無常堂夜話13:人の嫉みの物語(前篇)
戻子は飛び降り自〇志願者に巻き込まれて重傷を負ってしまった。そんな戻子を助けるために瀬緒里が動くが、その事件の裏にはある人物の積年の恨みが関わっていた。
起・事件の萌芽
その日、迚母優秀は、少し精神的に不安定だったようだ。だから、雨にもかかわらず傘もささずに道路に出て、ふらふらと歩いていたのだろう。
たまたまオレが、梅ちゃん准教授のお使いでコンビニへと足を運んでいなかったら、彼は間違いなくトラックの下敷きになっていただろう。
オレ、織田信尚は、平島梅子准教授のご要望で、コンビニ弁当とコーヒーを買っての帰りだった。
オレの目の前に、傘もささずにとぼとぼと歩く男性が見える。
時刻はもう午後7時。暗くはなっているが、彼のひょろりとした特徴的なシルエットと、きれいに7:3に分けた栗色の髪を見て、
(おや? 彼は茂武教授のゼミの、迚母くんじゃないか? どうしたんだ、傘もささずに……)
迚母くんは工学部4年生で、オレが所属する人文学部とは道を挟んで反対側の理系キャンパスに通っている。
理系と文系は交流も少なく、本来彼の存在を知るはずもないのだが、迚母くんは高分子化合物の研究においてまったく新しい素材を創り上げたことで、本学だけでなく学会や企業からも注目される存在だった。ちょうど我が人文学部の4年生、来島くんが『視蓋遺跡』で学会の常識を覆す発見をしたのと同じだ。
だから、理系の教授でも来島くんの名前は知っているように、オレたち文系の助教クラスであっても迚母くんの話は聞いていた。
(……にしても、この雨の中、濡れたまま歩いていたら身体を壊す。傘を貸してやろう)
オレがそう思って足を速めた時、迚母くんは立ち止まり、車道を走って来るトラックのヘッドライトを見つめる。
その様子に異変を感じたオレは、急いで駆けだした。迚母くんはトラックの接近を知りつつ、ガードレールを乗り越えて車道に出ようとした。
「何をしているんだ、迚母くん!」
オレは思わずコンビニ袋を投げ捨て、迚母くんの上着を引っ張った。間一髪、彼は道路ではなくオレの方に倒れかかって来て、二人して歩道の植え込みに転倒する。
「おい、大丈夫か!?」
オレが横に転がっている彼に声をかけると、彼はまるで夢から覚めたような顔で、
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしていました」
そう言って立ち上がる。だが、その顔には生気というものが感じられなかった。
「……君、今自分が何をしようとしていたか覚えているか?」
オレが訊くと、迚母くんはゆっくりと首を振って答えた。
「いえ、何も覚えていません。この頃こんなことがよくあるんです」……
………
「なるほど、それで私の弁当がこんなになっているって訳ね?」
梅ちゃんが、コンビニ袋から取り出した弁当を見て渋い顔をしている。お気に入りのカツカレーがぐちゃぐちゃになり、しかも冷めてしまっていたから渋い顔は当然ではある。
だが、梅ちゃんは元来物分かりのいい女性だ。弁当の件はそれとして、心配そうな顔をオレの隣に座った迚母くんに向ける。
「迚母くん……だったわよね? 茂武教授のゼミの。なぜトラックに飛び込もうなんて考えたの?」
すると迚母くんは生気のない顔をだるそうに横に振り、
「記憶にありません。車道に飛び出そうとしていたなんて、助教に聞くまで知りませんでした。単に気分が悪くなって倒れたのだと思っていましたので、僕もびっくりしています」
そう言うと、オレに向かって頭を下げる。
「織田助教、助けていただいてありがとうございます。あなたがいなければ、僕は今頃」
「まあ、お礼なんていいさ。だが、車道に出るって行動が無意識でってなると、ちょっと問題があるな。医者には診せたのかい?」
「いえ、ここ数か月は学会発表のための再現実験や追試、論文執筆で忙しかったですし、発表後はマスコミ関係の対応もありましたので、疲れが溜まっていたんだと思います。
教授からも院へのお誘いも受けていますから、勉強もしておかないと……」
そう疲れ切ったように話す迚母くんだったが、研究のことを話す際の声には張りがあり、彼がどれだけ今の研究に対して興味と関心を持っているのか良く分かった。
とにかくその日は、オレが彼を自宅まで送り届けたのだった。
前日の夜にそんなことがあったとは知らない私、一条戻子は、お昼になったのでいつもどおり学食に向かっていた。
「なあなあ、戻子。今日は何食べる?」
私の隣では、小学校からの親友、貴家鏡子が、目をキラキラさせて私に聞いて来る。やっぱり鏡子は、今日も鏡子だった。
「……そうだねぇ、このところ鏡子ってば、丼ものに凝っているみたいだけど、たまには別のもの食べてみたら? 麺類とか、パスタ類とか?」
私が言うと、鏡子は真剣に悩み始める。
「う~ん、昨日は天丼、一昨日は親子丼、その前は牛丼、そしてその前はかつ丼……学食にある丼ものはひととおり制覇したから、確かにカテゴリーを変えようとは思うんやけど、定食シリーズで行くか、麺類で行くか悩むところやなぁ。
戻子はどない思う?」
「いや、どない思うって聞かれても。それは鏡子の気分次第ってところじゃないかなぁ?」
「せやから、戻子やったら麺類と定食、どっちがええ? うちはどっちでもええねん。
がっつり食べる定食も、蕎麦もうどんもパスタも、何でも来いやーって感じやな」
「う~ん……」
鏡子の熱弁を聞きながら考えているとき、なぜか周囲の生徒が上を向き、
「きゃあっ!」
「君、そこを退くんだ!」
そんなことを口々に言う。
「は?」
私がポカンとしてそう言った瞬間、
ガスンッ!
「がっ!?」
「戻子!」
何か重たいもので頭を叩きつけられた感じがして、私は何が何だか判らないうちに目の前が暗くなってしまった。
(なんか、ふわふわするなぁ……)
私は夢の中で、空を飛んでいた。白い雲が遠くに流れ、頬に吹き付ける風が心地よい。
(なんか、このまま空高くまで飛んで行けそうだなぁ……)
そう思った時、ふっと鏡子の顔が脳裏に浮かんだ。
『戻子、しっかりしいや! 目ぇ開けてぇな戻子ぉ!』
(あれ、なんで鏡子は泣いているの?)
