夢の跡には
町から遠ざかるにつれ、水は透明度を増し、魚の姿も見られるようになった。それが本来の海の姿なのに、わたしは妙に感動してしまった。
「母様、お待たせ」
わたしと父様が母様の元へ帰り着いたころには、もう東の空が白み始めていた。
「遅かったじゃありませんか」
母様の辺りには大量の海藻が漂っていた。まだ新鮮だったり根っこに砂が絡みついていたりするところを見るに、母様が引っこ抜いたものだろう。相当に待ちくたびれていたらしい。
「……景色は悪くなかったぞ。水は相当のモノだったが」
父様の言葉に、母様はそうですか、と頷いた。心なしかテンションが低い。
「わたしが夢に見てた建物ね、時計台だった。今日行ったら完成してたみたい。きれいな音だったよ」
「でもあなたたち凄い臭いよ」
母様は顔をしかめた。母様に言われて気が付いたが、鈍った嗅覚では自分の体に染みついた匂いがどれほど酷いのか分からなかった。
父様も自分の体の臭いを気にしていたが、首をかしげていたところを見るに嗅覚が麻痺しているようだ。
「わたしは困らないけど、父様は明日から仕事だよね。大丈夫なの?」
「知らん。何とかなるだろう」
難しい顔の父様を先頭に、わたしと母様は帰路につく。両手に抱えきれないほどの海藻を抱えて。
わたしの軟禁生活が再び始まった。窓から外を見るだけの生活だ。
港町へ行くまでは、早く家から出たいという思いが強かったのだろう。だからあんな夢を見たのだ。
汚泥のような水に浸かったことで、わたしの考えは変わった。あんなところへはもう行きたくなくなったのだ。すると、今度はあの町の思い出は悪夢に変わった。
食欲も昔ほどとまでは言わないが戻ってきた。
わたしがおじ様のようになるのではないかと心配していた母様も、わたしの変化を喜んでいた。父様も上機嫌な日が続いている。仕事も順調なようだ。
二人の様子を見ていると、わたしのワガママが両親の生活の支障になっていたのだと痛感させられた。
大人しく暮らすことが二人に迷惑をかけないことが、わたしにできる数少ない親孝行だろう。
家に閉じこもりっぱなしだと世間知らずになると心配して、母様は色々な人を家に招くようになった。物知りのお年寄りや、時には知り合いの学者さんも来てくれた。
特に、一人暮らしをしているお婆さんは、時間を持て余しているのか頻繁にやってきた。お婆さんは、年に何度か里帰りしてくる子どもたちから聞き知った話をよくしてくれる。
次男が人間の住む町の近くで暮らしているということもあり、人間の世界についても教えてくれた。その息子さんが最近実家に移り住んだのだという。
「どうして急に」
「水が汚くて住めなくなったんだと。嫌じゃねぇ、人間は」
「前に人間の町を見に行った時も酷かったし……。どうしてあんなことになったか知ってる?」
お婆さんは曲がった腰をグッと伸ばしながら、渋い顔で答えてくれた。
「工場だと。汚い水を川に垂れ流しとるらしい」
「それが海に……」
「そういうことじゃな」
かなり離れた海でさえあの汚れようだ。だとすると、水が垂れ流されているという川は一体どうなっているのだろう。
「水だけじゃないぞ。空気もかなりじゃと」
お婆さんはわたしをおどかすように凄味のある声で言う。
「じゃ、じきに人間も死滅するね」
わたしが冗談めかして言うと、お婆さんはかっかっかと笑った。
「人間というのも存外図太いもんよ」
これから買い出しに出なければならないということで、お婆さんとはそれでお別れになってしまった。今度は息子さんも一緒に来てくれるという。
「こーぉやっ!」
窓の外から明るい声が聞こえた。あれは幼馴染の……――。わたしは思わず窓に駆け寄る。
――違う。あの子はもういない。
窓から身を乗り出そうとして窓枠に手をかけた姿勢のまま、わたしは動きを止めた。視界に入ったわたしの手は、とても小さい。子供の手だった。
「これは……、夢?」
あの子、名前は何て言ったけ。わたしが五つの時に潮の流れにもまれて迷子になってしまった一つ年下のあの子。
しっかりと手を繋いでいたはずなのに、どうしてはぐれてしまったんだっけ。
一緒にいたわたしは、驚いて逃げ帰ってしまった。その時ほど自分の泳ぎが遅く感じたことはない。やっとのことで帰り着いたわたしだったけれど、しどろもどろの説明を大人に理解してもらうまでに相当な時間を要した。
そのせいもあって、大人たちが現場に辿り着いた時にはもう手がかりになるものも何も残っていなかった。
わたしのせいで、あの子は行方不明になってしまった。
事故に遭ったのは流れが速いから行くなと言われていた場所だった。あの子を連れて行ったわたしは、両親からこっぴどく叱られた。
――これは、封印していた記憶。
どうして今更になってこんなものが?
「こーや? いないのー?」
声の主はぐるぐると家の周りを回っている。あの子がもうすぐこの窓の前に来てしまう。わたしは咄嗟に窓の下に身を隠した。
「こーやぁ、出ておいでよぉ。遊ぼー?」
恐怖感はなかった。けれど、罪悪感は強い。わたしは隠れて震えながら夢が終わるのを待った。




