真実の愛
王都の春を彩る、豪奢な薔薇園。色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが、色鮮やかな焼き菓子を囲んで甲高い歓声を上げている。
私は最高級の茶葉が香るティーカップを優雅に傾けながら、完璧な微笑みを顔に貼り付けていた。
しかし内心では、今日何度目か分からない深いため息をついている。
「まあ、素敵。やはり身分や家柄を超えた真実の愛こそ、尊いものですわよね。」
「ええ、私も政略で決められた冷たい結婚なんて御免ですわ。運命の方と結ばれたいですの。」
周囲から聞こえてくるのは、頭の中が春の野原に占領されたとしか思えない台詞ばかり。
いつかは侯爵夫人としてこの社交界を導く立場になる者として、常に流行には敏感でいるよう努めてきた。しかし、昨今のこの流行りには、淑女の仮面をかなぐり捨てて顔を顰めてしまいそうになる。
事の起こりは、あろうことか次期国王たる王太子殿下だった。
殿下は長年自分を支えてきた婚約者を冷遇し、身分卑しき男爵令嬢に見出した「真実の愛」とやらを公の場で声高に宣言したのだ。
それ以来、王都の社交界は未知の熱病に冒されている。
義務や責任を放り出し、感情の赴くままに伴侶を選ぶことを至上の喜びとする、動物的な恋愛至上主義。それが今のトレンドだった。
私は周囲の会話にあえて返事を返すことは無く、静かにカップをソーサーに戻し、扇子で口元を隠す。
(本当に、頭痛がしてきますわ…。)
私たちは貴族なのだ。
領民の命と生活を背負い、国土を管理し、血統という名の盤石な基盤を次世代へ繋ぐ。そのために多大な特権と富を与えられている。
貴族の結婚とは、家と家を結び、利益を最大化するための極めて合理的な契約事業であるはずだ。
それを、いつ心変わりするかもわからない「感情」などという、最も不安定で非効率なものを基盤にするなど正気の沙汰とは思えない。
愛があれば、不作の年に民の胃袋を満たせるとでも言うのだろうか。
愛があれば、迫り来る外敵の剣から国土を守り抜けるとでも言うのだろうか。
否、断じてあり得ない。感情などという不確かなものでは、貴族の義務を果たすどころか、誰一人の命すら救えはしないのだ。
とはいえ、これはあくまで他所様の狂騒だ。
私の婚約者は由緒正しき侯爵家の嫡男であり、幼い頃から共に貴族の義務を叩き込まれた相手である。彼に限って、あのような伝染病に罹患することはない。
私はそう高を括り、目の前の甘ったるいケーキを一口だけ口に運んだ。
数日後、その見通しがひどく甘かったことを思い知らされるとも知らずに。
◇◇◇
「真実の愛を見つけたのだ。よって、君との婚約は破棄させてもらう。」
侯爵家の広大な庭園。その一角に建つ東屋で、長年の婚約者であった嫡男の芝居がかった声が響き渡った。
彼の隣には、流行りの熱病に浮かされたような顔で彼を見つめる、小柄で可愛らしい令嬢がぴったりと寄り添っている。
「ごめんなさい…わたくしが身の程知らずなのは分かっています。でも、愛というのは理屈では止められない奇跡なんですもの。わたくしたち、どうしてもお互いの気持ちに嘘がつけなくて……っ。」
令嬢は自身こそが運命に翻弄された悲恋の主人公であるかのように潤んだ瞳を見せ、彼の腕に自身の細い腕を絡ませた。
彼はそんな彼女を庇うように愛おしそうに見つめ、勝ち誇ったような視線を私に向ける。
「君はいつも完璧で、付け入る隙もなかった。だが、そこには温かな情愛が欠けていたのだよ。貴族としての体裁ばかりを気にする君では、私の心を満たすことはできなかった。今の私には、守るべき真実の愛がある。」
上から目線で語られる傲慢な言葉の数々に、私は内心で深いため息をついた。
領地の統治と私的な感情を混同し、長年の盟約を「心の充足」などという曖昧な理由で反故にする。その思慮の浅さと無能さに、ほとほと嫌気がさす。このような男が侯爵家を継げば、いずれ領地は立ち行かなくなるだろう。
「そんな…あまりにも突然のことで、わたくし、どうしたらよいか…。」
常に完璧な淑女として振る舞い、決して人前で取り乱すことのなかった私の涙。それを見た彼は、予想外のものに打たれたように目を丸くし、一瞬言葉を失って微かな動揺を見せた。
(あら。このような、か弱く儚い女がお好みでしたのなら、そうとおっしゃってくださればよかったのに。事前にご要望を頂ければ、いつだって完璧に演じて差し上げましたわ。)
