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静かな休日

作者: 赤色
掲載日:2026/09/21

初投稿です。

最後まで予想を裏切る展開を楽しんでいただき、なんとも言えない気色の悪さを感じていただけたら嬉しいです。

「ふぅ…」


 閑静な住宅街の中に小さな公園があった。

 そこにボサボサ頭に無精ひげと頬の痩けが目立つ男が足を踏み入れる。

 時刻は早朝。

 男は晴れやかな朝に似つかわしくない陰鬱な顔をしていた。

 そのまま重い足取りで歩き、斜め掛けしたバッグの紐をギュッと握りしめる。

 

「はぁ…」


 息を吐き、男はちょうど目の前にあったベンチにゆっくりと腰を降ろした。

 今日は平日。しかし男にとっては休日も同然。

 先月、長年勤めていた職を失ったばかりだった。

 30代前半という年齢が影響しているのか、はたまた大したスキルも持ち合わせていないのが原因なのか。

 再就職は上手く行っていなかった。


 男はぼんやりとした目付きで左手首に付けた安物の時計に視線を落とす。

 時計の針は朝の七時を少し過ぎたばかりを指し示す。

 まるで煩わしいものでも見たかのように、男は時計の針から目を反らした。


 狭い公園の中で視線を左にやると、少し離れた場所で小綺麗で若い母親と、二、三歳くらいと思われる活発そうな幼い娘が遊具で遊ぶ姿が視界に入った。

 早朝ということもあり、それ以外に人は誰も居ない。


 男は斜めがけのバッグを膝の上に置くようにして抱え、自宅から公園に来る途中で買った缶コーヒーを取り出した。

 コーヒーを口元に持っていき、男は指に当たる髭の感触で起きてから髭を剃っていなかったことに気が付いた。

 一応服だけは洗濯したてのものに着替えてきていた。

 男は自分とは正反対の綺麗な身なりをした親子に不審者に思われないことを祈りつつ、開けたばかりのコーヒーをグイッと半分くらい飲み干した。

 飲み干したところで────。


「アァァ────!」


 幼い子供独特の嫌に甲高い叫び声が男の耳に飛び込む。

 その声に男は思わずビクリと反応し、眉を顰め親子の方をジロリと睨んだ。

 若い母親が、我が子の突然の奇声に慌てたように顔の前に人差し指を当てた。

 「シー」っと言いながら宥めているのを見て、子供の奇声が収まったことに男はホッと胸を撫で下ろす。


(うるさいのは勘弁してくれよ……)

 