私がそんなことを考えた時、急に頭が痛くなった。
「頭、痛い……」
思わず口走ると共に、意識がはっきりしてくる。目の前には鏡子の泣き顔と、見たこともない天井が見えた。
「……あれ、私、どうしちゃったの?」
私は周りを見渡そうとして、首が固定されているのに気づく。手足を動かそうとしても、力が入らなかった。
「戻子の意識が持ってよかったぁ~。心配したんだよぉ~!」
鏡子が私の胸に顔をうずめて泣いている。訳が分からない私は、鏡子に訊いた。
「意識が戻った? 私、気を失っていたの?」
鏡子は涙を拭きながら、
「せや。校舎から人が飛び降りてな? 戻子がその下敷きになったんや。首が訳分からん方向に曲がっとったから、戻子が死んでもうた思うてうちもへなっとったんや」
そう、私の遭難を話してくれた。
「……下敷き?」
そうか、あの衝撃は落ちて来た人がぶつかった衝撃だったんだ。
「せや。何でも工学部の先輩やったって話やけど、人騒がせにもほどがあるで。死ぬんやったら人様に迷惑かけんと死んでほしいねん」
鏡子が怒りのあまり、そんなことを言う。
「……人に迷惑かけない自殺なんてないと思うけど……。で、その先輩はどうなったの?」
私が訊くと、鏡子は憤怒の表情で私に言う。
「人の心配はどうでもええねん! 戻子は自分の心配をしいや!」
……そう言えば、自分の怪我の程度を聞いていなかった。まあ、首にギプス、手足が動かないとなったら、最悪のことを考えちゃって、聞きたくなかったってのもあるけれど。
「私、どうなってるの? 状況を見たら、結構ひどい感じだけど……」
声が震えた。やっぱり最悪の事態を考えてしまう。
けれど鏡子は、無理にひきつった笑いを浮かべて、明るく言った。
「そ、それはお医者さんから伝えてもろうた方がええな。戻子が目ぇ覚ましたこと、看護師さんに知らせて来るわ」
鏡子がそそくさと病室を出て行った後、しばらくして初老の優しそうなお医者さんが、看護師さんと一緒に私の病室を訪れた。
「意識が戻ってよかった。君は5日ほど意識がなくてね、親御さんには覚悟をしておいてほしいと話していたんだ」
それくらい、私の状態は酷かったのか……だったらこうして目を覚ましたのは奇跡と言ってもいいのかも。
「……それで、私はこの後どうなるんですか? 首も痛いし、手足が動かないんですが」
私が訊くと、医者は努めて平静に、
「君は頸椎骨折、つまり首の骨が折れたんだ。運ばれてきた時は意識もなく、心肺停止状態だった。その他には両大腿骨骨折と胸骨にひびが入っていた。
今後は、全身麻痺になる可能性が高い。そのことだけは覚悟しておいてほしい。仮にそうならなくても、どこかに麻痺が残る可能性もある」
そう言った。
「……そう、ですか……」
私は頭が真っ白になり、目の前が暗くなった。私の未来は、ほんのちょっとの偶然によって断ち切られてしまった……そう思うと、悔しさと切なさで胸がいっぱいになり、いつの間にか私は泣いていた。
それからしばらくして、私はお見舞いを受けられるようになった。
けれど、私は家族と鏡子、そして梅ちゃん以外のお見舞いはお断りすることにしていた。それ以外の人たちには、今のこんな姿を見てほしくなかったのだ。
「戻子、今日は違う人を連れて来たんやけど、病室に入れてええか?」
ある日、鏡子がおずおずと話しにくそうに言う。鏡子にも私の気持ちは伝えてある。それなのに誰かをお見舞いに連れて来たということは、義理堅く慎重な彼女にしては大変珍しいことだった。
「……私、こんな姿を家族や鏡子以外に見られたくないな」
私が言うと、鏡子はなぜか困ったような顔でうなずき、
「うん、うちもそう言うてん。せやけど、どうしても会って、状況を確認したい言うもんやから……でも、せやな。戻子の気持ち分かるで。断って来るわ」
そう言って病室を出て行こうとする。
その時、私はふと、誰が来ているのか気になった。これがソラさんだったら、鏡子はそう言うはずだ。最初にソラさんの名前を出して私に会いたいかどうかを確認するはずだ。
けれど名前も出さず、さりとて門前払いにもしない人物というのが、私にはちょっと思い付かなかった。だから私は鏡子を呼び止めたんだと思う。
「鏡子、一応名前を聞いていい? 誰が来てくれているの?」
すると鏡子は言いにくそうに相手の名前を口にした。
「戻子に生霊飛ばしとった同級生、覚えとる? あいつがめっちゃ真剣な顔で頼んで来てん。戻子の状況を知りたい言うて……」
私は、眼鏡をはめた気が弱そうで、でもどことなく人の好さそうな顔をした男子学生を思い出した。あの生霊の件は私にとって、思い出すだけでも顔から火が出そうな黒歴史になってはいるが、その後の彼の対応は真摯で誠意を感じられるものだったので、彼への恨みや嫌悪感はない。
「……たしか、巫守人くんって言ったっけ?」
私が訊くと、鏡子はうなずき、心配そうに言った。
「うん、会いとうはないやろ?」
私は少し考えて、
「……彼が何を考えているのか興味があるなぁ。入ってもらってもいいよ」
そう返事をした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
承・神徳治癒
僕の名は巫守人、S大学法学部の1年生だ。僕が一条戻子さんの遭難を知ったのは、ついさっきのことだった。
僕は一条さんに一目ぼれをして、その思いを募らせた結果、生霊を飛ばして彼女を苦しめることになってしまった。そのことで、彼女の友人である貴家鏡子さんや、先輩の山本春行さんを怒らせ、非常な迷惑をかけてしまった。
それ以来、僕は一条さんには友人として接し、でも彼女の役に立つためなら何でもしようという思いは持ち続けていた。
僕は一条さんの遭難を、山本先輩から聞いて知った。
「え……嘘でしょう先輩?」
ひどく動揺する僕に、山本先輩は難しそうな顔をして答える。
「本当だよ。校舎の屋上から飛び降りた学生の下敷きになったそうだ。
意識は回復しているらしいが、どうも全身が麻痺しているみたいでね? 親御さんや貴家さんみたいに親しい友人としか会っていないみたいだ。
昨日、俺もお嬢や武田さんと一緒にお見舞いに行ったが、会ってもらえなかった」
「そう……ですか……」
茫然とする僕に、山本先輩は
「君も一応は一条さんから友だちとして認められているから、知らせておこうと思ってね。彼女の快癒を共に願おう」