内心でそんな冷めた皮肉をつぶやきながらも、私は可憐に肩を震わせ続けた。
私の思惑など露知らず、彼の心がほんのわずかでも目の前の私に揺らいだのを感じ取ったのだろう。令嬢は微かな危機感を覚えたように彼の腕をきつく抱きしめ、己の正当性を主張するように、さらに哀れっぽい声を張り上げた。
「ごめんなさい、わたくしたちのせいで深く傷つけてしまって…。でも、愛のない結婚でお互いを縛り続けるより、きっとこの方が……あなたにとっても幸せなはずですわ…!」
自分の非を認めるふりをしながら、あくまでも自分たちの行いを正当化する令嬢の声を聞きながら、私はハンカチでそっと目元を抑えた。
かすれた声で泣き崩れるそぶりを見せれば、誰もが同情する完璧な「悲劇の淑女」の完成である。
しかし、扇に隠された口元は微かに歪み、私の脳内では凄まじい速度で算盤が弾かれていた。
私には一切の落ち度もない一方的な婚約破棄には、膨大な違約金が発生する。数年前に両家が交わした契約書によれば、我が家が侯爵領の鉱山開発に投じた資金と権利は、この瞬間をもって即時返還の対象となる。
加えて、ここしばらく私への贈り物が途絶えていたという怠慢の証拠と、あえて今ここで私がこれ以上なく傷つき打ちひしがれてみせた事実を盾に取れば、「多大なる精神的ショック」として慰謝料を最大限まで跳ね上げることができるはずだ。
(……ええ、全く悪くない利益ですわ。)
愛だの恋だので腹は膨れないが、これらの違約金があれば新しい領地開拓の資金になる。
私はハンカチを目元から離し、元婚約者に視線を向ける。
この人はこんなに気持ち悪い笑い方をする人だったかしら?ーーそんなことを思いながら。
「承知いたしました。貴方様のお気持ちがそこまで固いのであれば、私がこれ以上申し上げることはございません。」
静かに椅子から立ち上がると、悲しみに耐えるような表情を保ったまま深く一礼した。
この場にこれ以上留まる理由はない。
「この件につきましては、私から責任を持って父へと申し伝えておきますわ。」
「わかってくれたか。君ならそう言ってくれると思っていたよ。次の相手には、もう少し可愛げを見せることだね。」
満足げに頷く彼の横で、令嬢が安堵したような、どこか優越感に浸るような笑みを浮かべている。私はその視線を優雅に受け流し、静かにその場を辞した。
そのまま粛々と自邸へ戻り、事の次第を報告すると、父と兄たちは顔を真っ赤にして激怒した。
「長年の盟約を反故にするとは、我が家をコケにする気か!断じて許さん!」
「……すまない。辛かったろう。兄として、お前にそんな経験をさせてしまったことが不甲斐なくてならない。もう我慢しなくていいんだぞ。」
父が机を叩いて吠えれば、傍らにいた兄も痛ましげに私を見つめ、絞り出すような声で続けた。
今にも侯爵邸へ怒鳴り込もうとする家族を、私は冷めた紅茶を一口飲んでから、毅然とした態度で宥める。
「お父様、お兄様。お怒りはごもっともです。ですが、どうかお堪えくださいませ。」
「しかしだな!」
「今は王太子殿下が率先してこの流行りを先導しておいでです。ここで我々が正面から逆立てば、我が家が『真実の愛を邪魔する悪逆非道な家』として糾弾されかねません。王家の不興を買うのは、あまりにも不利益ですわ。」
ここは潔く身を引き、確実な違約金と「可哀想な被害者」という社会的信用を勝ち取るのが最も実益に叶う。
私の理路整然とした、血も涙もない冷徹な説明に、父たちも呆れ半分といった様子で渋々ながら矛を収めた。
家族からの愛情を感じてとてもうれしいことなのだけど、感情で動いて家を傾けるなど、三流のやることだ。
しかもあの様子では、無理に元婚約者の家と繋がりを持つ必要もない。手続きの書類は、明日にでも事務的に送りつければいい。
ただ、問題は私の今後である。
私には何の非もない一方的な婚約破棄とはいえ、傷物というレッテルからは逃れられない。加えて、今の社交界は頭の中がお花畑になった殿方ばかり。
政略という本来の目的を果たせる、まともな縁談など絶望的だろう。
本来であれば家の利益になる場所に嫁ぎたかったが、この時勢ではそれも難しい。いっそ語学を活かして、国外の貴族や貿易豪商に嫁入りするのも一興だろう。
もしくは、独身を貫いて実家の領地経営の裏方に回るのも悪くはない。
私の中で、密かに新たな人生設計を組み立て始めていた。そんな時、私の元に父が一つの縁談を持ってきた。
