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The Sin

作者: 村元 新

「嫌な夢をみるんだ、ずっと」


 男はぽつりと漏らす。誰にともなく向けられた独白に、傍らに座っていた彼の弟が返事をする。


「夢? 光の神と呼ばれる君でも悪夢を見たりするんだね」

「まあ、な」


 どんな、と弟は聞く。男は色素の薄い、長い睫を二三度瞬かせる。形の良い唇はかたく引き結ばれ、なかなか言葉を発しようとはしない。ややあって、弟は口を開いた。


「バルドル、話したくないならいいよ。聞いた俺が悪かった」

「いいんだヘズル。大丈夫だ」


 バルドルと呼ばれた男はゆるく首を振る。その動きに合わせてさらりと肩に流れる髪は月の光を受けて輝いている。夜闇に映えるその色は誰もが言葉を失ってしまうほどに美しいが、彼の双子の弟――ヘズルの網膜がそれを投射することはない。彼の両目は生来光を宿してはいなかった。


「死ぬ、んだ」


 深い吐息とともにバルドルは言った。ヘズルは誰が、という問いを投げかけようとしたが、やめた。それを問うには兄の口調は重すぎた。その代わりに、兄によく似たおもてを伏せてヘズルは言う。


「君は死なないよ。だって誰からも愛されているんだから。君を憎むひとなんて、いない」

「そうだといいんだけどな。悪いなこんな話をして」

「気にしないで。めくらの俺の相手をしてくれてるだけでもうれしいんだから。どんな話でも聞くよ」


 ヘズルは笑って見せる。バルドルも、ぎこちないながらも笑みを返した。



 日が昇って、バルドルは両親の住む宮へと足を運んだ。柔らかな絨毯に片膝を埋め、父たる全能神オーディンに向かって夢の内容を告げる。


「あなたが、死ぬのですか……!」


 悲痛な声を上げたのは母だった。顔色は紙のようになっていて、片手で顔を覆ってしまっている。オーディンは小姓を呼ぶと、彼女に付き添わせて退室させた。それを心配そうに見送る息子に、彼は隻眼をやった。


「それはまことか」

「はい。……これは、正夢になるのでしょうか」

「わからぬ」

 

 オーディンは吐き捨てた。片目と引き換えに全てを知った彼でもわからないということがあるのだろうか、とバルドルは柳眉をわずかに寄せた。

 父王はそのまま、バルドルに一言もかけずに場を立った。彼が馬を駆ってどこかへ向かったと聞いたのはのちのことだった。


「父上も母上も大げさだ。ただの夢だっていうのに」


夕食の後、酒を舐めながらバルドルはこぼした。酒精のせいかすでに彼の目元には朱が差している。卓を挟んで向かいにはヘズルが座っていた。彼の手元にも杯は用意してあったが、最初に一度口を付けて以来そのままにされている。

 気分を紛わらすために酒を口にするなら他にも相手はいたが、今日はそんな気分にはなれなかった。しかし独りで杯を傾けるのも嫌だったので、同じ血を半分に分けたヘズルを呼んだ。彼は突然の誘いにもかかわらず、快くついてきてくれた。


「見たのがバルドルだからさ。みんな、君が死ぬ様なんて夢でも見たくないのさ。まあ、俺は盲だからどうやったって見えないけどね」

「そういう冗談は嫌いだ。自分を貶めるんじゃない」


 バルドルは語気を荒げる。酔いも手伝って感情に制御が効かなくなったようだ。ヘズルはあわてて謝った。

 かなりの酒をからだに収めてしまうと、バルドルは抗わずに眠りに身をゆだねてしまった。ヘズルは寝息をたてる兄に苦笑し、それからどうやって彼を寝室まで連れて行こうか考える。