 そう思ったあと、男はそのまま横目で親子を観察してみることにした。

 母親は恐らく二十代半ばくらいといったところ。

 その娘は恐らく二、三歳程度。

 きっと稼ぐ旦那でもいるのだろう。

 着てる服も身に付けているものも高そうなものに見えた。

 母親の方は雰囲気から育ちの良さも感じる。


 そんな親子の様子を見て、男は酷く惨めな気持ちになった。

 男は仕事を失い再就職も上手くいっていない上、もうすぐ貯金も底をつくという崖っぷちの状況だった。

 ただ生活をしているだけで毎日少しずつ貯金が減っていく。

 それを見るたびに「早くどうにかしなければいけない」という焦りと不安ばかり膨らんでいく。


 男の人生はあまり良くないことの連続だった。

 暴力的でまともに働かない父と、そんな父に愛想を尽かし他所で男と関係を持っている母との間で育った。

 家は壊滅的に貧乏だった。

 最低限の衣食住だけは周りの目を気にしてか母が保証してくれた。

 が、それも自分が大きくなるにつれて段々と家にいないことの方が増え、いつからかこちらから頼まないと何もしてくれないようになった。

 母との思い出は「お金が欲しい」と伝え、嫌そうな顔でため息混じりに1万円札を手渡す姿しかもう覚えていない。

 それで飲んでばかりの父の世話をしながら毎日を生きていた。


 そんな環境だったので高校への進学は諦め、中卒で就職をした。

 就職先は小さな工場だった。

 低賃金でブラックな環境の職場だったが、家を出ることが出来たのと、母の嫌そうな顔を見ずにお金が手に入ったので男はそれで十分満足していた。

 それからはがむしゃらに働き続けた。

 職場で中卒を理由にからかわれてイジメにあったとしても、同年代の者達が楽しい学生生活を過ごしているのを目撃しても。

 日々の生活だけで精一杯で娯楽を楽しむゆとりがあまりなくても。

 それでも安心して帰れる家と、腹が減ったらいつでも自分のお金でご飯が食べれるだけで満足だった。

 しかしそんな男のささやかな平穏はある日突然終わりを告げられる。

 それは長年真面目に勤めていた会社の突然の倒産だった。


 突然の無職になり、まず最初に思ったのがお金の不安だった。

 それと同時に、脳裏に母が自分に向ける心底嫌そうな顔が浮かんだ。

 昔のようにお金のことであれこれ悩むのだけは本当に嫌だと思った。


 男は膝の上に置いたバッグをギュッと握りしめ、早朝の爽やかな空気には似つかわしくない不穏な空気を醸し出し始める。


 男はただただ自分が惨めだった。

 今までたくさん頑張ってきたつもりだったのに、それが全てなくなってしまったのだ。

 そしてこの怒りを何にぶつけるのが正しいのかもわからず、ただただ悔しかった。

 

 あの親子はきっと自分のような思いなど一度もしたことがないのだろう。

 ただ笑い合っている親子のその幸せそうな顔に虫唾が走った。


 男は鋭い視線で親子を舐め回すように見たあと、今度はその視線を膝の上に乗せたバックへと移した。

 ファスナーをゆっくりと開け、中に入っているものを視界に収める。

 それは、何かを包み込むようにぐるぐる巻きにされたタオルだった。

 そのタオルを誰にも見えないよう慎重にバッグの中で解いて中身を剥き出しにする。

 


 男はジーッと値踏みするように、バッグの中にある包丁を眺めた。

 新品の包丁ではない。

 家にあるものをそのまま持ってきた。

 

 ふと思ったのだ。

 いっそ刑務所の方が今よりもマシな生活なのではないかと。

 別に死刑になってしまっても構わない。

 自分以外の誰かに自分の人生を終わらせてもらえるならそれでも良かった。


 あの親子は自分なんかに殺されたらどんな気持ちになるのだろうか?

 今まで順風満帆の幸せの中、突然自分みたいなのにそれを奪われ踏みにじられる。

 あの親子の家族は突然大切な存在が殺されてどんな気持ちになるのだろうか?


 一つだけ確かなことが言える。

 絶対にこんな惨めな人生を送ってきた自分よりも遥かに最悪な気分になるだろう。


 男はそう思って口の端を歪に歪めた。

 自分よりも不幸な人間。

 想像しただけで胸がスッとした。


 男はそっと指先で包丁に触れた。

 そのまま指でゆっくりと包丁の刃の部分をなぞる。

 

 そして想像した。

 この包丁を握り、あの親子の元へ歩いて行く自分を。


 男の顔から表情が消えたのと同時に、瞼が僅かに下がった。

 半眼となった顔は感情の色が消えた無表情であるのに、なぜか親子を見る目だけが異様にギラついていた。


(最初にどちらから刺そうか……? 簡単そうだし娘の方か?)


 男の頭の中で殺人のシミュレーションが始まる。


(いや、娘から狙ったら母親に叫ばれて邪魔をされそうだな。それなら先に母親を刺してそのあと娘の方か……?)


 最初の標的が決まった。

 じゃあどうやってあの母親を殺そうか。

 男の思考が標的から手順へと移り変わる。


(背中から近付いて首を狙う? でもあの細い首に包丁の先を正確に当てられるか?)


 無防備に背を向けた母親の髪の隙間から見える首筋はとても細かった。

 少しでも狙いがズレたら空振りしてしまいそうだなと思った。

 それなら骨に邪魔されない脇腹を横からズブリとやってしまうのがベストだろうか?


(動けなくなった状態で目の前で娘が刺されたらあの母親はどんな顔をするんだろうな)


