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あなたの光になれたら。

掲載日:2026/11/04


 彼女が、泣いていた。

 知らない顔ではなかった。——白楽 しおん。いつも同じ講義室のすみっこにいる彼女。白髪交じりのふわふわな髪と小柄な体型が、ちょっと小動物っぽい子。

 それが、泣いている。昼休憩。学食近くの花壇。座って、静かに鼻をすすって、泣いている。

 可憐だ。いや、でも、それ以上に——。


「ねえ、白楽さん。ちょっといい?」

「だれ……えっと」

「あたし。菊名 あざみ。同じ講義受けてる」

「……どう、したの」

「一緒に学食食べない? 奢ったげる」


 ——なんだか、放っておけなくて。

 思わず伸ばした手に、彼女は困惑したかのようにキョロキョロと辺りを見渡して、それから少し俯いて、十数秒迷って。

 それから、震えながら。

「……ん。おねがい、します」

 そっと手を取った。


 あとから思えば、既にこの時点であたしは彼女に落ちていたのかもしれない。

 なにに。——恋に。

 得も言えぬような、どうしようもない恋に。

 ただ、気になった。話を聞きたくなった。——守りたくなった。助けたくなった。救いたくなった。

 頭の中は、そんな言い訳じみた「理屈」で埋め尽くされていた。

 ——結局、その根源にあったのは、愛としか言い表しようのないものだったのだろう。


    *


「……いいの? こんなに」

 学食の普通盛りのはずなのにやたらと量の多いカレー(四四〇円)を前に、彼女はつぶやいた。

「いいのいいの! いっぱい食べな!」

「食べきれる、かなぁ……」

 苦笑する彼女。

「食べきれなかったらあたしが食べるし問題ない!」

「えぇ……ふふっ。わかった」

 微笑してスプーンを口に運ぶ彼女。……お米を頬張ってるとハムスターみたいで可愛いな。思わずこっちも目が細くなる。

 そんな和やかな雰囲気に乗るように。

「で、どーしたの?」

 あくまで軽く尋ねてみると。

 彼女は、息を呑んで俯いた。

「あー、その」

「気になる、よね」

「まあ、そりゃあ……こんなかわいい子が泣いてたら、まあ」

「よく言われる。……前は、あの人からも……いっぱい、言われたのになあ……」

 また泣きそうになる彼女。その頬に、思わず触れてしまった。

「ひゃっ……なぁに?」

「辛いこと聞いちゃったね。ほら、食べて元気だそっ!」

「……うん。そうだね。ありがと」

「あとさ、今日ってたしか午後の講義なかったよね」

「えーっと……あ、うん。そうみたい」

「映画行こ! あとさ、その近くにスイーツバイキングあるし、行かない?」

「えと……」

 しまった、ちょっと身を乗り出しすぎちゃったかもしれない。

 困った顔。口を閉じて身を引くあたしを、彼女は「待ってっ」と小さく引き止めた。

「……ごはん。ありがと」

「どーいたしまして」

「…………あそびも、さそってくれて、ありがと」

「ど、どーいたしまして?」

「………………いきたいんだけど、いい?」

「それはもちろんっ!」

 胸を張ったあたしに、彼女は小さく声を出して笑った。

「ありがと。わたしを……元気づけようとしてくれて」

「いいのいいの! 困ったときはお互い様って言うでしょ?」

 慣用句で便利にすましておく。意味はわかってないけど。

 くすっとまた笑った彼女に、あたしの顔はまたほころんだ。

「食べたら行こ! 映画デート!」