そう言うと、そそくさと校舎に入って行った。
『……だそうだが、お前はどうする? 守人』
僕の目の前に、白髪に翠の目をした筋肉質の男神が現れる。とはいっても、彼の声は僕にしか聞こえず、僕にしか姿は見えない。
「……どうしたらいいだろう? 何か彼女を助ける方法はないのかい? 巌」
僕はそう声に出して言う。この男神は四辻之巌命と名乗っており、自身で塞の神だと言っている。
僕が山歩きをしている時、ひょんなことから封印を解いてしまったらしい。
それ以来、この男神は僕を依り代としてちょっかいをかけてくることもあるが、僕を助けてくれることもあるのだ。
僕の問いに巌はあくびをしながら答える。
『どうって言われてもなぁ……そのお嬢さんの状態を見てみないことにゃ、俺様も何とも言えないなぁ』
「彼女の状態を見てみたら、どうにかなるのか?」
僕は一縷の望みをかけて巌に訊く。あの素敵な女性が、こんな不運な出来事でこの先一生、寝たきりになるなんて、あまりにも理不尽すぎる。
『ん? まあな。おっ死んじまってるんじゃない限り、ある程度は何とかできるだろうよ。あのお譲さんは川津媛命からも気にかけてもらっているようだしな』
それを聞いて、僕は山本先輩から教えてもらった病院へと向かっていた。
歩くこと十数分、僕は大きな総合病院に来ていた。手には来る途中で買った花束を持っている。面会を断られたら、花束を渡して帰るつもりだった。
いかに一条さんが寛大で、僕のことを許して友だちになってくれたとは言っても、最初から面会できるとは考えていない。
彼女の正確な状態を知るためには、面会しなければならない……そこは絶対だが、今すぐにでないといけないわけではない。命に別条がない限り、焦ってしまって強引に病室に入るような真似はしたくない。
だから病室の前に行った時、中から金髪ポニテの貴家さんが出て来たのを見て、僕はちょっとはチャンスがあると思った。ご家族なら、僕の印象は最悪だろうから、花束を渡して過日の出来事について改めて謝罪し、出直すつもりでいたのだ。
「……なんやあんた。戻子が動けんのをええことに、妙な真似をしくさらすつもりやないやろな?」
僕を見て貴家さんの口から出た第一声がこれだった。まあ、そう言われても仕方のないことを僕がしていたのだから、これは自業自得というものだ。
「そんなつもりはありません。ただ、戻子さんのお見舞いに来ただけです。面会させていただけないでしょうか?」
僕が言うと、貴家さんは明らかに警戒のまなざしで僕を見て、
「お見舞いに来てくれたんは嬉しいけどな、戻子があんたに会いたがると思う?」
そう言い放ってくる。
僕は頭を下げて、貴家さんに頼み込んだ。
「嫌われているのは覚悟のうえだし、僕がお呼びでないことも解っているけれど。お願いだ、一目だけでいいから戻子さんの様子をこの目で確認させてくれ。彼女のためなんだ」
「なんやあんた、戻子のケガをあんたがどうこうできる訳あらへんやろ? 前から思っとったけど、頭おかしいんとちゃうかホンマに?」
貴家さんが怒りながらも呆れた顔で僕に言う。その時、僕の後ろに巌が姿を現して言った。
「お嬢ちゃん、せっかく俺様がこいつの想い人を何とかしてやろうと思ってるんだから、そんなつれない態度は取りなさんな。
よしんば俺様の手に負えなくても、川津媛のおばはんに頼み込んでやるからよ」
巌は身長が2メートルを超えた大男で、裸体に陣羽織、裾をくくった袴という姿だ。案の定、貴家さんはぎょっとした顔をしたが、卒倒するでもなく一瞬固まっただけなのはさすがだった。
「あ、あんさん何もんや!? 急に現れおってからに」
貴家さんは顔を引きつらせながらも、とっさに殺気を漲らせる。すると巌は呵々大笑して、
「がーっはっはっはっ! お前、見かけによらず肝が太い女子だな。
気に入った! お前のためにも、この四辻之巌命、一肌脱がせてもらうぜ!
ぜひ、こいつがお前の親友に面会できるよう取り計らっちゃくれねえか?」
至極上機嫌にそう言う。貴家さんは警戒を解かないものの、
「……あんた、神さんやな? 分かった、戻子と話をしてみる」
そう言って病室に戻った。
そしてしばらくして、
「戻子が会うてもええって。よかったなあんた」
貴家さんがそう言って病室から出て来た。僕はホッとした。こんなにうまくいくとは思っていなかったのだ。
「ありがとう」
僕はそう言って病室に入る。もちろん、貴家さんが戻子さんの側に立って、僕を牽制するような眼で見ていた。
「れ、戻子さん……ひどい目に遭ったね。これ、お見舞い」
僕が花束を見せると、戻子さんはにっこりと笑って言ってくれた。
「ありがとう、きれいなお花だね。身体が動けば、直接触ってみたいけど、今はちょっと無理みたい」
彼女は首を固定され、視線だけを僕に向けている。そのほか、足にもギプスが巻かれていて、本当に痛々しい姿だった。
その時、僕は巌の声を聞いた。
『守人、これは良くなるぞ。ただちょっと問題があるが、その件については、俺様が川津媛のおばはんに頼んでやる。とりあえずこうしとけば、お嬢さんの回復を邪魔する者はいなくなるだろうよ』
そう言いながら姿を現した巌は、戻子さんの枕元に立ち、首に向けて右手をかざす。
『……もういいぜ。後は俺様に任せな』
そう言って巌が消えたので、それをしおに僕も戻子さんにいとまを告げた。
S大学の南西に、月詠神社がある。
この神社の裏手には小道があるが、そこを歩いていくとレトロな雰囲気に満ちた広場に出る。人によっては『猫の恩返し』に出てくる、『猫の事務所』がある広場を思い浮かべるかもしれない。
この広場には、『無常堂』という古い骨董品屋がある。古い瓦屋根、壁は板壁で、所々に子どものいたずら書きも見える。
歪んだガラスがはまった木製の引き戸、色褪せてカーキ色になった帆布製の庇……見るものすべてが懐かしさを感じさせるたたずまいだった。
この『無常堂』が、私と我が背・化野空様の愛の巣で、私は空様の商売を手伝いながら、そのお世話をしているのである。
「……今日もお客さんはゼロ。日々是好日ですね~」
空様が月詠神社でお祓いをしている間、店番をしている私がそんなことをつぶやいてまったりしていると、不意に猛々しい神気を感じた。
(……これは、いつか会った四辻之巌命とかいう、生意気な男神ですね。一体誰に、何の用事かしら?)
