【短編小説】「うん」
『賢人ごめんね。色々とお願いしちゃって。晴は、疲れてないかな』
「うん、大丈夫」
桜が舞っている。風に乗って、空高く。
街は少しずつ暖かい色を取り戻して、ぬるい風が、僕の背中を撫でるように過ぎ去っていった。
火葬場は、斎場からバスで10分ほどのところにあった。後は斎場に戻り、遺骨迎えの儀を行うのみである。終盤にさしかかり、参列者たちは少し疲れた様子でバスへと乗り込んでいく。スローモーション再生されているかのような、どろどろとした動きだった。
僕は骨壷を抱え、1番前の列の席に腰掛けた。通路を挟んで隣の席には、母の妹の祥子さんが座っている。この場合喪主は1番後ろに座るとか、親族はどこに座るとか、そういった礼法的なことは、僕にとっても祥子さんにとっても重要ではなかった。
『こうしてみるとさ、ねぇさんって凄い人だったんだなって思うよね。私達にとっては"いい人"じゃなかったけど』
祥子さんは『はぁー疲れた。タバコ吸いたい』と足を組んだ。全員が、もの悲しい雰囲気を壊さないように努める車内でも、祥子さんはそういった気遣いはしない。
彼女と初めて会ったのは、僕が10歳の頃。当時祥子さんは30歳で、男に振られたと所々破れた服で会いに来て、母はひどく呆れていた。
『よう少年!』と、颯爽と現れたあの日から20年が経った今も、祥子さんは変わらない。
裏表がなくて、嘘がなくて、見ていて気持ちがいい。悪くいえば、配慮がなくガサツな人。
彼女のそんなところを僕は好ましく思っていたが、反対に母は快く思っていなかった。
『誕生日パーティは、明日?』
「うん」
それだけ答えると、僕は窓ガラスに頭を預け、流れていく街を見た。
明日は、晴と美味しいものを食べに行こう。帰りに誕生日ケーキも買って。
来週には加奈子がアメリカ出張から戻ってくるから、部屋を片付けておかないと。
あ、今見えたレンタルビデオ屋、昔学校帰りによく寄ったな。
懐かしい景色の中、思い返すのは、急かされるように通り過ぎた3日間のことではなかった。
この季節に思い浮かぶのはいつも決まって、
"うん"
たった2文字。そのたった2文字の言葉すら発することをしなかった、入学式の日のこと。
何かに集中していて返事を忘れたわけではない。
僕は自らの意思で、選んでそうしていた。
『ここのオムライス、美味しいね』
今から15年も前の話だ。
高校の入学式の帰り道、母がオムライスでも食べて帰ろうと言い出して、僕たちはファミレスに立ち寄った。家の近くにあるファミレス。でも、一度も家族で来たことはないファミレス。
『お母さんもう決まってるから。なにがいい?』とメニューを向けてきた母に、僕は最初に目に入ったミートスパゲッティを指差しただけで、返事はしなかった。
母が小さく手を上げると、近くにいたウェイトレスが小走りでやってきて、『これとこれで』と、母は笑顔をみせた。
母は忙しい人だった。街の大学病院で医師として勤めていた。
だから、学校行事にひとつも顔出さないのもしょうがないこと、らしい。
僕はそれを理由にしていいとは思っていなかったが、周りの人間はそれが大層立派な理由であるかのように『お母さんすごい人ね』『お仕事大変だから、しょうがないわよね』と、母を庇い、僕を慰めた。
寂しそうにしている僕に気を遣ったのかもしれない。とはいえ、もう数百回はこの言葉を聞かされた気がする。
こう言われる度に、僕は何かに栓をして、体のどこかにある笑顔のボタンを押す。そうすれば簡単に記号的な笑みを浮かべられた。
母がウェイトレスに向けたのとそっくりな愛想笑いを。
小学校の運動会にも、中学校の卒業式にも、ましてや授業参観なんて一度も顔を出したことのない母が、高校の入学式にだけやってきた。
嬉しいとか緊張が解けるよりも、"なぜ来たのだろう"と僕は疑問に思った。
式が終わり校門を出るまで、母はすれ違う人みんなに声をかけられ、なにかを話しながらぺこりぺこり頭を下げて、貼り付けたような笑顔を浮かべていた。
行きも、帰りも、相変わらず僕たちの間に会話はなかった。僕は地面を見ながら歩いたし、母はそんな僕の5歩先を歩いた。
母が着ていた服の色も、ファミレスで食べたスパゲッティの味も、ウェイトレスが男性だったか女性だったかも、ソファ席だったかテーブル席だったかも、覚えていない。
ただ、『ここのオムライス、美味しいね』と言った時の母の表情は、今でも鮮明に覚えている。
珍しく少し笑った母を無視した自分のことも。
高校を卒業し、大学に進学し、就職して結婚して子供ができても、母と僕の距離は一定を保ったままだった。常に1メートルほどの、手を伸ばせば届くか届かないか、そんな距離。
"就職先決まった"
"おめでとう。無理せずに"
"結婚することになった。式は挙げない。向こう両親とも亡くしてるから"
"おめでとう。連絡ありがとう"
"子供できた。男の子"
"おめでとう。また産まれたら教えて"
今時、AIの方がもっと心のこもった、気の利いたやりとりができると思う。