 男は立ち上がった。

 バッグの中で包丁を強く握りしめ、目をかっ開いて親子を凝視する。

 男の口から熱く荒い息が漏れ出した。


 あの親子が自分の手によって無様な姿になる未来が見える。

 あとは実行するだけ────。

 そう思って男は一歩踏み出そうとして────。

 突如大きく口を歪めて笑い、そのまま親子がいる方とは反対方向に歩き出し公園をあとにした。



 * * *



 住宅街の中、真っ直ぐに整備された道を男は早足でどんどん進んでいく。

 早朝の静けさは失われ始め、道にまばらに人の姿が現れ始めていた。


 その中を、男は脇目も振らずひたすら突き進む。

 その表情は目が大きく見開かれて爛々と輝き、口元は気持ち悪く歪んでいる。

 その表情がどういった感情から生まれたものなのかわからない。

 唯一わかるのはひどく興奮状態にあるということだけだった。


 たまに通行人とすれ違うが誰もそんな男のことを気にもとめない。

 ただあまりにも勢いのある早足だったので、時折道を譲る人がいたくらい。

 男は真っ直ぐ整備された道をずっと歩き続け、ある家の門扉の前まで来てようやく少し歩調を緩めた。

 その門扉の奥にはひと目で金持ちが住んでいるとわかる大きくて綺麗な一軒家がある。


 男はその一軒家の門扉を躊躇うことなく開け、敷地内にするりと入り込んだ。

 そして今度は数歩先の玄関の扉をやや乱暴に開け、大きな音を立てて閉めたその瞬間。

 男の雰囲気が、ガラリと変わった。


「どぅっはぁああああああああああああ」


 盛大に息を吐き出し、今しがた閉めたばかりの玄関の扉にもたれかかるようにしてその場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。


「いやぁ、ドキドキしたぁ……」


 そして心底安心しきった安堵の笑みを顔に浮かべる。


(でも上手くいった! これで書くことができる!)


 そう心の中で叫び、嬉しさを噛みしめるように目をギュッと瞑った。

 実は男は小説家だった。それもかなり人気の。

 名を言えば誰もがその名前を聞いたことがあった。


 男は昨晩、長年連載していた作品の最終回を書き上げた。

 書き終えたのだから、これで新しい作品に取り掛かることができるということで。

 実はずっと前から温めていたネタがあり、満を持してその作品に取り掛かろうと思っていた。


 作品の内容はある殺人犯の話。

 不遇な人生の果てに殺人を犯してしまい、殺人犯でありながら獄中の中で初めて幸せに触れ、たくさんの後悔と反省を重ねながら生まれてきた意味を知るという。

 そんな作品にする予定であった。


 しかしどうにもこの『殺人犯となる主人公』の感情が今ひとつ掴めない。

 自分が不幸だからといってどうして他人を傷つけることができてしまうのか?

 そう思った男は『殺人犯となる主人公』になりきって外出をしてみることにした。


 結果は上々。


 本当であれば主人公は真っ昼間に人の多い町中をうろつき、その中からターゲットを決めて殺人を犯すのだが。

 さすがに包丁を持って町中に出る勇気は持てず、そこは人の少ない早朝にしてみた。

 

 それでも包丁を持ち歩く緊張感と、包丁を持ってきてしまったがゆえに最後のタガが外れやすくなる感覚と妙な高揚感。

 そんな感情をリアルに体験することができた。


 正直公園で包丁を掴んだまま立ち上がった時は本気で興奮してしまった。

 主人公になりきっていたとは言え、誰もがやらないことをこれからやろうとする自分に酔ってしまうような感覚もあった。


 これは良い小説が書けると長年の経験が告げていた。

 もしかしたら過去一番の傑作が書けてしまうかもしれない。


 男にとって、この『殺人犯となる主人公』はかなり愛着のあるキャラクターだった。 『殺人犯となる主人公』ほどではないが、男もそこそこ苦労して生きてきた。


 不仲な両親の元に育ち、いつも目の前で怒鳴り合う姿を見ながら育つ。

 そのくせ、お互い機嫌の良いときは仲も良く。

 そんな両親にいつも振り回されていた。


 幼い頃はそんな両親の姿を見て、心が掻き乱されることが多かった気がするが、いつからか何も感じないようになっていた。

 慣れとは怖いもので、父親の怒声や母親のヒステリックな声を聞いても「あぁいつもの奴か…」と真横で喧嘩の声を聞きながら平然とその日の宿題をこなしていた。


 聞こえているのに聞こえていないあの不思議な感覚。

 今思えば無感情に心を閉ざして自分の心を守ろうとする、一瞬の防衛反応だったのかもしれない。

 些細なことで理不尽に怒鳴り散らす父親と、そんな父の愚痴ばかり聞かせるような母親ではあったが。

 虐待らしい虐待を受けたことはないし、衣食住の保証はきちんとされていた。

 自分の作った主人公ほど不遇ではなかったが、それでも思うところは沢山あった。

 

