゼクスに、彼は「燕に一に難しい方の壽」と簡単に教える。
その表情に、先程の死にかけの表情はない。
「……御雷氷、返事を待っている」
「はい」
「俺の居場所は斬灯ちゃんが知っているだろうから、彼女を頼ってくれ」
そういうと、氷堂燕一壽は氷の翼を【顕現】すると、ゼクスたちが歩いてきた道を飛んで帰っていった。
「……氷堂先輩って良家出身?」
「【八顕】が選出される前なら、御氷家とそんなに変わらないくらいの家。……冷躯さんや貴方とは、ご先祖で繋がってるかもね」
遠い親戚か。ゼクスは納得し、斬灯の方を向く。
斬灯も、少し落ち着いたのか先程よりは声も表情もしっかりしていた。
「地雷を踏むかもしれないが、いいだろうか」
「ん? ゼクスくんのお話なら、聞きましょう」
「俺からすると、人が死ぬってのは『ただ』会えなくなるだけのことだ」
斬灯は、ゼクスの言葉に対して怒りも悲しみもしなかった。
次の言葉を待っている。
「……だって、ここで生きつづけるだろ?」
「……そうね」
彼女は、ゼクスが自身の心臓をこつこつとノックしたのを見て、頷く。
ゼクスは、斬灯が元気を取り戻したのとは正反対にかなり落ち込んでいた。
自分は、前の自分を殺されている。刀眞胤龍は死んだ。
刀眞、という名前が消えるのに何も感情は湧かなかったが――。ゼクスは、思い出せない「昔の自分」を思い出そうとして……すぐに、古都音の不幸を考える時と同じようにして――考えるのをやめる。
「ありがとう、ゼクス君」
「どういたしまして」
「……なんだか、ゼクス君の顔色が悪くなった気がする」
気のせいだろ、と軽く交わしてからゼクスは腕時計を見つめた。
時間はすでに11時、立派なお昼である。同時に彼は自分たちがまだ朝食すら食べていないことに気づいた。
時を同じくして、斬灯の腹が可愛く鳴り、彼女の顔が熟れたりんごのように赤く染まるのを、ゼクスは見逃さない。
「遅いけど朝食にしますか」
「……うん、どこがいいかな」
その辺の喫茶店でいいか、とあるき出した斬灯に少年はゆっくりとついていった。
---
「……怒っているのですね、鳳鴻君」
「ああ、僕は怒っているんだろうね。……彼女は一般家庭の出身なのに、氷堂先輩と【三貴神】である僕達にもきちんと接してくれていた数少ない人間だったから」
昼ごはんの時間。古都音は、ゼクスが不在のため亜舞照鳳鴻たちと食堂に向かっていた。
鳳鴻は先程から拳を強く握りしめたままだ。斬灯のように泣いたり、アズサのように見るからに落ち込んだりはしていないものの。いつもよりもつっけんどんに話をしているようにも感じられた。
食堂は比較的静かであった。殺された女子生徒との別れを悲しむもの、正体不明の殺人犯に怯えるもの、そして次は自分が狙われるかもしれないと怯えるもの。
「昨日の夕方に僕が送っていたらこんなことにはならなかったんだ。……女性の1人守れず、【三貴神】の当代協議を優先してしまった僕のせいなんだよ」
鳳鴻の口調は激しいものであった。古都音は、そんな彼を見て「でも、国の【顕現者】のためでしょう?」とは言い切れない。
きっと、彼女も……。五十嵐奏先輩も、彼の事情を知って送迎を断ったのだろうから。
「こんなのんびりしてられないよ。……僕はツバクロ先輩のところへ行く。さっき斬灯が、学園に戻ってくるって言ってたし」
そう言って唐揚げ丼を食べ終わり、立ち上がりかけた鳳鴻は古都音を見つめて手を差し出した。
「古都音さんも来て。……ゼクスか颯が君を引き取るまでは、僕が保護する。……聖樹も」
「んー、まだ食べ終わってないんだけど……」
車椅子にのった少女は、今しがた味噌汁に手をつけたばかりであった。
「鳳鴻は……強くは言わないけれど、落ち着いて。なんだか昔の貴方に戻ったみたいだわ」
少年は、恋人の言葉にハッと我に返ったようである。
慌てて鏡を取り出すと、参ったなと自虐的な笑いを見せて、湖から今しがた出てきた子犬のように首を振った。
「気を強く保たなきゃ」