私も、静かに神気を解き放って椅子に座り直す。あの時は空様が彼を投げ飛ばし、私が彼の額を打擲している。てっきりその意趣返しに来たのかと思ったのだ。
やがて、店先にのっそりと大きな人影が映る。玄関を潜って入ってきたのは、やはりあの時の小生意気な神だった。
「よお、川津媛のおばはん。元気にしているかい?『いらっしゃいませ』の一言もないなんてつれないな」
へらへらと言うそいつに、私は冷たい視線を投げて、
「何も買う気がない冷やかしはお客ではありません。『いらっしゃいませ』とは、お客様に対して使う言葉ですから」
切り口上で言うと、そいつは頭をかいて、
「ははっ、違いないや。でさ、おばはん……」
「私は確かにあなたと比べたら歳を取っていますが、見た目麗しい女性に対して『おばはん』は失礼ではないですか?」
何か言いかけるが、私がぴしゃりと言うと慌てて言い直した。
「悪かったよ、川津媛様。今日はちょっと媛様にお願いがあってきたんだけどさ」
「悪巧みや悪戯への合力願いやお誘いなら、きっぱりお断りいたします」
取り付く島もない塩対応に、そいつは大きいだけが取り柄の図体を縮こませて言う。
「いや、今日のお願いは人助けだ。巫の坊主が懸想していた女子大生、知ってるだろ?」
「ええ、一条戻子さんですね? それが何か?」
私が訊くと、そいつは真剣な顔で言った。
「お嬢さんがな、飛び降り自殺志願者の下敷きになっちまってな? 命は助かったが、全身が動かなくなるかもしれねえんだ。川津媛様なら何とかならねえかなって思ってさ?
巫の坊主もすっかりしょげ返っちまってなあ、見ていられないんだ」
その話は、私を驚かせた。一条戻子という女子に関しては、正直いい感情を持っていない私だが、彼女が理不尽な目に遭っているのを聞けば、やはり心配にはなる。
「その話、詳しく」
「おお、やっぱ聞いてくれるかい? 実はな……」
四辻之巌命は、戻子さんの様子を詳しく話してくれた。
「状況は把握しました。その程度なら私が出て行く必要もないでしょう。式女を遣わしますから、巫の坊やには安心するよう伝えてください」
話を聞き終わり、私がそう言うと巌命は喜んで、
「おお、さすがは川津媛様だな。俺様もいつか、こんな人助けができるような神にならなきゃな。礼を言うぜ」
照れながらそう言って姿を消した彼に、私は心が温まる思いだった。仲間の地祇から鼻つまみ者扱いされていた彼だが、あの心を持ち続ければ、すぐに神徳を施せるようになるだろう。
そう考えた後、私は式女を呼び出して、戻子さんへの手当てを指示した。
次の日、私は空様と共に戻子さんのお見舞いに訪れていた。
「ソラさん、瀬緒里さん。わざわざ来ていただいてありがとうございます」
戻子さんは、首にも両足にもギプスを巻き、痛々しい姿で横たわっていたが、我が背の姿を見たときにはっきりと喜色を面に表した。恐らく、我が背がお見舞いに訪れることを、他の誰が訪れるより心待ちにしていたのだろう。
「話は聞いたよ。ひどい目に遭ったね? でも、君のことだ、これくらいの苦難ならきっと乗り越えるだろうと信じているよ」
我が背の言葉に、戻子さんの顔が一瞬歪み、そしてゆっくりと微笑に変わる。
我が背の言葉を善意からくる激励と受け止め、何とかその言葉に希望を見出そうとしているのだと分かった。
だが『我が背の言葉をただの同情の言葉にはしない』……そう思った私は、ゆっくりと戻子さんの側に歩み寄り、その首筋に右手を当てて言った。
「私は瀬織川津媛命。我が背の友人たるそなたに神徳を垂れ、その苦痛を取り除きます。そなたの傷は完治し、以前のような身体を取り戻すでしょう。ゆめ疑うなかれ」
そして私は、神気を彼女の身体に注ぎ込む。戻子さんはびっくりした顔をしていたが、やがて気持ちよさそうにすやすやと寝入ってしまった。
「……瀬緒里さん、今のが?」
「はい。私の幸魂です。明日になれば痛みは消え、首の骨折も治っているでしょう。それより我が背よ、何か感じられませんか?」
我が背の問いに答えながら、私はこの病室に入ってからずっと感じ続けている思念について我が背に問うた。
我が背はうなずくと、何気ない風で周囲を見回し、
「……はっきりとした怨嗟ですね。怨念とまでは言いませんが、それでも厄介なほどまとわりついて来ます」
そう答える。
私はうなずいて言った。
「これでもまだマシな方だと思います。四辻之巌命が昨日、張り付いているモノを一時的に引き剝がし、結界の外に弾き出しているみたいですから。
悲しいことに、神力が弱い巌命ですから、その処置は1日しかもたなかったようですが。
これは戻子さんへの怨嗟以外にも、なにか別の思念を感じます。空様、お調べになった方がいいと思いますよ?」
私がそう言うと、我が背は真剣な顔でうなずいた。
次の日、再び巌命が『無常堂』を訪れた。今度はのっけから喜色満面だったので、私が施した神徳が功を奏したのだとすぐに分かった。
「川津媛命さん、あんたやっぱすげえな!」
「……その様子では、戻子さんは快方に向かっているようですね?」
私が無表情で静かに言うと、巌命は尊敬の眼差しで私を見て言う。
「おお、何でも手足に感覚が戻ったらしく、診断した結果、首の骨はすっかり元どおりになっていたってさ。守人に『川津媛に頼んできたから心配するな』って言った手前、どうなることかと心配していたが、やっぱ川津媛命はすげえよ!」
「……今日は、『おばはん』呼びをしないのですね?」
私が薄く笑って言うと、巌命はぶんぶんと頭を振り、
「とんでもねえ。今まで川津媛命のことを馬鹿にしていた俺様を殴って、小一時間説教をしてやりたいぜ」
そう言うと、私に向かって頭を下げ、
「お願いだ、川津媛命様。俺様を川津媛様の眷属にしちゃくれねえか? 俺様は早く一人前の神格を得て、神徳を垂れることができるようになりたいんだ」
そう言うので、私は首を振って教えた。
「あなたは既に崇敬を受け、神となって久しい存在。私の眷属に受け入れることはできません。しかし、私の父である水分高良命の許を訪れてみればいいと思いますよ?」
巌命は残念そうな顔をしたが、それでも気を取り直して、
「分かりました。では、御父上のもとを訪ねてみることにしましょう」
そう言って『無常堂』を出て行った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
転・恨み持つ者
ソラさんたちがお見舞いに来てくれた後、私の身に説明できないようなことが起こった。
ソラさんのお見舞いの途中、瀬緒里さんが私の首をさすってくれた後、私はどうしようもない眠気に襲われて、ぐっすりと寝入ってしまった。
そして次の日の朝、目が覚めた私は、
(ソラさんがせっかくお見舞いに来てくれたのに、あんまりお話もせずに寝ちゃうなんて、非常識な子って思われていないかな?)