「でっ……デートなんて……っ」

「あ、あくまでもじょ、冗談っ。ほら、食べよ!」

「……そろそろおなかいっぱいかも。けぷ」

「残った分はあたしが食べるよ!」

「ありがと……」


    *


 ——で、数時間後。

「映画、面白かったね……あざみちゃん」

「ねー、しおん。子供向けかと思ってたら、最後……あの展開……っ」

 白楽さん——しおんは、目をキラキラさせるあたしに、綺麗に微笑んだ。

「すごかったねえ……」

「だってさあ。あんなのずるじゃん! 絵で子供向けだと思ってたあたしがちょっと恥ずかしいよ! バズってたのも納得! めっちゃ泣いたし!」

「そうだねえ。……ばずるってなに?」

「え、しおんそんなのも知らないの!? SNSは? インスタやってる?」

「いん、すた……? なんかこわいって聞くけど……」

「そんなに怖くないってー!」

「……ほんとぉ?」

 首を傾げる彼女。背が低くていちいち上目遣いになるのが非常に可愛い。

「本当だよー」

「ひゃあっ……髪もふもふしないでよぉ……」

「ごめん、手が勝手に!」

 ついモフりたくなってしまった。思ったときには既に行動してた。

 頬をふくらませるしおんの頭を軽く撫でて、あたしは笑う。

「気分、晴れた?」

「……うん」

「そ。よかった」

 にこやかな彼女を見ただけで、何処か救われたような気分。

「このままスイーツバイキング行っちゃう?」

「えっとぉ……まだおなかいっぱいかも」

「じゃあそこにカフェあるから、コーヒーブレイクしよ!」

「うんっ」


 入った喫茶店。あたしはブラックコーヒー、彼女はミルクティ。

 窓際の二人席に座る。

「夕日が眩しいね……」

 少し顔をしかめた彼女に「あはは……」あたしは若干苦笑した。ここしか空いてなかったし、仕方ない。

「でもロマンチックで良くない?」

 笑ってみると、彼女は俯いて。

「もう……こんなの、浮気みたい」

 声色は、冗談めかして、でも震えていて。

「……もしかして、彼氏さんに失礼とか考えてる?」

 思わず、尋ねてしまった。

 真剣な声で放った言葉に、彼女は少しビクリとする。

「図星だ」

「っ——」

 息をつまらせる彼女に、声を荒らげないようにしながら。

「しおんをいじめてた奴?」

 問いただす。

「な、なんで……」

「見てればわかるよ」

 あたしはじっと、彼女を見つめていた。

「…………っ」

 ばっと赤くした顔をふわふわの髪で隠そうとする彼女に。

 あたしは、身を乗り出して。

「なんで、泣いてたの? ……教えてよ」

 目を細めた。

 彼女は、顔を真っ赤に染め上げ、髪で顔を隠して、うつむき加減で、しばらく黙って。

「………………あのね」

 それから、おずおずと話しだした。

「——かれしが……最近、つめたくて」


    *


「——そっか」

 ドリンク一杯で、どれほど話しただろう。眩しかった夕景は、既に真っ暗になってしまった。

 ——優しくすり寄ってきた彼氏が、付き合った途端に扱いが雑になっていって、挙句の果てに殴ったり蹴ったり。

 よく聞く痴情のもつれだ。そういうことをしそうな男を見分けられないこの子もこの子だ。でも。

「うぅ……ひっぐ……ありがとぉ、あざみぢゃ……」

 泣きじゃくる彼女を前にして、そんな事は言えなかった。

 同学とはいえ、幼い姿をした彼女が泣いている姿は心に来る。思わず、髪を撫でて。

「どういたしまして。……聞かせてくれてありがとっ」