「あ、お前ら」


 通りかかった雷神が二人を視界に入れたようで、ヘズルに声をかけてきた。卓に突っ伏したバルドルを見ると状況を察してくれたらしい。


「仕方ないやつだ。俺が運んでおいてやるから、お前はもう休め」


 ぶっきらぼうな、低い声がヘズルの耳朶をたたく。彼の荒っぽい行動そのままのその声は、ヘズルにとって意外に苦痛にはならなかった。


「ありがとう、兄さん」


 ヘズルは礼を言い、立ち上がった。手探りで壁を伝って扉までたどり着くと、引き戸を押して彼は部屋を後にした。


「兄さん、か。むず痒いな」


 雷神はつぶやき、肩にぐったりのしかかってくるバルドルをゆすりあげ、数ある弟の一人であるバルドルの部屋まで歩き出した。



 数日後、バルドルは母に呼び出された。椅子に半ば体を投げ出すように腰かけた彼女は憔悴しきっている。


「どうなされたのです、母上」


 バルドルが駆け寄っていくと、母は弱々しい笑みを浮かべた。力ない表情だったが、不思議と精神が満ちた様子がある。


「九つの世界を回ってきました。みなに頼んで、何人たりともあなたを傷つけることがないようにと、約束させました」

「母上、そのような……!」


 母は両の腕に息子を抱きしめた。幾分か骨ばった感じをあたえるそれに、バルドルは瞼を伏せる。


「――感謝します。どうかゆっくり休まれてください」

「ええ、これで枕を高くして眠りに就けます。ああ、一つ、忘れていました」


 母はバルドルの腕の中からからだを起こす。見上げてくる目は真剣そのもので、バルドルは身を固くした。


「宿り木だけには近づいてはいけません。あの子はまだ幼かったので、約束を交わしてはいないのです」

「わかりました。宿り木には、触れないことにしましょう」

 

 バルドルが返事したのを聞いて、母は再び彼の胸に頭を預ける。ややあって、規則正しく肩が上下し始めた。

 バルドルが傷つくことのないからだになったという噂はすぐに広まった。学友の一人がふざけて彼に向かって石を投げつけ、バルドルが傷一つ付けず平気な顔をしていたのでそれは確信となった。もともとの彼の人気とも相まって、彼の周りからひとが絶えるということはすっかりなくなった。

 母は安心しきって、ひと垣に囲まれる息子をみていた。明るく振る舞う彼を、彼女もまた深く愛している。九つの世界を回るというのは並大抵の所業ではなかったが、この光景をずっと見ていられると思えば疲れは飛んでしまった。


「――誰にも傷つけられない、ね」


 ひとだかりから離れて、バルドルを見つめる男がいる。美しい顔立ちには笑みを浮かべているがその表情はあまり善を感じるものではない。

 その視線に気づいたのか、雷神が車座から腰を上げてやってきた。目つきは厳しく、口をひらけば問い詰めるような口調になっていた。


「ロキ! 何かたくらんでいるな?」

「いいや何も。仮に何かたくらんでいるとしたって、僕にはどうしようもないよ。だって誰も彼を傷つけられないんだろう」


 ロキはひょいと肩をすくめてみせる。彼は雷神とは付き合いも長い。何かと一緒に行動を共にするので、彼の扱いは慣れたものだ。こうでも言ってやれば単純でひとを疑わない雷神は簡単に矛先を下ろしてくれるのは知っていた。


「君のその槌でも平気だった、って聞いたよ。そうしたらもうお手上げさ! 巨人をも一撃で倒すそれでだめなら僕に何ができると?」

「わかった! 疑って悪かった」

  

 なおも言いつのろうとするロキを遮り、雷神は車座に戻っていった。それを見送り、ロキは再び思索に入る。

 ロキは誰からも愛されるバルドルを、いやバルドルの向こう側に見える彼の父親を嫌っていた。むしろ憎んでいたとさえ言ってもいい。彼は住み慣れたかつての住処を連れ出され、子供たちとは無理やりに引き離された。このような仕打ちを受けて憎しみを抱かないようなことがあるだろうか。

 ロキはオーディンに復讐する気でいた。美しい笑みの裏で彼はいつもそればかりを考えていた。


「……お前も、わが子を失えば僕の気持ちがわかるだろう」


 くぐもった声は、車座からの歓声でかき消された。

 日を開けて、ロキはバルドルたちの母に会いに行った。姿は老婆のそれに変えた。彼女に怪しまれるのをおそれてのことだ。彼女が自分をよく思っていないのは知っている。

 バルドルの身の安全が確保されて安心しきっている今が、彼女からバルドルの弱みを聞き出す唯一の機会だった。

 