こうなってしまった原因は?と聞かれれば、僕は回答に困ってしまう。むしろ明確な原因があればよかった。それが分かって解決できれば、僕と母の未来は少し違ったかもしれない。
通夜でも、葬儀でも、骨上げの時も、涙は流れなかった。
母の友人知人、母のことを命の恩人と崇める人たちの瞳には、僕はさぞ薄情な人間に映ったことだろう。女手一つで育ててくれた人の死に、嘘でも涙を流せないものかと。
でも、この方が僕と母には相応しいと思う。
きっと、空の上の母は、『その歳になっても、そんな風に不貞腐れてるの』と、僕のことを心で笑っている。それでいい。
僕たちには、この距離感がちょうどいいのだと、今の僕は思ったりしている。
『晴、一昨日で何歳になったの?』
祥子さんが窓側に座る晴に声をかけたが、晴は恥ずかしそうに下を向いて答えなかった。
『何歳?』
「5歳になった」
『晴と何食べにいくの』
祥子さんは結んでいた髪を乱暴に解き、指で軽くといた。
「ハンバーグ?かな?」
『へぇ、ハンバーグ好きなんだ』
「いや、よく知らないけど。加奈子が作ったの美味しそうに食べてるから、好きなんじゃない?」
『なにそれ。コミュニケーションってのがとれてないね』
「だって、なに聞いても"うん"しか言わないし」
『シャイなの?』
「たぶん?」
『あぁ、でもなんかそれ、昔ねぇさんも言ってたな。"賢人は返事もしない"って』
「悪態ばっかついてたから」
『いつだったかなぁ。急に電話がかかってきてね。何事かと思ったら父さんの九回忌のことだったんだけど、最後に"明日賢人とオムライス食べにいくんだー"って珍しくご機嫌でさ、"賢人オムライス好きなの?"って聞いたら、"知らない"とか言うから、わたしもう驚いちゃって。"オムライスは美味しそうに食べてくれるから、きっと好きなんだと思う"とか言ってさ、聞けばいいのに』
「そんなの聞かれたことない」
『そうでしょうね。君たちは、似たもの同士だから』
そう。僕と母は似たもの同士。
多分、ただ、それだけのことだったのだ。
『オムライス美味しかった?』
「覚えてないよ」
『佐藤家の後悔はさ、繰り越さずに、君の代で成仏させなさいよ』
「後悔?」
『そう。後悔』
祥子さんの言う"後悔"の意味を聞く前に、バスは斎場に到着してしまった。
翌日の昼頃、僕と晴は実家の近くのレストランを訪れた。15年前に母と来たファミレスは、僕が大学生の頃に閉店し、取り壊され、その後すぐにこのレストランが建った。炭火焼きハンバーグステーキが売りの、カジュアルなレストラン。
4人掛けのソファー席に案内されて、僕と晴は向かい合って座った。
「お父さん決まってるから、晴選んで」
差し出されたメニューを見る晴の瞳に、小さく光が灯って、僕は安堵した。良かった、ハンバーグ好きなんだ。と。
「晴、誕生日のお祝い、遅くなってごめんね。少し疲れたよね」
『ううん』
「お母さん帰ってきたら、またちゃんとお祝いしよう」
『うん』
うんとううんが数回行き交う中、15分ほどで、注文した料理が到着した。
ジュウジュウパチパチと音を鳴らし、艶やかなソースを纏って登場したハンバーグに、晴は瞳を輝かせた。この瞬間を逃してはいけない気がして、僕は急いで、受け取った紙エプロンを晴の首に巻き、フォークとナイフを手渡した。
「黒いお皿は熱いからね。気をつけて、ゆっくり食べるんだよ」
『うん』
晴は嬉しそうに笑った。
ほどなくして僕の料理も到着し、紙エプロンを巻いて、少し遅れて一切れのハンバーグを口に入れた。
噛んだ瞬間中から肉汁が溢れ、熱を帯びたフォークは一層熱くて、僕は小さく飛び上がり反射的に口を塞いだ。
晴は、そんな僕をじっと見てから、斜め下に目を伏せた。笑うこともせず、心配もせず、どうしたらいいのか分からず気まずいといった雰囲気で。
「ごめんごめん、気にしないで」と何事もなかったかのように食事を再開すれば、僕たちの間には、どこか見覚えのある、分厚い雲のような沈黙が流れた。
僕は、あのレストランで、どんな表情でミートスパゲッティを食べていたんだろう。
母は『ここのオムライス、美味しいね』と笑った。
僕は聞こえていないふりをして、スパゲッティを乱暴に口に頬張った。
それから盗み見るように、目の前の、沈黙する母を見た。
少し悲しげで、でもそれを堪えるように、視線を落とし、気まずそうに笑ったままの母がいた。
窓の外は、桜が舞っている。風に乗って、空高く。
『このハンバーグ、おいしいね』
晴が、雲の隙間から手を差し出すように、そう言った。
「え?」
『‥‥このハンバーグ、おいしい』
その言葉を聞いた瞬間、僕の右目から一筋の雫がこぼれ落ちた。
そうか。僕は、ずっと後悔していたんだ。
あの時母に「うん」と返事をしなかったことを。
本当は入学式に来てくれて嬉しかったくせに、それを伝えなかったことを。
いつでも手を伸ばせたのに、それをしなかったことを。
涙を拭う僕に、晴は困惑しながらも、自分の手元にあったナプキンを僕の手元に置いた。
晴は心温かく、優しい。
僕も、そうありたかったな。
僕は差し出されたナプキンを受け取った。
「うん。おいしいね」