 落ち着いた声で告げると、彼女はそっとハンカチを取り出して、涙を拭った。

「…………そろそろ、帰らなきゃ。怒られちゃう」

「その、クズ彼氏さんのとこに?」

「くず、じゃないもん。……まだ、信じてるもん」

「そっか」

 本人がいいと言っている手前、何も言えることはなかった。でも——少し、心配で。

「あのさ、LINEやってる?」

「らいん……あの、みどりの?」

「そ。交換しとこ」

 笑いかけると、彼女はおずおずと頷いた。

「これであたしたち、友達だね」

「ともだち……友達料払わなきゃ」

「いやいやいや、いいからそんなの!」

 財布を取り出そうとする彼女を止める。何のためらいもなかったところから見るにずっとこうだったんだろうなってのがありありと想像できてしまってなんか心苦しい。

「お金なんて払わなくっていいし! お金無しで、友達! いい?」

 念を押すように言ってみると、彼女はまた目をうるわせた。

「うんっ……!」


 そうしてこの日は解散することになった。

 ——胸騒ぎがしていた。なにか、「嫌な予感」としか言いようのない感覚がしていた。

 なかなか寝付けない夜。ベッドの中で考えていたのは、彼女のことだけで。


 翌日、彼女はいなかった。


    *


 いつもしおんを見かけるはずの講義。彼女の姿が、なかった。

 気づいて、息を呑む。あたりを見渡し、しかし、いない。いつもあったはずの小さな影が、とりとめもなかったはずの小さな彼女が——いない。

 ただ休みなだけならよかった。でも、どうにも嫌な予感がして。


 この日ばかりは、講義に集中することも出来なかった。

〈なにかあった?〉

 交換したばっかのLINE。一言ずつの挨拶の下に刻まれる一言。

 しばらく、返信はなかった。胸騒ぎが止まぬまま、一分、二分、五分、十分——。

 息が荒くなる中で、ちょうど講義の終わり際。

 スマホが震えた。——しおんからだ。

〈あのね〉

 枕詞に続く、一言。


〈よごされ、ちゃった〉


「——ッ」

 行かなきゃ。考えるより先に、体が動き出していた。

 カバンをひったくるように取って、そのまま校舎を走る。道行く人たちに振り向かれながら、外まで走り抜けて。

 走りながら、アプリで電話をかける。

 呼び出し音。一秒、二秒、三秒。——出ない。

 なにがあったのか。嫌な想像が頭を駆け巡る。おおかた聞いてたクソ彼氏がなにかしたんだ。

 ああ、クソッ。昨日、別れ際に引き止めていれば……もっと、話を聞いていれば——。


 そこまで考えて、足が止まった。

 しおんとは、昨日初めて話したはずだ。

 なのに、なんで——こんなにも、彼女のことを想ってるんだろう。


 理性が「ばかばかしい」と笑った。でも。

「……なにが、ばかばかしいだ」

 鼻で笑った。あたし自身の声をねじ伏せるように。

 ——彼女に、いままでどれくらいの味方がいただろうか。いま助けてくれる人は、どれくらいいるんだ。

「いま駆けつけなくて——守らなくて、なにが友達だ」

 少なくともあたしだけは、彼女の味方でありたかった。


 スマホのバイブが鳴った。今度は電話の着信だ。

 発信者は——しおん。呼吸する間など、持てなかった。

 緑の受信マークをスワイプすると。

「……っ、ぐすっ……」

 電話越しに、泣く声が聞こえた。

「しおんッ! 待ってて、すぐ行くから」

「…………わたしの家、わかる、の……?」

 言われて歯噛みした。そういえば聞いてなかった。わからない!