急にそんな不安に襲われた。
その時、私は首の痛みが消えていることに気が付いた。
(あれっ? 痛みがない。薬が効いているのかな?)
そして、何の気もなしに身体を動かそうとしたら、手足が動かせた。
(えっ!? 昨日までピクリとも動かなかったのに。動かそうとしても力が入らなかったのに……いったいどうしちゃったんだろう?)
その時、私は思い出した。瀬緒里さんが私を見つめて言った言葉を……。
『私は瀬織川津媛命。我が背の友人たるそなたに神徳を垂れ、その苦痛を取り除きます。そなたの傷は完治し、以前のような身体を取り戻すでしょう。ゆめ疑うなかれ』
……ということは、瀬緒里さんって神様!?
そのことに思い至った時、私は驚きもしたが、何故かすんなりと納得もした。『雨竜島』での出来事や、『視蓋古墳』での神鎮め、そしてU峠の廃集落で見せたソラさんの人間離れした能力や、あの場に現れたどう考えても人間ではない方々……を思い出した時、彼の周囲に神様の一柱や二柱居られても不思議ではないと思ったのだ。
(ということは、瀬緒里さんにいつかお礼言わなくちゃなぁ。どこの神社にお参りしたらいいんだろう?)
私はそう思いながら、枕元にあったナースコールを押した。
その後は、すごく目まぐるしかった。
看護師さんたちは、私がナースコールを押したことを知って驚愕した。そしてそれを知った主治医の先生は、すぐに病室にすっ飛んできて、私をすぐに検査に回す。
私は念のためベッドごと運ばれて、いろいろな検査を受けた。
「今までこんな症例は聞いたことがない。まるで最初から骨折などしていなかったようだ」
その結果、お医者さんの言うとおり、レントゲンで見ても、MRIで見ても私の頸椎は完全に治った……というより最初っから骨折していなかったように元に戻っていた。
それは胸骨や大腿骨も同じで、検査でどこにも異常がないことが確認された私は、念のためということで次の日まで入院し、両親や妹の迎えにより、2日後に退院した。
「全治6か月、全身の麻痺を覚悟してって言われていたけど、10日ほどの入院で治っちゃった」
「せやけどホンマ不思議やな。戻子には悪いけど、うち、もう二度と戻子と遊び回ることはできひんって覚悟していたんや。それが医者も驚くミラクルやんか。やっぱソラさんはただの人間やあらへんのやろなあ」
私の退院を祝って、鏡子が部屋にケーキを買ってきてくれた時、私はソラさんと瀬緒里さんが来てくれたこと、その時に不思議な体験をしたことを離すと、鏡子はそう言って感嘆したが、
「でな、戻子。あの巫言う男がな、ソラさんに戻子のこと知らせてくれたんや。なんやあいつ、鬼みたいな奴と一緒にいてん。ただそいつが、ナントカ媛にお願いしたる言うてたんや。きっとそいつがナントカ媛につないでくれたんやと思うで?」
そう、巫くんがお見舞いに来てくれた日のことを教えてくれた。
「……そうなんだ。巫くんにもお礼しなきゃね」
私がそう言うと、鏡子は
「ま、今度は怪我の功名言うやつやな。戻子にあんだけ迷惑かけたんや、これくらいして当然やで!
せやけど戻子、うちは巫の後ろに居った鬼みたいなやつのことが気になるねん。そのナントカ媛って、ソラさんとこの瀬緒里さんなんやろ? いっぺん話を聞いた方がええんちゃうか?」
そう力説する。確かに、巫くんには今回の件でお世話になったけれど、何か『異形のモノ』が憑いているのであれば、ちょっと不安だし気持ち悪い感じがする。
「……そうだね、一度『無常堂』に行って、瀬緒里さんに聞いてみよう」
「……というわけで、瀬緒里さんなら巫くんの側にいる『異形のモノ』について、何か御存知じゃないかと思いまして」
その日の午後、私と鏡子は早速、『無常堂』を訪れていた。ソラさんはあいにく留守だったが、瀬緒里さんは店番をしていたので、お話しすることができた。
ここはソラさんとの『縁』が結ばれていないと、訪れることはとても困難なお店らしい。私は一度、ソラさんが『視蓋古墳』の怨念を浄化するための儀式に参加したことがあるため、その時にソラさんとの縁が生まれた。だからここには私が望む時に来ることができる。
しかし、久しぶりに『無常堂』に来た鏡子は、外観のレトロさや展示してある品物に改めて興味を惹かれたらしい。瀬緒里さんが顔を出すまで、あちこちのアンティーク装飾品や何に使うか判らないようなものをいじっていた。
「戻子、見てみぃ。この傘、1本で15万円もするんやって! 製作年は1960年代やからそないに古いもんでもないし、さすがにぼったくりすぎひん?」
「鏡子、私たち、瀬緒里さんに会いに来たんだよ!? 勝手に商品を手に取ったら怒られるよ」
私が鏡子に注意した時、店の奥から黒髪のセミロング、和服にエプロン姿の女性が音もなく近づいて来て言った。
「……それはシリアルキラーが犠牲者の皮膚で作った傘です。希少品なので好事家はそれ以上の値でお買い上げいただいていますよ?