相手は遠方の領地を治める若き公爵だった。
彼もまた、最近になって元婚約者に「愛がない」という理由で婚約破棄されたばかりだという。
父とも古くから面識があり、非常に誠実で有能な人物であると聞かされた。領地は遠いが、我が家の事業と連携させれば大きなメリットが見込める。
まだ国内にそんな殿方が残っていただなんて。
半信半疑ではあったものの、まずは一度お会いしてみるべく、私は公爵様との顔合わせの席へ赴いた。
指定された都の高級な茶室で向かい合った公爵様は、一切の無駄を省いたような、隙のない冷徹な空気を纏う人物だった。ロマンチックな雰囲気は一切ない、互いの手駒と利益を値踏みし合う、冷ややかな軍議のような初対面である。
「単刀直入に申し上げよう。我が領地に眠る資源の開発権と、中央政界に太いパイプを持つ貴家の政治力との提携。それがこの縁談の第一の目的だ。私に愛などという不確かなものを求めないでいただきたい。」
挨拶もそこそこに切り出された言葉に、私は思わず口元をほころばせた。社交辞令も甘い言葉もない、なんとも効率的で心地よい提案だろうか。
「当然でございます。私は公爵家の女主人としての業務を完璧に遂行いたします。」
「……ほう。貴女は昨今流行りの、真実の愛とやらには興味がないと?」
「愛があれば、干ばつの年に領民の胃袋を満たせるのでしょうか?私にとって結婚とは、家と家を結び、一族の繁栄を求める共同事業に他なりません。」
私の言葉に、公爵様は微かに目を細めるように初めて表情を緩め、満足そうに頷いた。
「素晴らしい。どうやら我々は、同じ盤面を見ているようだ。」
互いに「義務と責任を理解している貴族」であることを確認し、私たちは確固たる握手のみで婚約を成立させた。
そこに熱を帯びた感情は一切ない。あるのは、優秀な同志を見つけたという、静かで確かな高揚感だけだった。
◇◇◇
公爵家に嫁いでからの日々は、実に快適で刺激的であった。
広大な領地へ下った私は、すぐさま公爵夫人としての執務を開始した。
もともと次期侯爵夫人となるべく、幼い頃から領地経営や社交の英才教育を叩き込まれていた私は、ほとんど戸惑うこともなく、公爵家の内政を速やかに引き継ぐことができた。
私たちは事前の取り決め通り、領地経営を完全に分担した。旦那様は治安維持と法整備、そして資源開発の陣頭指揮を担い、私は予算の編成、領内の物流管理、そして中央政界への根回しと社交を掌握した。
朝食の席が、私たちの主要な定例会議の場である。
「王都の貴族院にて、当領地で産出される新資源の専売承認を取り付けてまいりましたわ。これで中央からの開発資金の援助も確実なものとなります。」
「ご苦労だった。こちらが手配していた、鉱山から王都へと続く街道の整備も予定通り進んでいる。物流の備えは万全だ。」
そこに甘い新婚の空気など微塵もない。有能な部下、あるいは信頼できる同僚に対する的確な報告と承認が交わされるのみである。
貴族としての最大の義務である「後継者の育成」についても、私たちは極めて計画的かつ事務的に遂行した。
領地経営を盤石にするための跡取り、その予備、そして他家との強固な同盟を結ぶためのカードとして、数年の間に四人の子供を儲けた。
寝室での営みすら、領民と家を守るための神聖なる「職務」の一環である。終われば速やかに明日の公務のために休息をとる。無駄な感傷に浸る時間などない。
子供たちに対しても、自由奔放な恋愛などという耳障りの良い毒ではなく、上に立つ者としての厳格な規律と「貴族の義務」を徹底的に教育した。
そうして四人目の子供が産着を卒業する頃には、王都の空気はすっかり変わっていた。
我が公爵領がかつてないほどの豊かさを誇り、国内屈指の経済基盤を確立したのとは対照的に、王都からは目も当てられない惨状を報せる書類が次々と届くようになっていた。
「やはり、感情だけで動くからこうなるのです。こうして破綻するのは、火を見るより明らかでしたのに。」
執務室で最高級の紅茶を傾けながら、私は分厚い報告書を読み上げた。
あろうことか、あの「真実の愛」を声高に叫んでいた王太子殿下は、政務を完全に放棄し、愛する妃のために国庫を湯水のように浪費した結果、諸侯からの支持を完全に失い廃嫡の危機にあるという。
そして、私を捨てた元婚約者も例に漏れず悲惨な末路を辿っていた。実務能力が皆無の「愛する妻」に領地経営を任せた結果、わずか数年で領地は荒れ果て、莫大な借金を抱えて没落寸前だというのだ。