「案内して」

 告げると、彼女は「……」数秒黙り込んで。

 それから小さく、呟くように尋ねる。


「あざみちゃん……わたしを、見捨てない……?」

「うん。もちろん」


 ためらいなどなかった。

 彼女は鼻をすすりながら、小さく話しだした。

「いま……どこに、いるの……?」


    *


 玄関のチャイムを鳴らす。インターホン越しに、彼女の声がした。

「はいって……あいてるから」

 表札は、彼女の名字ではなかった。あのクズ彼氏に連れてこられたのだろうか。

 言われたとおり玄関を開けて入る。家探しするつもりはない。彼女のすすり泣く声が聞こえたから、それを頼りに一直線で向かう。

「しおん!」

 呼びかけながら、ドアを開け——部屋の隅っこでうずくまっている白混じりの黒い毛玉を見て、立ちすくんだ。

「……しおん?」

 尋ねると、毛玉に見えたそれはちらりと顔を上げる。

「あざみ、ちゃん……」

 震えた声。彼女は膝と長い髪の隙間から、あたしを見上げた。

「そうだよ。……大丈夫? しおん」

 しゃがんで目線を合わせると、彼女は少し身を引いて、再び膝の間に顔を埋め——すすり泣いていた。

「……大丈夫……じゃない、か」

 確かめるようにつぶやいて、それから隣に座り、びくりとして身を引く彼女に寄りかかる。

 なにも言わない彼女の冷たくこわばった肌に、小さく脈打つ鼓動に、時々しゃくるような呼吸に、ただ、そっと寄り添うように、身を預け。

「大丈夫。……あたしは、味方だから」

 小さく呟いた。

 震えてこわばる彼女は、しかし次第にあたしに体重を預けてきた。呼吸も少しずつ深く、肌も暖かくなって。


 静かな時間が、どれだけ続いただろう。

「あのね」

 彼女が、小さく切り出した。


「やられちゃったんだ」

「いや、だった。ずっと、断り続けてた、んだけど」

「昨日はね、どれだけイヤって言っても、聞いてくれなくって」

「無理やり、おかされた」

「……汚されちゃった」


 数言の断片。何分もかけて泣きながら告げられた言葉に、あたしはただそっと、寄り添って聞いた。

「……それで、どう思ったの?」

 小さく尋ねると、彼女は——あたしの腕の中に潜り込んで、肩に顔をもたれて。


「痛かった、よ。……痛くて、怖くて……怖くて、苦しくて……っ……つらかった、よぉ……っ」

 抱きつき、泣きながら、吐露した。


 あたしはしっかりと彼女の小さな体を抱きしめて、目を細めた。

「……ありがと、話してくれて」

 そして、抱きしめたままで、あたしは。

「大好き、しおん」

 呟くように告白した。


 腕を離すと彼女は、目をうるわせながらあたしを見つめていた。

「……だいすき、って」

「しおんを、守りたい。ずっと、一生かけても。……もう、しおんのあんな悲しい顔は見たくない」

 吐き出すように告げた言葉。——理屈抜きの、本音。

「——っ」

 頬を赤く染めた彼女に、あたしはそっと顔を近づけ。

「しおん。……あなたのつらい記憶を、あたしで上書きさせて」

「————」

「あたしは……あたしだけでも……あなたを照らす存在でいたい。光になりたい。……あなたに、とっての。——お願い」

 息を呑んだ、瞬間だった。


 がちゃ、とドアが開いた。

「……な、なにしてんだよ、しおん。誰だ、この女……ッ!」

 見知らぬ男が、部屋の入口にいた。

 右手にカップ麺がいくつも入ったレジ袋。そして左には。

「うん? しおん……そこの毛玉みたいなガキのことォ? ……え、あんたもしかして……」

 見知らぬ女を侍らせていた。


「…………」

「…………はぁ」

 口にしたのは、誰だっただろうか。

 静かな空間に、緊張感。——あたしは、しおんに目配せして。

「あいにく様。しおんはもらうわ。今日からあたしのものよ」

 真剣な顔で言い放つ。

「あざみちゃん……っ」

 慌てるしおん。男は「おいどういうことだてめぇ!」とキレるけれど。

「…………」

 隣りにいる女が般若の形相で男を睨みつけている。怖がって震えるしおんをそっと抱き寄せ。

「大丈夫。……あたしがいる」

「……ん」

 一言ずつのやり取り。アイコンタクトで、彼女は落ち着きを取り戻し。

「じゃあ証拠を見せてみろよッ! おいしおん! 俺のほうが——」

 怒鳴る男。あたしはくすりと笑って。