 そんな自分の実際の経験や感情を元に作り上げたキャラである。

 本当にかなりの愛着があった。


 男はウキウキとした様子で玄関をあとにし、キッチンへと向かった。

 先程公園でコーヒーを飲んだはずなのに、興奮したせいかもう喉が乾いていた。


 真っ直ぐに伸びた廊下を歩いて奥にあるキッチンへと向かう。

 ちなみに左手には広めのリビングがあり、右手には二階に上がる階段がある。

 木の温もりを感じさせるこの家を男はかなり気に入っていた。


 この家は、実は両親とも同居している。

 男は家を建てるとなった時、迷うことなく両親との同居を決めた。

 大きくて広く、そして新しくて綺麗な家で暮らしたら、両親も仲良くしてくれるかもしれない。

 そんなことを期待して両親を招いた。


 昔三人で暮らしていた家は狭くてひどく無機質だった。

 だから新居はとにかく伸び伸びと暮らせる温かみのある家にした。

 この家の空気感が良かったのか、はたまた広々とした家であまり顔を合わせなくなったおかげなのか、この家に呼んでから両親の関係はわりと良好だった。


 もしかしたら息子の稼ぎで贅沢できるようになったのもあるのかもしれない。

 父の稼ぎは決して多くなかったし、母はよく父の稼ぎの低さにも愚痴をこぼしていた。

 そういう意味では、ある意味親孝行ができたのかもしれない。


 キッチンに入り、男は目の前にある大型冷蔵庫の扉を開けた。

 作り置きの麦茶がドアポケットにあるのが目に入り、それを取って直ぐ横にある食器棚からコップも取り出す。

 ガラス製のシンプルな作りのコップの八分目くらいまで麦茶を入れて、リビングの方に目をやった。

 オープンキッチン式なので振り向けば直ぐにリビングが見える。

 両親の姿が視界に入ったのか、男はまず母親に声をかけた。


「ただいま。母さん、今日の朝ごはんは何?」


 麦茶を元の位置に戻し、冷蔵庫を閉めながら男は話しかける。

 いつもはもう少し低めのテンションで母と会話するが、今日は先程までの体験のせいか、にこやかに声をかけてしまった。

 公園まで歩いていったのが軽い運動になったのか、それとも主人公の心情を理解できたことで胸のつかえが取れたことが原因なのか。

 男は母に声をかけて随分と腹が減っていることにも気が付いた。

 しかし母からの返事はない。

 そのことに男は小首を傾げ、コップを持ったままリビングの方へと向かう。


(やれやれ。朝から機嫌が悪いのかな? またいつもの無視か……?)


 冷蔵庫を離れ、食卓テーブルの横を過ぎ去り、リビングとキッチンを明確に隔てる流し台スペースを通り越す。

 男の足元が白い絨毯が敷き詰められたリビングスペースへと切り替わった。


 リビングを抜けるとまず目につくのは左側の壁に設置された大きなテレビ。

 次いで、その正面に置かれたローテーブルと、ローテーブルを囲むように置かれたコの字型のソファー。

 この家のリビングはだいぶ広い。


 これらを設置していても床面積はだいぶ余る。

 そしてソファーと流し台の間にできた余白部分にそれはあった。


 男の母親が血塗れの状態で仰向けに横たわっていた。

 その横には、同じように己の血でカーペットを真っ赤に染める父の姿もあった。

 そんな両親の姿を、男はしっかりと両の目に捉える。


「母さん、今日の朝ごはんは何?」


 男は特段驚いた様子もなく、先程と全く同じことを聞いた。

 もちろん母からの返事はない。


「父さんもただいま」


 血塗れの死体がある異常な状況の中で、男だけがいつも通りの、ごくごく平凡な日常の空気を纏ったまま言葉を発する。

 父からの返事もないことに男は僅かに小首を傾げたあと、バツが悪そうに苦笑いした。


(やっぱり二人共昨日のこと怒ってるのかな……)