それと、鏡子さんが立っているコーナーには、いわゆる『呪物』が含まれますので、勝手に触ると危険です」
「ひぇっ!」
鏡子が猫のように飛び退く。
「あ、瀬緒里さん。今回はとてもお世話になりました。今日はそのお礼と、ちょっと聞きたいことがありましてお邪魔しました」
瀬緒里さんは優しい顔で微笑んで、
「お礼など良かったのに。それに私に何を訊きたいのですか? 我が背に訊きたかったのでは?」
意地悪なことを訊いてきた。
「えっとぉ、ソラさんにお会いできれば、お見舞いのお礼も直接言えますが、神社の方でお仕事なんでしょう? だったら帰りに神社に寄ることにします。
でも、私の怪我を治すように頼んでくれた神様がいるって聞いて、その神様は鏡子によると鬼みたいな恰好をしていたって聞きましたんで、巫くんには影響ないのかなって。
瀬織川津媛様に、それをお訊きしたかったんです」
私は瀬緒里さんの顔を見ながらそう答えた。私の頬が熱くなっていたので、顔が赤くなっていたに違いない。
瀬緒里さんはそんな私を見て、クスリと笑うと、
「……あなたは正直な人ですね。それに心がきれいみたいです。我が背が気になさるのも仕方のないところですね。
我が背はあなたの怪我について、少し疑問がありますのでそれを調べに行かれました。ですから神社に行かれても我が背には会えませんよ?」
そう言った後、真剣な顔になり、
「あなたのことを頼みに来たのは、道祖神の一柱です。まだ人々の崇敬を受けることが少なく、神力が足りずに私を頼ってきたようですね。
悪い神ではありませんが、少々乱暴者で悪戯好きなところがあるようです。あの青年が封印を解いたために、その身に憑依しているようですが、たまに女子を抱きたくなる以外は実害はないはずです」
巫くんの側にいる神様のことを教えてくれた。
(でも、憑依されたら『たまに女性を抱きたくなる』って、かなりアブナイんじゃないかなぁ?)
私と同じことを考えていたのだろう、鏡子は顔をしかめながら言った。
「……戻子やうちに近付かせへんようにしとかなアカンな」
私は黙ってそれにうなずいたが、それよりも気になることがある。
「瀬緒里さん、私の怪我について、どんな疑問があるんですか?」
私の問いに、瀬緒里さんは黒曜石のような眼を細めて、静かに言った。
「……あなたは単に巻き込まれたんじゃなく、邪魔者たちを消したいという念のとばっちりを受けたのではないかということです」
「邪魔者、たち?……どういう意味でしょう?」
「そのままの意味です。分からないのなら、我が背がこの問題を解決するまで、お友だちとは一緒に行動しない方が無難かもしれませんよ?」
「あの……」
『無常堂』からの帰り道、私と鏡子は一人の男性から呼び止められた。ひょろりとした特徴的なシルエットと、きれいに7:3に分けた栗色の髪を持った男性だった。
(……あれ、この人、どこかで見たような?)
私がそう思って黙っていると、その人は気の弱そうな顔で訊いてきた。
「すみません、君は人文学部1年の一条さんですね?」
「そうですけど?」
「……失礼やけど、アンタ、名前は何て言うんや?」
鏡子が私を守るようにずいっと前に出てきて訊く。まるで威嚇しているみたいだった。
その男性は、鏡子のそんな態度に気圧されたように、
「し、失礼しました。僕は工学部応用化学科4年の迚母優秀と言います。この度は一条さんに大変なご迷惑をおかけして、誠に済みませんでした」
キョトンとしている私に、迚母先輩は深々と頭を下げ、
「すでに君のご両親には謝罪させていただいた。僕が病院で気が付いた時、君を下敷きにしてしまったこと、君の方が僕より深刻な状況に陥ってしまっていることを知らされて、本当に死にたくなってしまった……」
そう言う。
「……ちょい待ち。戻子の上に落ちて来た飛び降り自殺志願者って、アンタのこと?
応用化学の迚母先輩言うたら、なんやすごいもんを作ったって評判になった人やないか?
そないなお人が、なんで自殺なんか」
鏡子がびっくりした顔で言う。そう言えば、迚母さんってどこかで見た気がしたのは、テレビに出ていたからかぁ。でも確かに、そんな成功を収めた迚母さんなら、とても自殺しそうにはない、『とても』だけに……。
すると、迚母さんは眉を寄せながら首を横に振った。
「……それが、僕にも分からないんです。気が付いたら校舎の屋上に居て、何かに引っ張られるように柵を乗り越えて……そして、頭の中に『あの金髪の女の上に飛び降りろ!』って声が響いて……次に気が付いたのは、病院のベッドの上でした」
「……つまり、飛び降りる気はなかったって言いたいんやな?」
鏡子が訊くと、迚母さんはうなずく。私はそれよりも、気になった言葉があった。
(『金髪の女の子の上に』?……それって、鏡子のことじゃ?)
そして、瀬緒里さんの言葉を思い出して、背筋が寒くなった。
瀬緒里さんは言った。
『この問題が解決するまで、お友だちとは一緒に行動しない方が無難かもしれませんよ?』
その時、キキーッと耳をつんざくようなブレーキ音が辺りの空気を引き裂いた。
「うっ?」
「えっ?」
「あかーん!」
迚母さんと私と鏡子は、音のする方を同時に見て、同時に声を上げた。そして三人とも固まった。乗用車が真っ直ぐ私たち目がけて突っ込んで来ていた。
みんな、数秒後の自分の運命を思って顔をひきつらせたが、信じ難いことが起こった。
ドゴンッ!
