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津波の深さが何メートルくらいあったかは当然分からない。
壁らしきものを掴み、這い上がった先に光はあった。
それは何とか激流から頭を出している。
流されないように更に這い上がり、辛うじて頭を出している天辺に身体を乗せる。
人一人分もないスペースに覆いかぶさり、身を預け、一度休憩をしようかと考えたが、周りの景色を見てそれが不可能だと知った。
木々が流れ、屋根が流れ、車が流れ、倒れる電柱が火花を散らす。
流される車に人が乗っている。
だがソコには俺の声も手も届かない。
流れる水で敷き詰められたそのスペースには、反比例する様に目が霞むほどの土や埃が舞っている。
この足場もどれだけ持つか分からない。
何も考えていなかった気がする。
思い出せないだけかもな。
俺はその壁の天辺に立ち、体を横にして綱を渡るように歩いた。
身体を何度も打ち付けたから、歩く感覚がいつもと違う。
何とか歩く俺の横を、人がもがきながら流されて行こうとした。
「間に合う!」と声を出したな。
俺は流されるソイツに手を伸ばしたが、ソイツは俺に気付かない。
ぎりぎり手も届かない。
ソイツは先に流されていった。
この段階で、俺はまだ現実を凝視出来ていない。
何かフワフワとした気分だった。
徹夜した朝にボーッとして起こるアレに似ている。
いつもの景色が幻覚に見える、あの欠伸も出ない感覚と同じだった。
揺れる足場を何とか伝った先は陸ではなく、完全には崩れていない建物だった。
これはマンションか?
何か塔のようにも見えるが、壊れてしまっていてよく分からない。
ジャブジャブとこの建物を横切って流れる津波をかわし、俺は何とか一番高い場所へと昇る。
何とか昇りきると、そこには人一人が横になるくらいのスペースがあった。
助かった…くらいは一度思ったかもな。
そこで周りを見渡してみたが、陸が見えない。
土と埃と何かで遠くが見渡せない。
腰を下ろした俺がまず口にしたのは、
「マジか……佳澄ちゃん……」
だった。
言った後に、いや美幸だろ!いや、何で琢磨の彼女の名前やねん!なぞと自問自答をした。
まあ、そんな事はどうでもいいか。
黙っていれば誰も怒らせないな。
舞い上がる土や埃とは違う何か。
落ち着いてみると黒煙だった。
火事だ。何次災害やねん。
その状況を見、……ひょっとしてさっき擦れ違った、顔も覚えていないあの街の連中は……あの年寄りやガキや犬は?
俺はここでようやく現実を見た。
続きを考えるのは止めにして、俺はその次を考えた。
この状況、周りには人が一人もいない。
俺は悔しくてよ。アイツらに言うたんや。
生きとけよ!
死んだらアカンぞ!!
生きて何ぼやぞ!!
そんな気の利かない言葉だけを何回か繰り返した。
ただの独り言ではなかったはずや。
立ち尽くすしかない俺にあの時出来た事は、奴らの無事を一つずつ、ただ願う事だけだった。
全く知らない奴らなのにな。
この時、流されたであろう奴らやこの辺りに住んでいた連中を、俺は他人とは思えなかったよ。
何度考えても、全て現実やったよ。
とにかく寒い。
財布はあるな。
しかし寒いな。
携帯を無くした。
寒過ぎるやろ。
足が歪んでもうとるやんけ。
しばらくはこんな感じの事を考えてたな。
波に呑まれた際には重くて邪魔でしょうがなかったコートが役に立った。
俺は毎日、何かしらの形で一袋はお菓子を食べる。
今回は小さいからと、二つ買ってあった。
それがコートの内ポケットに入っていた。
いつもは内ポケットなんかに仕舞わないんだがな。
生きたのがたまたまなら、内ポケットにお菓子が入っていたのもたまたまか。
必死やな、俺は。
腹が減ると体温が下がる。
腹を満たす程の量はなかったから計算して食おう。基本だな。
下を見下ろす限り、まだ降りられそうにない。
当然だろ。