「私は驚いたよ。何を投げつけられても生きているなんてねえ」


 ロキが言うと、母は微笑む。


「ええ。私が九つの世界を回ってバルドルを傷つけないように、と頼んできたの。大変な道のりだったけど、あの子の笑顔が見られるのなら……」

「ああ、そうかい。それでも、何か例外はあるんじゃないのかい? 物事は何でもそういうものだろう?」

「――そうね。宿り木がだめなの。あの子はまだ幼くて、約束を交わすことはできなかったの」


 ロキは心の中でこぶしを握った。必要なことが聞き出せればもうここに用はない。正体がばれる前にさっさと退散するだけだ。

 ロキはできるだけ足を引きずって、ゆっくりと帰って行った。


 

 ヘズルは久しぶりにバルドルと場を共にしている。彼は最近、あちこちに連れまわされていて、顔を合わせる機会は随分と減っている。声を近くで聞くことでさえ長いことなかった。

 

「お前とゆっくりできなくなったな」

「いいじゃないか。俺はバルドルの身が安全になったっていうので十分だよ。俺は気にしないで楽しんできてくれ」


 ヘズルはバルドルの肩を押す。今夜も彼を主客に宴が催されるらしい。バルドルはその間隙をぬって、弟を誘いに会いに来た。


「それはできない。お前も来い。一緒に酒を飲もう」

「でも、俺みたいなのがいると、場がしらけるよ。……どうしても、って言うのなら、端の方にいる」

「わかった。お前は言い出すと聞かないからな、それで譲歩してやる」


 バルドルはヘズルの手を取って立ち上がる。足元の不安定な彼を気遣って歩を進めていく。

 宴の場所に着くと、先客たちはすでに出来上がっているようで、大きな声で騒ぎまくっている。ヘズルはするりとバルドルの手をすり抜けた。


「行っておいで。俺はここでいいから」


 ヘズルは木陰に腰を下ろして、そばの木に背を預ける。喧騒に耳を傾け、数ある声の中から同胞はらからのそれを探す。視覚を代償として、彼の聴覚は非常に優れたものがある。声を聞き分けるくらいのことは彼にとって容易なことだった。

 向こうではいつものようにバルドルにものを投げる戯れが始まったようだ。例の学友が石を投げた一件から、これが宴の場での恒例となりつつある。ヘズルはこれをあまりよく思っていない。


「ああ、今日もやってるんだ。飽きないねえ」


 人の気配を察するのに長けたヘズルでも、声がかけられるまでひとが背後にいるのに気付かなかった。


「ロキさん、ですか」

「うん。声でわかるかな」

「そうですね」


 ヘズルは身をかたくしている。彼はあまりこの男がすきではない。ロキは悪戯と称してはこのアスガルドに災厄をもたらしている。笑ってすまされることも少なくはないが、時折ひとの命を奪うようなこともある。


「君はあそこに混ざらなくていいの?」


 ロキは尋ねてくる。彼の猫なで声は甘い毒のようにヘズルの内をぞわぞわと刺激する。


「俺は、いいよ。あの遊びはすきじゃないんだ」

「そう言わないで。……君の兄だけがああやってひとに囲まれてる。なんともおもわないのかい」


 ヘズルは一瞬言葉に詰まった。ロキはにやりと笑う。

 

「寂しいだろ? 血を分けた双子の兄弟だっていうのに、君はいつも置き去りにされてきた。ただ目が見えないってだけなのに。君たちの能力はさして変わらないはずだ。それなのに君だけはいつも、いつも爪はじきにされる」

「ロキさん、それ以上は言わないで。俺はこれでいいんだ。俺は、バルドルが幸せなら、それで! 俺は盲だから、この戦いの続く世界じゃどうやったって幸せになんかなれない、必要とされない、誰の役にも立てないんだ! 俺の代わりにバルドルが幸せになれればそれでいい、いいんだから……」