キキキィーッ! ガシャアンッ!
自動車のボンネット横に大きなへこみができ、その煽りで自動車は私たちを逸れ、街路樹に正面衝突して止まった。
「……た、助かったぁ……」
私が思わずへたり込むと、鏡子がまだ青い顔のままつぶやいた。
「あの鬼神さんが、守ってくれてん……」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
結・人の恨みの物語
おれは鬱屈していた。
同じ研究室にいる迚母とは、中学以来のライバルだ。お互いに切磋琢磨し、テストなんかも1位2位を互いに競い合う仲だった。
迚母はどちらかと言うと物静かで、一人物事の神髄を考察するというタイプだったが、おれはと言えば人とつるむ方が好きで、勉強なんかも4・5人の友人たちとワイワイ楽しむ方だった。
だが、その頃から、迚母の才能が開花し、中学3年になる頃にはおれは万年2位に甘んじることになった。
それでも、迚母は俺に対する態度を変えなかった。おれも、奴に対して嫉妬と敗北感を抱えながらも、表面上は以前と変わらぬ付き合いを続けていた。
「あ、根田見くん。君の研究の件で話があるから、ちょっと研究室まで来てくれないか」
おれの名は根田見益大。S大工学部応用化学科の4年生だ。迚母と同じ茂武教授の研究室に所属している。
「分かりました」
おれはそう返事をして、茂武教授の後に続き研究室に入る。教授はドアを閉めると、おれに椅子を勧め、自分もおれの斜め右に座った。
「教授、お話というのは?」
おれが訊くと、教授は残念そうな顔で
「君がエントリーしていた国の補助金コンペだがね、最終選考で落とされた。私としても期待していただけに残念だ。
しかし、研究自体は意義のあるものだと思っている。学内の予算が取れるように私の方でも努力するから、教授会用の資料を準備しておきたまえ」
そうおれに告げた。
「そうですか……残念ですが仕方ありません。鋭意研究を進めます。
それで、迚母くんがエントリーした研究の方は?」
おれは立ち上がりながら教授に訊く。教授は微笑んで、
「ああ、彼の方は採択になった。大学には彼の分も予算申請していたから、君の予算も通りやすくなるんじゃないかな。君の研究は、彼の研究に関係が深い分野だからね」
そう言う。おれは悔しさを隠して、
「そうですか、それは名誉なことですね。それに私の研究にも励みになります」
そう言うと、研究室を出た。
(……いつもこうだ。迚母ばかりがスポットライトを浴びて、おれはいつも2番手3番手……だから……)
おれはとぼとぼと下宿に帰り、本棚から1冊の魔導書を取り出す。そしてしおりを挟んでいるページを開くと、
『どうしたの? 浮かない顔じゃない』
海の波のような髪の毛をした、妖艶な美女が姿を現す。美女はおれを見ると、しなを作ってすり寄ってきたが、おれはその身体を邪険に引きはがし、ベッドに座った。
『あら、あたしに乱暴なことするのね? ご機嫌が悪いのかしら?』
懲りずに横に座ってきた彼女に、おれは怒りをぶつけた。
「お前、おれに約束したよな!? 一条戻子への恋を邪魔する貴家鏡子と、おれのライバルである迚母優秀を、この世から排除するって。いつになったら約束を果たすんだ!?」
すると、彼女は豊満な胸を見せつけるように腕を組んで、言い訳をする。
『ちゃんとやってるわよぉ? でもぉ、迚母って男はともかく、貴家って女の子の方にはこの国の神か何かが守護として憑いてるのよねぇ。
ま、あたしもリリス様の眷属だから、ご主人様であるリリス様の御名にかけて約束は果たすけれど、あなたの方こそ、約束は破らないでよぉ?』
おれは、こいつの言う『貴家鏡子に憑いている神か何かの守護』が気にはなったが、こいつが約束を守れば、おれは迚母への復讐と恋人確保の願いが叶うのだ。
「……おれの魂なんかでいいなら、喜んでお前に引き渡す。だから早く約束を果たせ」
そう言うと、そいつはニヤリと笑い、
『そぉお? 安心したわぁ。じゃ、ちょっと行ってくるわね?』
そう耳元でささやくと姿を消した。
「う~ん、お父様からの知らせでは、この辺りだと思うんだけど……」
S大近くの商店街を、一人の女性が何かを探しながら歩いていた。綺麗な白髪セミロング、紫紺のブレザー。白いワイシャツにチェックのネクタイを締め、ネクタイと同じ配色のロングフレアスカートに紫紺のタイツ、エナメルの黒い靴を履いていた。大きなバックパックを抱えている。
「……(*´Д`)……ミチ、ワカンナイ。やっぱりくうちゃんに頼ろうかなぁ?」
その女性がそうつぶやいた時、前から白髪だらけの天然パーマ、丸顔で笑顔が人懐っこい男性が歩いて来るのを見て、目を輝かせる。
「……何たる偶然、これはきっと神の御引き合わせだわ! おーい、くうちゃ~ん!」
呼ばれた男性は、ハッとして女性の許まで駆け寄ってきた。
「ちょうど良かった安奈、お前を探していたんだ。家にいないようだったから困っていたんだが、会えてよかった」
安奈はそれを聞いてニコーっと笑い、男性にしがみついて言う。
「きゃあっ、くうちゃんがうちを探してくれていたなんて嬉しい! うちもくうちゃんに頼みたいことがあったんだよぅ♡ 早速デートしようデート!」
「こらこら安奈、仕事はどうした仕事は? ぼくを探していたんなら、また悪魔払いかなんかなんだろ?」
『くうちゃん』が迷惑そうな顔でそう言うが、安奈はまったく意に介せず、
「えへ♪ くうちゃんったらぁ~、うちが『デート』って言うときはだいたい悪魔祓いじゃんかぁ~。んもう、本邦最強の呪禁師・化野空ともあるお人が、このくらいの冗談も判らないのぉ?」
そう言った後、真面目な顔になる。
「2週間ほど前、お父様から指令が来たの。またぞろ悪魔の気配を感じるって。で、様子見しながら悪霊の気配を探っていたら、夢魔の気配を感じたんだよね」
「……2週間前か。神恵伯父さんから、具体的な指示はなかったのか?」