「しおん。あなたはアレとあたし……どっちを選ぶ?」

 告げると、彼女は頬を火照らせて、一息入れて、それから立ち上がり。

「……背中、押してくれてありがと」

 呟いて、男に向き直った。


「たぶん、あなたのことは……忘れたくても、忘れられない……と、思う」

 しおんは小さな拳を震わせて、あたしにぴったりとくっついて。

「けど——あざみちゃんは、こんなわたしに……寄り添って、くれた。……それだけで、とてもうれしかった。わたしを、優しく照らしてくれた。……だから」

 告げてから、あたしの手を握りしめて、もう一度深く息を吸ってから。


「わたしも、大好き、です。……あざみちゃん」


 そっとあたしに、キスをした。

 目を細めた彼女に、思わず目を閉じるわたし。

 長い長い、数秒間。脳がとろけるような瞬間。そっと唇を離して、彼女はあたしに微笑を向け。

 その悲しげな微笑を、男に向けた。

「さよなら、あなた。……あざみちゃん、いこ」


    *


 しおんの元カレが浮気相手とも破局した。そう聞いたのは、だいたいあの騒動から三日後のことだった。

「よかったの? しおん」

「ん……なにが?」

「その、先月別れた、あの元カレのこと」

 あれから一ヶ月。

 学食。ランチ。あたしたちはいつも通り四四〇円のカレーを囲んでいた。

「いいの。なんかかわいそうだけど……もう、わたしには関係ない人だもん」

「すっぱり諦められるのはえらいって。ほら、あーん」

「あー……んっ。……(もきゅうもきゅ、ごっくん)、でもあざみちゃんがいなかったら、きっとあのままだったんだろうなって思うから……ありがとっ」

 綺麗に微笑んだ彼女。やっぱり優しい子だ。

「あ、カレーがほっぺについてる」

 気づいて、彼女の頬に指を伸ばす。

「ひゃっ」

 人差し指でぬぐい取ったカレー。ぷにぷにした頬の感触を思い出しつつ、あたしはぺろっと舐め取った。

「っ……もう、あざみちゃん!」

 頬をふくらませるしおんも可愛い。


 笑ったあたしに、彼女は釣られるように笑みをこぼした。

「ふふっ……あのとき、あざみちゃんと出会えてよかった」

 不意に彼女がこぼした一言に、あたしは息を吐いた。


 ——あの日、彼女と出会わなかったら。

 あたしはきっと、なに食わぬ顔で毎日を過ごしていたんだろうけど——彼女は、きっと。

 彼女の「もしも」の可能性。嫌な想像が頭を駆け巡って。


「どうしたの? あざみちゃん」

 キョトンとした彼女に、一言だけこぼした。

「——あたしも、手を伸ばしてよかった」

「ふふっ。……ありがと、あざみちゃん。…………だいすき」

「あたしも。——大好き」


Fin.

ありふれた時間が、愛しく想えたら。


 その日は、燦々と陽が照っていた。

 公園は人で賑わい、その先にある券売所にはまあまあの行列。そして、その近くに。

「あざみちゃん!」

 彼女はいた。

 若干白が混じった黒いふわふわの髪とちっちゃな身体を揺らして、あたしに手を振るしおん。白黒でフリルが飾られたガーリーなワンピースと小さな肩掛けカバンが揺れてて。

「しおん……超かわいい」

 思わずこぼした一言に、彼女は頬を膨らました。

「もうっ。……あざみちゃんも可愛いよ?」

 よく見たら照れている。そんな彼女の頬をぷにっと押してみる。

「ひゃっ。もー!」

 あたしに向かってぽこぽこと小さく拳を向けてくるしおん。

「おー、よしよし。やっぱりしおん可愛いっ」

「子ども扱いしないでよぉ」


 券売所。入場券、大人二枚。

 入る施設。看板にはイルカの絵。——水族館。

「ふー、ちょっと暗くて落ち着く……」

 建物に入った彼女は軽く息を吐いて、それからあたしに手を向けてきた。

「なに、しおん」

「手、つなご?」

「……いいよ」

「一瞬迷った?」

「迷ってないし!」

 何気ないやり取り。それだけでも心地良い。


 暗い水族館の中。澄んだ板越しに、魚や海洋生物が泳ぐ。

「みてみて、あざみちゃん! このくらげ、綺麗だよ!」

 はしゃぐしおんに、あたしは若干苦笑した。

「水族館、好きなんだ?」

「うん。海の生き物って、きれいなんだもん」

「へー。……どのへんが?」

「ほら、なんというか、ほら、キラキラしてて」

「ほえー……」

 ちょっとわからないかも。……いや、なんかわかるような、やっぱわからないような?

