第231話 「理解困難」
左手が、ズキズキと痛む。
颯は、ゆっくりと毒に侵された左手の筋肉を伸縮させながら痛みを実感し、ため息をついた。
1ヶ月。11月の終わりにさしかかり、冬休みまであと3週間といった時のことである。
颯は、食堂棟近くのカフェテラスで古都音とコーヒーを飲んでいた。
事件が起こる前であれば、二人の間にはゼクスがいた事だろうが……。
今は、いない。
古都音に元気がない。というのも颯の思考を混乱させる一つの要因だ。
颯は頼まれたのだ。ゼクスに、妹と恋人をなんとかしてくれと。
それはあまりにも抽象的な願いであったが、それをなんとか果たそうとしている。
少なくとも、御雷氷雪璃は颯がそばにいるだけで、特別な関係の発端を一切感じさせない今でも笑顔を浮かべている。
しかし、「ゼクス」の恋人である古都音は違う。
彼女にはゼクスの存在が必要だ。他の友人や知り合いは愚か、どれだけ世界で認められている男性を連れてこようとも少女はぶれない。
ただ、その存在一人がいないというだけでこうなってしまう。
笑顔が、ほぼ消えた。社交辞令や、こちらを心配させまいとする必死な笑顔は見えても、そのくらいの変化は颯にもわかるというものであった。
「……おいしくないです? ここのココアミルク、結構評判だと聞いたのですが」
「終夜先輩こそ、全く持っておいしくなさそうな顔をしていますよ」
言い返し、古都音がハッと自分の顔を隠したのを見ながら颯は言葉を続ける。
「やっぱりゼクスが居ないとダメですか」
「……そう、ですね。彼に必要とされたくて私は彼に近づいたのに、いつの間にかゼクス君がいないとこうなってるんですもの」
ゼクスの支えになりたかった、というのは決して嘘ではなかった。
古都音はそう確信しながら、いつの間にかゼクス自身が自分の支えにもなっていたことに気づく。
何処までもゼクスという人間は1人でなんとかしようとする、と古都音は考えを立てていた。
事が終わったり、夜になれば古都音に甘える事もある。何かがあれば今回のように颯にものを頼むこともある。
しかし、それは自分がなんとも出来ない何かを抱えているからであり、無理をして自分を破壊してしまうまでの人間でもないこと。
体調的な無理は自覚して制止することができても、心情的な無理は平気でしてしまうこと。
それらを考えてしまうと、もう居てもたっても居られなくなってしまう古都音であったが、自分がすべてをなせると思えてしまうほど傲慢ではない。
「私は、無力なのですね」
ゼクスの支えになりたかった。
身体は顕現特性で癒やし、心は自分自身で癒やす。
けれど、今はそれができない。古都音は現在の状況に、どうしても歯がゆさを感じられずには居られない。
「……まあ、我慢しませんか。あと1ヶ月以内には会いに行けますし」
元気づける名目で颯はそう締めくくり、立ち上がる。
空気に耐えられない、というわけではなかったが……。
「そうそう、忘れていましたが、終夜先輩に対してゼクスから『なんか辛い感じになったら伝えてくれ』という伝言があるのです」
「……はい?」
ゼクスから、というワードに対して見事なほど反応を見せた古都音に妙な親近感を抱きながら、颯はフッと笑いをこぼす。
「『信じている』と」
ーーー
「……駄目だ」
俺には女性の扱いの初歩の初歩も出来ないらしい、と確信して颯は自室のベッドに寝っ転がっていた。
主を立てる。主の剣になることは出来ても、その周りの人間に対して何かを考えることが難しい。
自分自身がゼクスに対する気持ちや心の持ちようと、終夜古都音がゼクスに対する気持ちはまったくもって違うものだというのはわかる。
こちらが忠誠とするのならば、あちらは愛情であるのだ。
「人を好きになること」
家族以外の異性に対する気持ちがわからない。
そもそも、理解しようと考えていたことも少ない。
自分に本気の力を使いたいと思わせるような人間が現れることを願って、ただただ才能を開花させながら鍛錬を続けただけだ。
父親である善機寺颪が、御氷冷躯に学園時代からほぼほぼ仕えていたように。
母親である善機寺奏魅が、恋慕を向けていた相手として冷躯を、双子の姉妹としてカナンを思いやっていたように。
……母親に聞いてみたほうが良いのかもしれない、と考えた3秒後ほどあとに、颯は実家に戻ることに決めた。
次回更新は明日です。