 ロキはわざとらしくため息をついてみせた。ヘズルは怪訝そうな表情でロキの方を向く。


「――君たちは兄弟だ。ヘズル、君はちょっと卑屈になりすぎるんじゃないのかい? 君の兄はそんなことは望んでないはずだ。君はもっと自分の力を信じていい。たとえ盲でも君は戦神、その能を皆にみせつけてやれよ。誰だって君を認めてくれる」


 ロキは自らの滑らかに動く口にかなりの自信を持っている。いくらヘズルがロキに対して警戒心を持っていても、それを潜り抜ける術はいくらでも用意できる。常人から比べると入ってくる情報が一つ少ない彼をだますのは容易なことだ。

 ヘズルの心がこちら側に傾いてきているのがロキには手に取るようにわかった。あと、一押ししてやればいい。


「ヘズル、こいつを投げつけてやれよ。君の兄は今何ものからも傷つけられないんだろう? あたっても平気さ」


 ロキはヘズルの手に『それ』を触れさせる。しばし迷うような様子を見せ、ヘズルは『それ』を強く握りしめた。ざらりとした肌触りで、先の方は尖っているようだ。あまり重さは感じない。


力一杯投げてごらん! 方向は俺が教えてあげるよ」


 ロキはヘズルの腕を支えて、ゆっくり持ち上げる。細いわりに筋肉がついていて無駄はない。投擲の姿勢を取ると、全身が一気に緊張する。ロキは計画の成就を確信して、にたりと笑った。


「さあ! 僕に見せてくれ!」


 ヘズルは渾身の力を込めて『それ』を振りぬいた。尖った切っ先は空気を切り裂き、過たずにバルドルの胸に吸い込まれていく。

 風を、服を裂いた『それ』はバルドルの皮膚をも裂いた。肺に深く突き刺さった『それ』は――宿り木は彼の肋骨を砕いて、背中を貫いてようやく止まった。少し遅れて裂け目から鮮血があふれてくる。じわりと零れてくるそれは、すぐにでも死に至る量に達するだろう。肺胞に満ちる血液は彼の呼吸を阻害し、口から吐き出されたそれは喉に絡みつきさらに死を加速させる。

 地に縫い付けられたバルドルを茫然と見つめて、車座の雷神はふと我に返った。この場にはふさわしくない笑い声が彼の耳に飛び込んできたからだ。


「死んだ、あの女の言った通りだ! あははは! 光の神は死んだ! 死んだんだ!」


 雷神は声の方向に振り返った。狂ったように笑うのは、彼のなじみの美貌の持ち主だった。


「ロキィーッ!」


 雷神は地鳴りのような怒鳴り声を張り上げた。傍らの槌を振り上げる頃には、ロキの姿は掻き消えるようになくなっていた。


「……バルドル?」


 残されたのは状況の呑み込めていない盲の神だけだった。



 世間はヘズルには同情的だった。誰からも愛されたバルドルを手にかけたのは間違いなく彼だが、手引きをしたのはロキだ。悪評はそちらに集まった。

 しかしヘズルが出歩くことは二度となかった。部屋にこもりきりで、誰が尋ねても返事すらしない。

 それでもしつこく彼を訪ねるのはかの雷神だった。扉越しに、長いことヘズルに話しかける。情の篤い彼は、半分だけとはいえ血のつながった弟を放り出すことはできなかった。


「――兄さん」


 その日も雷神は弟を訪れていた。呼びかけられたのは、いつものように彼に話しかけ、反応がないのをみて立ち去るところだった。


「兄さんの槌で、俺を殴り殺してくれ。俺のこの目じゃ一人では死ねない」

「お前!」


 しばらくぶりに扉があいた。立っているのはやつれはてた弟。高い頬骨も健康的に肉がついていればこそ美しい。今の彼ではただ痛々しいだけだ。


「酷く、殺してくれ。手足の先から骨を砕いて、筋を残らずすり潰して。歯も鼻も全部叩き折って、誰が見ても俺だとわからないようにして、頭を叩き潰してほしい。忌々しいこの目は俺が生きているうちにくりぬいて、そこら辺の犬にでもくれてやって――」

「よせ! ……俺はそんなことはできない。弟を殺すだなんて」

「もう俺は死んでいるよ、死んでいるんだ。バルドルと一緒に俺の心は死んだ。心が死んでいるのにからだが生きているなんておかしいだろう?」

 