辺りが暗くなってきたが、津波に呑まれた際にはもう暗かったような気もする。
あの時はまだ昼だったよな。
まだ夜じゃないな、どう考えても。
どれくらいここにいるのだろう。
忘れたい事程忘れられない。
この下の濁流を、俺がここに登ってから三人流されていった。
四人目の時、ソイツは俺と同じ場所に引っ掛かった。
急いで下りようとしたんだが、足が外れてしまってよ。濁流に落としちまった。
移動出来なくなっちまった。
いや、違うな。
何とか足が片方なくても移動は出来た。
言い訳だけどな、足が外れてなくても助ける事は出来なかった。
ソイツは背中だけを水面上にプカッと浮かせていた。
波に逆らわず、無気力に流されて行っちまった。
…また俺を無視しやがって。
持っているお菓子はチョコレート使用の物だ。
袋に手を突っ込むと、チョコレートが少し溶けている。
内ポケットに仕舞っていたからな…。
俺はこんなに寒いのにな。
さっきの背中に俺は、「さようなら、また会おう」としか言えなかったな。
やっぱり気の利かない間抜けだ、俺は。
どうやらこのペンはおろしたてで、インクにまだまだ余裕があるようだ。
暇だから色々書こうかと考えていたら、思い出した。
これは佳澄ちゃんに渡す物だったな。
折檻なんて書いちまったな。
…また怒られるな。
悪い意味じゃねぇんだよ。
でも俺の言い訳はいつも聞いてはもらえないな。
だから文章にして説得力を増すとしようか。
アンタは面白い奴だ。
誰よりも真面目に生きてきたのに、色んな意味で自由に生きてきた琢磨みたいな奴に捕まった。
まあ、言い方を変えりゃあ捕まえた、だな。
俺は裏でも表でも沢山の人間に会ったが、琢磨みたいな奴には会った事がない。
琢磨は、アイツ自身が最も嫌がる変わり者の代表みたいな奴だ。
アンタは普通だ。
普通のアンタが変わり者と一緒にいる事で、そのアンタの普通が面白い。
アンタは母親に似る事を嫌がってるな。
心配せんでいい。
本当に似るのが嫌なら、琢磨が「似てねえよ」と言うだろう。
アンタが似ても構わないと思うようになったら、琢磨がまた「それ良いやん」って言うだろう。
アンタがアイツをいい加減な奴だと思っていないなら、アンタは自分を許せるはずだからな。
まぁ、美女と獣でこれからも走り、歩けばいい。
心配はいらねえよ。
何度も言うが、アンタはベッピンさんだからな。
誰もアンタから目を逸らさねぇ。
次は琢磨の事を書くか。
佳澄ちゃんは、アイツが赤い頭をしてた事を知ってるかな。
アイツはガキの時から変な奴だったんだ。
やけに喧嘩が強くてな、大人が数人束になっても勝てないような奴だった。
元プロレスラーと喧嘩して、勝った事もあったな。
あんな頭してるくせに、ヤンキーだ不良だって言われると怒るんだよ、アイツは。
格好だけ見たら不良以外の何モンでもなかったんやが、マジギレしやがるんだ。
まぁ、とは言っても、大勢で群れて悪さしてるわけじゃなかったけどな。
よく分からん奴だったな。
よく分からんのは今もそうだな。アンタが一番知ってるな。
あの頃の話だがな、陸橋を渡るのをしんどそうにしているバアサンを見兼ねて、負んぶしてやってるアイツを見たんだよ。
ドラマや漫画以外でそんなシーンを見た事がなかったし、やる奴なんて当然見た事がなかったが、アイツは平気でやっていたな。
それより何より、赤い頭した変な奴に負んぶされたバアサンのビビりようが笑えたな。
橋の天辺辺りで道路にブン投げられるとでも思ったんじゃねぇか?
中学生の時、アイツは確かに俺の弟子だったんだが、今はどっちが師匠か分かんねぇな。
ついでにアンタに昔悪かった奴、まぁこの際だから頭を使ってた奴と表するか。
そんな奴の見分け方を教えてやるよ。
眉と眉の間、眉間の少し下だ。
そこに真一文字に深いシワのある奴は、色々と頭を使ってる奴だ。
アイツも顔にシワなんかないが、その真一文字が眉間の下辺りにあるだろう?
