戦火の町
わたしは海を漂っていた。
どれだけの時間泳ぎ続けたのか、もう分からなくなった。生まれ育った、あの岩だらけの海底はもう見えない。
言ってしまえば、ただの家出だ。口うるさい親が嫌になって、決まりきった毎日に飽き飽きして、棲家にしていた岩場を離れてしまった。
今のわたしの周りにあるのは、藍色の水と、キラキラ光る魚、そして、下から湧き上がってくる細かな泡ばかりだ。わたしに纏わりつくように泳ぐ小魚を、一匹つまんで口へ運ぶ。
ぶにゅりとした食感と、独特の味が口内に広がった。
「うっ」
反射的に吐き出しそうになるのをぐっとこらえて、海水で流しこんだ。
魚の味は好きになれない。けれど、海藻があまり見当たらないのだから仕方がなかった。飢え死にしないためには、好き嫌いなど言っていられない。
わたしは尾びれを動かすと、重い水をかいて水面へ上がった。
久し振りに水の上に顔を出すと、月明かりが眩しかった。目を細めながら、辺りをぐるりと見回す。
右手に陸が見えた。
けれど、それはわたしの知っている陸の色ではなかった。
――赤い。その一言に尽きる。赤い光が、蠢いていた。
わたしが生まれ育った海から見えた陸とは、全然違う。炎に飲まれた世界だった。
「なに、あれ……」
思わず漏れた声は、潮騒にかき消された。
わたしの上を、見たこともない鳥が大きな羽音を立てて飛んでいた。その鳥に、わたしは言葉を失った。
今まで見たことのある鳥の中で、一番大きい。ピンと伸びた羽は、羽ばたきもしなかった。それでも、大きな体がこちらへ落ちてくることはない。
鳥は赤く染まった町の上を旋回すると、海の彼方へ飛び去って行った。
わたしは得体の知れない鳥が戻ってこないように願いながら、深い海の底へと逃げ帰った。
海底の砂に埋もれるようにして眠っていたが、頭がずきずきと痛むので目が覚めてしまった。慣れない物を食べるとすぐに頭痛に襲われる。わたしは自分の体質が嫌でたまらなかった。
「うー……」
こめかみをつついたりさすったりしてみても、痛みの度合いは変わらない。しかも、その痛みは断続的に続いた。
自業自得といえばその通りなのだが……。
わたしは何ともやりきれない思いで水面を見上げた。
少し離れたところに船底の影が見える。どうやら、漁船のようだ。わたしは船を視界に収めながら、じっくりと様子を観察した。
「昨日は難儀だったな」
「いやぁ、よく生き延びられたもんだ」
「戦争はおっかねぇよ」
言いながら、男が船から身を乗り出した。
――……っ!
人間には近付くなとさんざん言われて育った私は、反射的に体を動かしていた。尾ひれに巻き上げられた砂が、水中で広がる。
「おっ? でかいのがいたぞ」
海の中をのぞき込んでいた男が、声を上げた。
――まずい、見付かった。
わたしは必死で水を蹴った。今までに出したこともない速度で水中を移動する。けれど、私の体力は長くは持たなかった。
長く続いた放浪生活で餓死寸前までやせ細った体は、すぐに悲鳴を上げた。まるで尾ひれに岩を括りつけられたように重い。鉛のような体に鞭打って泳いでいくが、すぐに船の影が追い付いてきた。
水が大きくうねって、何かを飲み込んだ。
大きく広がる格子状の影が何であるか、はじめの内はわからなかった。四つ角に重りのついた、徐々に迫りくるモノが網であることに気付いた時には、網はわたしの手が触れるくらいまで近付いていた。
もがきながらも網から遠ざかる。他の魚たちも、わたしと一緒に泳いで逃げ出した。網は、逃げ遅れた数匹の魚の上にかぶさった。
――助けてやれなくてごめん。
胸の中で手を合わせながら、わたしは沖へ泳ぎ出した。
漁師は「センソウ」と言っていた。けれど、わたしは生まれてこのかたそんな言葉を聞いたことがなかった。父様も母様もお爺様も、誰もそんな言葉は使っていなかった。
「センソウ」とは何なのだろう。
――もしかして、あの鳥の名?
あの鳥はわたしも嫌だった。怖い、直感的にそう思った。理由はない。本能的な恐怖だった。
この町から離れよう。
そう心に決めてから、少しだけ心が揺らいだ。もう一度だけ、炎に包まれていたあの地を見てみたいと思ったのだ。夜に見たあの陸地は、昼の光の下で見るとどうなっているのだろうか。好奇心が刺激されてしまった。
船影がなくなったことを確認して、人間があまり近づかないような岩場へ移動して水面へ上がった。辺りは静かで、波も穏やかだった。
昨晩は暗くてはっきりとしなかったあの陸地には、小さく開けた港町があった。ところどころが焼け落ちて、黒い煙が燻っている。周りにある森からも、煙が上がっていた。
その中でひときわわたしの目を引いたのは、真っ白な建物だ。まだ造られている途中のようで、何の建物なのかはわからなかった。けれど、その建物だけはこの町とは別の空間にあるような印象を受けた。
これ以上、センソウに壊されて欲しくない。
思うことはできても、センソウの暴走を止めることはできない。わたしにできるのは、センソウの来ない土地へ逃れて自分の身を守ることだけだ。
町の景色を瞳に焼き付けると、わたしは海へ深く潜った。