 雷神は言葉に詰まった。ヘズルの目は本気だ。一度言い出すと聞かないのがこの弟だ。それは雷神もよく知っている。


「あの日流れたのは俺の血だ。バルドルと俺は同じ血が流れていたはずだ。一緒に死んでなければいけないんだ、俺たちは」


 雷神は耐え切れなくなって弟を掻き抱いた。筋肉も脂肪も落ちたからだは薄っぺらく、少しでも力を入れれば折れてしまいそうなほどだった。

 すすり泣く声が聞こえてくる。雷神は何もできず、ただ弟を抱きしめるだけだった。


※ 


 ヘズルが落ち着きを見せるようになったのは、父王に呼び出されてからだった。雷神は疑問に思いながらも、一応元気を取り戻した弟に安堵を感じている。

 近頃は父王の側女の一人のもとにいるらしい。この側女というのが妊娠をしたらしく、それがわかったときからずっと通っていると聞く。

 下のきょうだいの誕生を心待ちにしているその姿はなにかほほえましいものがある。雷神は、彼についてこの女を訪れることにした。

 もうじき出産のようで、彼女の腹部は大きく膨らんでいた。そっとふれるとなかの赤ん坊がうごくのが手のひらを通して伝わってくる。

 ヘズルは床に膝をついて赤ん坊の動く音を聞いていた。彼の優れた聴覚はわずかな音も拾い上げる。赤ん坊が母親の胎を蹴り上げると、それを聞いてヘズルは小さく笑う。

 雷神は妙な違和感をこの空間に持っていた。部屋に足を踏み入れた瞬間からの感覚で、雷神は一人首をかしげていた。

 ふと、女の顔に目がいった。それで、違和感の正体はつかめた。


「お前、うれしくないのか」


 雷神は女に問うた。女はびくりと表情をひきつらせ、雷神を見上げる。


「子を得る喜びで、女たちは幸せそうに笑うぞ。俺の妻もそうだった。それなのに、お前はなぜそう浮かない顔をする?」


 女は下を向いた。膨らんだ腹を見て、彼女は顔色を蒼白にする。女に代わって答えたのはヘズルだった。


「この人はね、俺を殺してくれる子を身ごもっているんだ。その子の名前はヴァーリ」


 ヴァーリ――復讐者。雷神は全身の血が下がっていくのを感じた。


「素敵だろ。この人のなかで俺の罪が育っていくみたいだ。大きくなった罪はやがて、俺自身を殺すんだ。……弟に殺されるだなんてバルドルと同じで気に入らないけど、まあいいや。だってこの子はきっと俺を酷く殺してくれるだろうから!」


 ヘズルは、双子の兄とよく似た笑顔を浮かべた。いくらか肉付きのよくなった頬には朱が差している。


「私は、こんな子を産みたくありません。人を殺すことが最初から決まっている子供なんて!」


 側女が絞り出すような声で言う。おそらく、彼女の夫であるオーディンからきつく言われているのだろう。だから、腹の子を殺すこともできずにただただその成長を見ているしかできない。

 雷神ははた、と思い当った。確か、父王はすべてを見通す力を持っていたはずだ。そうなると、この度もうけた子供が復讐者となるのは知っているはず。

 雷神は片手で顔を覆った。


「親父……っ」


 父の厳しさは知っていたはずだ。それでも、雷神は打ちひしがれる自身を慰めることはできなかった。



 子供は無事に生まれた。彼は一日で成人し、兄を死に至らしめるという。

 ヘズルは生まれた子をいとおしそうに撫でる。


「可愛い俺の弟。俺の罪。ああ、早く俺を殺してくれ! 生まれてきたことがすでに罪であったと俺の愚かなからだに刻み込んでくれ!」


 赤ん坊は無垢な瞳で兄を見上げる。

 ヘズルは己の『罪』を抱きしめずにはいられなかった。この『罪』はあの日の兄の血と同じ香りがするのだ。



『The Sin』



私のお気に入りの作品のうちの一つです。私自身双子ということもあり、この神話には人並み以上に思い入れがあると思っています。血を分けた双子の兄妹を手にかけてしまったその心情を察することはできません。

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