 男はどうしてか、両親の死を上手く認識できていなかった。

 まるでただソファーに座っているだけの両親を見るかのように二人を見下ろす。

 そうして昨夜の出来事を思い出す。


 男はこれまで両親に対し反抗らしい反抗をしたことがなかった。

 日常的に怒鳴り合う両親に自分まで歯向かったらいよいよ家族がバラバラになると思ったので、いつも我慢して従順に振る舞っていた。 

 それが昨日、いわゆる初めての反抗期というものを迎えてしまった。



 * * *



 昨日はとにかく小説の締め切りに追われ、朝からどうしようもないほどに追い詰められている日だった。

 二階にある書斎に籠もり、PC画面と向き合いながら時間がないと最後の追い込みをかけている時、それは始まった。


「~~~~~~~~っ! ~~っ!」

「~~っ! ~~~~っ! ~~~~~~~~っ!」


 階下から、両親の怒鳴って罵り合う声が聞こえた。

 その声に男の身体がビクリと跳ね上がる。

 ずっと聞いていなかったものを久しぶりに聞いたせいか、心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。

 あぁ、そう言えば本当は両親の喧嘩する声が苦手だったな……とふと思い出し、胸を抑え気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。


 そして少しずつ少しずつ心を無の状態へと持っていく。

 あの音が聞こえているようで聞こえていない感覚。

 自分の感情も感覚も身体から出ていって空っぽになったようなあの感覚。

 そうすることで少しずつ……少しずつ……。この騒音が気にならなくなっていく。


「~~っ! ~~~~っ!」

「~~~~~~~~っ!」


 両親の怒鳴り声が、ほんの少し小さくなったように感じた。

 静かな家の中に響き渡る怒鳴り声が、町中の雑多な音程度に気にならなくなっていく。

 両親の声が意識の外へと少しずつ出ていく。

 これなら続きを書けると思った。

 少しだけ虚ろになった目で、再びPC画面に向き合おうとしたその時。

 階下から怒鳴り声とは全く違う、陶磁器か何かが割れる大きな音が聞こえた。

 その音を合図に父親の低くて唸るような怒鳴り声と母親の甲高いヒステリックな声がさらに激しさを増していく。


 また何かが割れる大きな音。

 昔みたいに母が怒って皿を投げているのか、父が料理の乗った皿を床に叩きつけているのかはわからない。

 中学の頃に一度、家の中がめちゃくちゃになるような派手な喧嘩を目の前で目撃したことがある。

 キレた父が手当たり次第に家中のものを破壊し、それを見て母は父が大切にしていた腕時計を壊した。

 近所の人の通報で警察が来るまでその激しい喧嘩は続いた。


 この家も、めちゃくちゃにされてしまうのだろうか?

 男の空っぽになった身体の中に薄っすらと恐怖と絶望の感覚だけが戻ってくる。


 男にとってこの家は初めて建てた自分の家だった。

 一生この家で暮らすと決めて、細部まで自分のこだわりを詰め込んだ唯一無二の家。

 その家が今、壊されようとしている。

 まるで自分自身を壊されようとしているかのように感じた。


 男はデスクの上に置いてあるスマホで時間を確認した。

 締め切りまで、あと2時間。


 男は感情と感覚を追い出し空っぽになった心と身体でぼんやりと思った。


 “この家を守らないといけない”。

 “締切も守らないといけない”。

 “だから喧嘩を止めないといけない”。


 そう思った男は静かに階下に降りていき、キッチンで包丁を手に取った。



 * * *



 男の目に、血塗れで横たわる両親の姿が映し出される。

 男は両親を見下ろしながら、一体いつまで無視を続けるんだろうと思った。


 どうしてか、男は両親の死を上手く認識できていなかった。

 ずっと心を無にして過ごしてきた弊害なのか、はたまた本当は心の底でずっと両親を殺したいと思っていたのかはわからない。


 男には両親を殺害した自覚もなかった。

 純粋に怒鳴り合う両親を静かにさせて、喧嘩を止めたいだけだった。


 もう少し反抗の仕方があったのかもしれないが、初めての反抗期ということで多めに見てもらいたいと男は思った。

 無事、締め切りには間に合ったし、これで新作に取り組むこともできるようになった。


(この新作が売れたらまた家にお金が入るし、そしたら父さんと母さんも機嫌直してくれないかな……)


 そう思って血塗れで横たわる両親へと男は視線を向けた。

 いつも喧嘩ばかりしていた二人が今は手を握り合いながら横たわっているのが嬉しくて。

 男はそんな両親の姿を見下ろしながらニッコリと笑いかけた。

男が書こうとして新作小説の主人公のように、この男も獄中生活でいろいろと気が付くこととなるのでしょう。

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