 微妙に首を傾げるあたしの腕に、しおんがぎゅっと抱きついた。

「なーに?」

「えへへ……あざみちゃんと一緒にみれて、幸せだなあって」

「そっか」

 こうしてしおんが喜ぶなら、どっちでもいいか。


 ロマンティックな雰囲気。静かな館内で、一枚のポスターが目に入る。

「あっ、これからイルカショーみたいだよ!」

「イルカショー?」

「うん。イルカさんのショー」

「へぇ……」

 腕を引かれるあたし。……そんなに興味ないんだけどな。

 そう思いながら、ショーの会場に向かうが。


「すごっ! イルカおっきい!」

 会場の屋外ステージ。巨大な水槽でイルカが優雅に泳ぐのを、あたしは大興奮で見ていた。

 間近で見るイルカは思ってた何倍も大きくて、ちょっと驚く。

「もう、あざみちゃんってば子どもみたい」

「だって! デカい生き物って! かっこよくない!?」

「あざみちゃんもかっこいいよ?」

「へあっ!?」

 不意打ちに、あたしはバッと赤面した。

「ここ座ろ……どうしたの?」

 ベンチに座りながら、しおんが見つめる。

「な、なんでも……」

「んー……いまのあざみちゃんすっごく可愛いけどなー」

「はへっ!?」

「ふふっ。からかいがいのあるあざみちゃんも好きだよ?」

「んぐぅ……」

 唇を尖らすあたし。彼女は隣の椅子をぽんぽんと叩いて笑った。

「ここ、座って?」


 彼女の隣りに座って程なく。

『さあ、楽しい楽しいイルカさんたちのショーの開演です!』

 アナウンスの声が響き渡った。

 巨大なイルカが水槽の中を駆け巡り、大きく飛び跳ねたり輪をくぐったり。

 そんな派手で大迫力な芸が、眼前で繰り広げられる。

 あたしは目をキラキラと輝かせていた。そんな中。


 ざぶーん、とひときわ大きくイルカが飛んだ。

 水面は大きく波打ち、跳ねた水しぶきが観客席まで飛んでくる。

 どよめくベンチ。その中には当然あたしたちもいて。

「ひゃっ」

 しおんが驚いたように声を上げ、あたしに抱きついた。

 バシャバシャと降りかかるしぶき。あたしはしがみつく彼女を、そっと抱き寄せ。

「……っ!」

「大丈夫。怖くないから」

 囁いた。触れた彼女の肌が、熱くなるのを感じた。

 跳ねたしぶきは太陽に照らされて、なんだかキラキラして見えた。


    *


「かっこよかったねえ、イルカさん」

「ね! ド迫力ですごかった!」

 水族館を出て、送迎バスの乗り場まで歩く。柵越しに大きな池がある遊歩道。

 当然のように手をつなぎながら、あたしたちはバス停に向かう。

 その途中で、不意に。

「……あのね、あざみちゃん」

 しおんが立ち止まった。

「どうしたの? しおん」

 尋ねると、彼女はおもむろに手を離して、小さなカバンを少しあさり——「あったっ」なにかを取り出し。


「これ……あげる!」

 小さなものを、あたしに手渡した。

 それは——。

「ぬいぐるみ?」

「——あみぐるみ。イルカさんの」

 毛糸。ニットみたいな素材感で編まれた、小さなイルカ。

「あの、これ買ったの?」

「ううん。作った」

「作ったって……手作りってこと?」

「うん。すごーく大変だったんだよ? 立体的に編んだり綿を入れたりするの、結構大変だったし……あと、ちょっとだけ形がいびつになっちゃった」

 恥ずかしそうに、しかしちょっとだけ自慢も入ったような声色で告げるしおん。あたしは目を瞬かせて。

「……あの、なんで」

 困惑するような声で尋ねると、彼女は少し目を細めて、それから優しい声で告げた。

「わたし、なにも返せてないんだもん。あざみちゃんに助けられてばっかりで……」

「そんなの、いいのに」

「わたしがよくないの。なにか、恩返ししたくって……だめだった、かな」

 微笑んだ彼女に、あたしは「ううん」首を振った。

「嬉しい! ……ありがと。大事にするね、しおん」

「うんっ。こっちこそ、いつもありがと」

 そう言って、彼女はおもむろに背伸びをして。


 ——突然、あたしにキスをした。

「っ!?」

 顔が一気に熱くなったあたしに、彼女はいたずらに微笑んで囁くのだった。

「だいすきだよ、あざみちゃん」


Fin.



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