1. 呼吸困難な楽園
窒息しそうだった。
この進学校は、外から見れば偏差値の高いエリートたちが集う学びの園だと言われている。
けれど、私――白川 ゆりねにとっては、鉄格子のない監獄と同じだった。
『白川様!先ほどあなたが捨てたティッシュを拾いました!家宝にします!』
『ゆりねちゃん!僕を見て!君のために、購買でパンを買ってきたよ!半分でもいいから、受け取ってくれ!』
昼休みの廊下。
ゾンビ映画のように群がってくる男子生徒たち。彼らの目は血走り、口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。
怖い。気持ち悪い。
彼らが見ているのは「私」じゃない。勝手に作り上げた「聖女」というアイドルだ。
誰か、助けて。
心の中で叫んでも、誰も助けてはくれない。普通の生徒たちは「関わると面倒だ」と目を逸らすし、教師たちは私を「学園の広告塔」としか見ていない。
(……逃げなきゃ)
私は衝動的に走り出した。
階段を駆け下り、渡り廊下を抜け、誰も寄り付かない旧校舎の裏へと飛び込む。
泥だらけの上履きなんて気にしてられなかった。ただ、あの粘着質な視線から隠れられる場所が欲しかった。
裏庭の茂みを抜けた、その時だった。
「……何の用だ」
地を這うような、低く冷たい声。
心臓が止まるかと思った。
恐る恐る顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。
ボサボサの黒髪に、射抜くような鋭い目つき。手には武器のように銀色のスコップが握られている。
(……栗原、堅くん)
クラスで一番、近寄りがたい人。
いつも一人で本を読んでいるか、こうして土いじりをしている、「陰」の空気を纏った人。
彼なら、私に興味なんてないはず。そう思ってここに来たのに。
「か、隠れさせて……っ! お願い……!」
「断る」
「ここは園芸部の敷地だ。部外者は立ち入り禁止だ」
絶望で目の前が真っ暗になった。
拒絶。
やっぱり、私なんてどこにも居場所がないんだ。
校舎の方からは、親衛隊たちの『白川様ー!』という叫び声が近づいてくる。見つかったら、またあの地獄へ逆戻りだ。
涙が溢れてくる。
もういいや。どうにでもなれ。
力が抜けて、後ろによろけた瞬間――。
「おい」
「ひっ!?」
栗原くんが、素早く動いた。
目の前に突きつけられるスコップの切っ先。
「右足。踏むな」
鋭い声に、私は硬直する。
彼は私を睨みつけ、私の足元を指し示した。
「そこは百合根だ。食用のな」
「……え?」
「お前と同じ名前だろ。共食いしてどうする」
――え?
時が止まった気がした。
彼は、私を見ていなかった。私が「聖女」だから怒ったわけでも、「美少女」だから緊張したわけでもない。
彼が守りたかったのは、私の足元にある、小さな小さな球根だけ。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
今まで「白川ゆりね」というブランドばかりを見られてきた私にとって、**「野菜以下」**の扱いを受けることが、これほど心地いいなんて。
「……あ、あはは。そうね。私、ただの百合根だもんね……」
自然と笑みがこぼれた。
作り笑いじゃない。心からの、情けない苦笑い。
すると、栗原くんは「チッ」と舌打ちをして(それすらも心地よかった)、無愛想に顎をしゃくった。
「そこは外から丸見えだ。入るなら奥に入れ」
予想外の言葉に、耳を疑う。
彼はプランターと道具小屋の隙間――人が一人ようやく入れるような狭いスペースを指していた。
「い、いいの……?」
「勘違いするな。お前が捕まってここで騒がれると、俺の植物にストレスがかかる」
ぶっきらぼうな言い訳。
でも、彼は私の前に立ちふさがり、背中で外からの視線を遮断してくれた。
私はその隙間に滑り込み、膝を抱える。
彼の背中は大きくて、少しだけ土の匂いがした。
トゲトゲして、近寄りがたい「イガ栗」みたいな人。
でも、そのイガの内側は、どんな高級なソファーよりも温かくて、安心できる場所だった。
「……栗原くん、だよね」
「喋るな。見つかるぞ」
低い声で叱られる。
でも、私は知ってしまった。
この人は、私が泣き止むまで、絶対にこの場所を動かないつもりだ。
(……硬いのは外側だけなんだ)
私を守るように仁王立ちする彼の背中を見上げながら、私は小さく息を吐いた。
ごめんね、栗原くん。
私、しばらくここから出られそうにないや。