「ううん。ただ、『悪魔の気配あり、注意せよ。悪魔を捕捉したら退けろ』ってだけ。
まったく、お父様からの指示って、いっつもこんな感じだからやんなっちゃう」
「それは、安奈が信頼されている証拠だろう? 本邦最年少の女性退魔師司祭さん。
で、その夢魔ってのは、何者なのか判っているのか?」
空が訊くと、安奈は笑ってウインクし、
「もち☆ リリスの眷属でアンジェリカかイシュテリアだろうと思う。この2体については、魔導書で素人でも呼び出し可能だもん」
そう答える。
「素人が呼び出し可能って……それ、問題がありすぎじゃないか? 下手をしたらあっちこっちでその夢魔が呼び出されるってことだよな?」
空が眉を顰めると、安奈は笑って答えた。
「あはは、そうだねぇ~。でも、その魔導書そのものがすっごく入手困難で、内容もアラム語で書いてあるから読める人ってまずいないし、それに召喚儀式に使う純水も、今は作れる人って一握りだし、誰かが召喚している間は他の人は召喚できないし、あんまり心配しないでいいんじゃないかな?」
そしてまた真剣な顔になり、周囲を警戒しながら言った。
「ただ、それほど召喚へのハードルが高いのに、うちが実際にその気配を感じているとなると、それだけ優秀な人間がいるってことだよ。
うち、最初に気配を感じた時、召喚者はくうちゃんじゃないかって思ったほどだよ? まあ、そんなことないかってすぐに否定はしたけど」
「ちなみに、その魔導書の名を教えてくれ。『無常堂』で取り扱っていないかを確かめたい」
空が頼むと、安奈はニコリとして空の耳にくちびるを寄せ、
「いいよぉ。あのねぇ……ちゅっ♡」
空の頬にキスする。
「わっ! 何するんだ安奈。お前、いつぞや瀬緒里さんから、あれだけ釘を刺されていただろ!? ふざけるにも程があるぞ!?」
空が慌ててそう言うと、安奈はニタニタ笑いをしながら、
「むふふ~♪ 真っ赤になっちゃって、くうちゃんったらかわいい~♡ で、これがその魔導書の題名だよぉ~」
1枚のメモを空に手渡す。空はそれを見て、
「……うちでは扱ったことがないタイトルだ。こんなものを手に入れられるとしたら……」
何かを考え込んでしまった。
「それでくうちゃん、うち、この番地に行きたいんだけれど。案内してくれない?」
安奈は、空の考え事を邪魔するように声をかける。空ははっと我に返って、
「分かった。案内する」
そう言って、安奈と共に歩き出した。
二人が着いたのは、大学の西側にある寂れた通りだった。
ここは、山のすそ野に当たり、古くからの家並みが残っている。山の中腹に霊園があることもあり、あまり開発の手が加えられていないため道は狭く、軽自動車ですら通行困難な場所も多かった。
その街並みをてくてくと歩き、古いアパートの前で二人は立ち止まる。
「……ここなのか?」
空が訊くと、安奈は少し硬い表情でうなずき、
「……間違いないよ。この建物から気配を感じる」
そう言って空と共に近くの空き地に移動した。
「……さて、どうする? 魔導書があれば回収するのか?」
空が訊くと、安奈は首をかしげて答える。
「もうイシュテリアは召喚されちゃってるしなぁ。魔導書って、そのものに悪霊が憑いてる場合もあるけど、召喚系の魔導書の多くは悪魔が棲んでいる次元につながるアイテムであることが多いんだ。
だからいまさら魔導書を回収しても、イシュテリアが戻る道をなくすだけなんだよね。まあ、退けてしまえば結局は自分の次元に帰るわけじゃあるけれど。ただ……」
「ただ、何だ?」
空が安奈を見て訊く。安奈はバックパックから聖書とロザリオを取り出しながら答えた。
「持ち主がイシュテリアと契約を結んでしまっている場合、持ち主の魂は魔導書に入れられちゃってる場合があるんだよねぇ。ま、担保ってやつ? 持ち主が契約に違反して魂を渡さない場合に備えてるんだろうね」
「その場合は、回収できないのか?」
「うん。回収した途端に持ち主は抜け殻になっちゃうわ。だから持ち主が魔導書を手に持っている時にイシュテリアを祓うしかないわね」
安奈は続いてフード付きマントを取り出し、それを羽織りながら言った。
「あの建物を精霊に視てもらうわ。その間、うちを守ってくれない? イシュテリアが現れたら、うちを連れて逃げてほしいな。できればお姫さま抱っこで♡」
ふざけた言い回しだが、口調は真剣のものだった。だから空もまた、真剣な顔でうなずいた。
「分かった。心配するな、ちゃんとおんぶして逃げてやる」
「もう、くうちゃんのイジワル」
安奈はそう言った後、目を閉じて何か呪文を口の中で唱え始める。
(……周囲の空気が変わった。安奈は精霊を自由自在に扱えるようになったみたいだな。たいした進歩だ)
空はそう思いながら、安奈と自身の周囲に盛り塩をして結界を張る。
空の結界が発動した瞬間、目の前のアパートが、ズズン!……という音と共に振動し始めた。
(……安奈がいうところの『悪魔の眷属』が、ぼくたちのことを見つけたらしいな。さて、安奈はどうするかだが……)
空が安奈を見ると、相変わらず目を閉じたまま呪文を詠唱している。できる限りたくさんの情報を手に入れるため、ギリギリまで止めるつもりはないらしい。
(……なら、ぼくもそのつもりでいようかな)
空は薄く笑みを浮かべて、懐から笏を取り出して、不気味に振動するアパートを睨みつけた。
「……悪魔の眷属とやら、どんな手を打ってくるつもりかな?」
そうつぶやく空の身体は、銀色の清浄な光に包まれていた。
(無常堂夜話12:人の嫉みの物語 後編へ続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
このシリーズ初めての前後編です。はじめはさらっと書くつもりでしたが、やはり人の嫉みがどのようなものかをしっかり書きたくて、3部作としました。
久しぶりに来栖安奈は登場しましたが、彼女がどのくらい成長しているかも楽しみです。
では、続きもお楽しみに!