愛さえあれば飢えを凌げるなどという妄想は、あっけなく現実の前に崩れ去ったのである。
王太子殿下の浪費と、恋愛至上主義にうつつを抜かした貴族たちの放漫経営により、ついに国の経済は立ち行かなくなり、国庫は底を突きかけていた。
見かねた王家は自ら特使を遣わし、国内で唯一、かつてないほどの繁栄を謳歌している我が公爵家に、国政と財政の立て直しを懇願してきたのである。
かくして私たちは要請を受諾し、数年ぶりに王都の夜会へと足を踏み入れた。
最新の流行を取り入れつつも無駄のない洗練された装いと、度重なる事業の成功によって得た揺るぎない自信。
私と旦那様が会場に入ると、かつて私たちを「愛なき哀れな夫婦」と嘲笑っていた者たちは、畏怖と羨望の入り混じった視線を向けながら、まるで潮が引くように静かに道を開けた。
私たちは王家の重鎮やまともな思考を残していた一部の貴族たちと淀みなく挨拶を交わし、今後の経済政策についての軽い意見交換を行っていた。
その時である。豪奢な会場には不釣り合いな、ひどく憔悴しきった足取りの男が人垣を押し分けて進み出てきた。
「頼む、君の優秀な手腕が必要なんだ!もう一度、私とやり直してくれないか!」
夜会の喧騒が一瞬にして静まり返る。私のドレスの裾にすがりついてきたのは、見すぼらしい姿に落ちぶれた元婚約者だった。
かつての自信に満ちた面影はなく、その目は血走り、身なりも手入れが行き届いていない。愛の熱病から醒め、実務能力のない妻と共に抱えた莫大な借金という現実に、ようやく恐ろしさを覚えたのだろう。
私は床に這いつくばる彼を見下ろし、淑女の完璧な微笑みを浮かべてゆっくりと扇子を広げた。
「お戯れを。私には公爵夫人という、この上なく重要なお役目がございますの。貴方様のような計画性のない方に割く時間は、一秒たりとも持ち合わせておりませんわ」
「そ、そんな冷たいことを言わないでくれ!君だって本当は、愛のない公爵との生活に疲れているのだろう!?」
見当違いにも程がある叫びに、私はため息すら出なかった。一切の同情を交えずに冷めきった視線で見下ろすと、彼は絶望に顔を歪めて崩れ落ちた。
私はその無様な姿に一瞥もくれず、静かに歩み寄ってきた旦那様のエスコートを受けて、颯爽とその場を後にした。
◇◇◇
帰りの馬車の中、窓の外に流れる王都の街並みを眺めながら、旦那様が静かに口を開いた。
「無駄な時間だったな。だが、君の毅然とした対応は流石だった。不快な思いをしていないといいが……。明日の復興予算の会議は延期するか?」
「お気遣い感謝いたしますわ。でも、資料はすでに用意してございますので、計画通りで大丈夫です。」
そこには甘い囁きも、手を握り合うようなこともない。
しかし、没落していく彼らは、今の私たちを見てもまだ「愛のない哀れな政略結婚」と囁くのだろうか。
私と旦那様、そして子供たちの間に愛がない?
そんなわけがない。
私たちは互いをひとりの人間として、また大切なパートナーとして深く尊重している。
旦那様が困難に直面し苦しむことがあれば静かに寄り添い、事業が成功し嬉しいことがあれば共にグラスを傾けて喜びを分かち合う。
次代を担う子供たちには、貴族としての厳しくも真っ当な教育を施しながらも、温かい紅茶と共に彼らの日々の話に耳を傾ける。私や旦那様がどのように領地を守り、どのように生きてきたかを語って聞かせ、対話によって互いを深く知っていく。
確かに、私たちの間には、王都を席巻したあの伝染病のような、己の欲求を満たすだけの浮かれた感情はない。周囲が見えなくなるほどの熱狂も、甘いだけの囁きも不要だ。
しかし、私は共に戦い歩んできた旦那様を、そして私たちが慈しみ育む子供たちを、家族として心から愛している。
「どちらにしても、疲れただろう。少し休むといい。」
旦那様が不意に、私の肩へ温かい毛布を掛けてくれた。
ただ静かに、そして揺るぎなく。義務と責任の上に築き上げたこの強固な絆こそが、私たちの「真実の愛」なのだ。
「ありがとうございます、旦那様」
私は淑女の作り笑いではない、心からの穏やかな微笑みを向けた。
馬車は、私たちが築き上げた豊かで平和な領地へと真っ直ぐに進んでいく。
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