どうでもイイか、こんな事は。
アイツはガキの時から色々と悩んでいたが、それと同じくらい行動もしていたよ。
まぁ、お世辞でもあるがな。
俺はここが何て街なのか分からないんだが、この地にあんな津波が来たって事は福島にも津波が行ったはずだ。
そこで俺が考えるのが、福島原発だ。
無事ならいいけどな。
もし原発事故が起こったら、琢磨に色々と聞け。
アイツはアンタの住む○○に移り住む際に、放射能や原発について勉強してから行ったと言っていた。
アイツが以前話していたのを思い出すと、半径~メートルなんてのは放射線の話で、この時世なら放射能・放射性物質はどこまでも移動すると言っていた。
花粉と同じ対策で、とりあえずの軽減は出来るとも言っていたな。
そして場合にもよるが、最悪の場合は何をしようが修復まで年単位の時間を要するとも言っていた。
あくまで想定だが、水素爆発などを起こした場合はアイツの言う事を聞いた方が良い。
俺もアイツも○○○○○だ。
アンタと美幸は、間違いなく○○○だな…。
随分話が逸れたが、こんな場合でも俺は日本の一部でありたいんや。
それくらいエエやろ。
とにかく琢磨は面白い奴だから、最悪でも縁は切らない事を勧めておこうか。
違うな。
これじゃあ琢磨への言葉ではなく、佳澄ちゃんへの言葉だな。
さっきから足場の揺れが酷くなりだした。
柴田
仕事関係じゃ、お前との付き合いが一番長かった。
お前なら、俺とは違う色見で会社を続けてくれるだろう。
いいか。組織ってのはな、頭は一つしかいらん。
右や左や斜めや下や… そんなのはいいから、上だけ見ていろ。
真紫
お前が柴田の尻を叩くんだ。
しょ~~~~もない人の目や関係は気にするな。
組織ってのは、仲間である必要はない。
同じ方向さえ向いてれば何とかなる。
お前の努力は俺らが見とる。
心配いらん。
田宮
いつもパシリみたいな感じで悪かったな。
必要以外のパシリはさせた事はないんだが、お前の真意は俺の知る処には見えてないからな。
ただ、いつも誰かに怒られてるお前を笑うてる奴は、俺らの中には一人もいねぇ。
分かるな。理解したな。
だから生きてろよ。
美幸
俺が被災してるなんて知らねぇわな。
悪イな。
何か、いつもお前には謝ってた気がするな。
あまり話す事はないんやが、何も残せん俺を許してほしい。
お前には必要な書類を残している。
場所は真紫に聞いてくれ。
俺にはお前が最後の女だと分かっていたからな。
今までの人間関係の中では随分と話した方だと思うが、足りなんだか?
有難うな。
琢磨
お前とは、何年付き合ったか忘れた。
随分と話した。
まあ、お前とは十分話したな。
以上。
これじゃあ遺書になるな。
遺言なんかねぇからな、十分だろ。
気のせいではない夜が来た。
亡霊のようにここに座ってられるのも、いつまでか分からない。
随分と足場が揺れる。
余震のせいじゃねぇな、これは。
寒いな。まだ服が乾かない。
俺には死ぬ覚悟なぞない、憂いも残さない。
一瞬の事だろうから、用意がいるだけだ。
その時は今回流され、逝った同胞達に置いてかれないようにしないとな。
俺の好みは、求道者の間に挟まれて逝く、だな。
それが理想だ。
恐らく恐怖が俺の中で先行している。
こんな経験は一度もない。
皆には内緒だ。
◆
しじまを見つめた俺は、また助かったんだと確信した。
水は引き、海と云うよりは川のようだったこの地から沢山の物が顔を出す。
数時間前までは、間違いなくここは町並みであった。
今は沢山の物があるにも関わらず何もない。
何人が死んだんだ、と問うよりも、何人が生き残ったんだ、と聞きたくなる光景。
自身に自若を言い聞かせ、俺は歩いてみる。
俺の義足は流される事なく、落とした場所にあった。
あの、俺が身を寄せていた場所のすぐ下で津波の流れに右往左往しながらも、見える場所にあり続けた。
外れた足まで本体と同じ運命を辿っている。
だから俺は何とか歩ける。
やはり人はあの流れの下にいたんだな…。
瓦礫と一緒に横たわる何人もの人を見て、俺はこんな指数が極めて低い感想を持った。
目に入る一人一人に声を掛けてみた。
「おい!」だとか「なあ!なあって!」とか「起きろ!」とか「朝やぞ!」とか。
誰一人、起き上がってはくれないんだよな。
寝てるわけやないんやな。
俺は横たわる人達を一カ所に集める作業を始めた。
こいつらには探してくれる人がいるだろうから。
その人達に会い易いように。
仰向けにして、皆を寝かせた。
紫色に変色した顔面を見れば大体は分かる。
この中で今、生きているのは俺だけだ。
叫びそうになったが、皆をビックリさせてはいけないので我慢した。
瓦礫の近くは余震の影響で何があるかまだ分からないから、出来るだけ広い、瓦礫のない場所に集める。
何時間そうしていたかは分からない。
見張りでもしていた方がいいか?
貴重品を持ってる奴が何人もいるからな。
自衛隊はまだか?オレンヂは?
ここは何処や?
誰も教えてはくれないので移動する事にする。
先程並んで寝かせた奴らの中の若い男子三人に断りを入れた。
服を貸してくれ。必ず返しに来る。
本やゲームを借りパクするのがオハコだった俺だが、今回は必ず返しに来る。
霞む目の中で見る光景は常軌を逸しており、俺は自分だけは…なんて事は考えられないでいたよ。
アソコで寝てるアイツらを、助けないとな。