その2
裏口から出て通りに出る。夏の日差しが厳しい。
「はぁ〜!? あっつ!! あ〜もう室内帰りたいやっぱ戻ろうよキショー」
「そう言わずに、行きますよ。ダラダラしてたらクビになる」
「ならないよーん。オレ、優秀だから」
ニトは自分の頭をつんつんとして、ベッと舌を出す。なるほど、本部長が手を焼く理由がよくわかる。
「今日の対象は……子どもか。川で起きた水難事故で死んだが、死んだことに気がついていないらしい」
「ふーん、子どもねぇ。お前一人でいけるでしょ。オレ帰っていい?」
「あんたなぁ……」
グダグダと言い合いながらも、何とかこの人を引き止めて、対象の近くまで行くことが出来た。
とある町のごく普通の川。コンクリートで川の側面が固められている。川の底が見えるくらい浅い川だが、おそらく雨の日に、誤って川に転落してしまったんだろう。
時間は午前十時半くらい。小学生は夏休みである時期にも関わらず、その子どもは、黄色いカバーの着いた、青色のランドセルを背負って、橋の上から川を見ていた。
「いるじゃん。じゃあ行ってきてよ、オレ見てっから」
どっちが教育させられているのか分からないと思ったが、あくまでこいつの教育対象は、その態度であると理解している。仕事は、出来るんだろう。
「……帰らないでくださいよ」
「へいへい、頑張りますよ〜だ」
口笛を吹いて、電信柱に寄りかかっている。本当に呑気なやつだ。
対象までの距離を少しずつ縮めていく。この年齢くらいの子どもなら、バレても問題ないのだが、万が一逃げられると厄介なので、極力影を消す。
対象まで、残り五メートル。少しづつ距離を縮めて、彼の肩を叩く。
「迷い人様、お迎えに上がりました」
小学生はこちらを見る。驚くでも、笑うでもなく、なんか話しかけられたなぁというような顔をしている。
「ふーん」
彼はそう言うと、俺を無視して川を見た。何かあるのだろうか。
「下に、何かあるのか?」
小学生にそう尋ねるが、それでも黙ったまま下を見ていた。
一緒に覗き込んでみると、草むらの中に、汚れた帽子があるのが見えた。あれを取りたいのだろうか。
「帽子を、落としたのか」
そう聞くと、やっと子どもはこくんと頷いた。これのせいでこの子は迷い人になっていたのか。
「よし、ちょっと待ってろ」
川の下に繋がる階段を探す。水位が低いとはいえ、帽子を取るには、水場を踏むしかなさそうだった。革靴と靴下を脱ぎ、階段の上に並べる。猫に持っていかれなければいいが。
川底はヌルヌルしていて、気をつけないと滑りそうだった。慎重に歩いて帽子があるところまで向かう。少し時間はかかったが、なんとか帽子を手に取ることが出来た。泥まみれになってしまった、星の柄が描いてある帽子。
それを持つなり、来た道を戻って階段下まで行く。現場が川だと聞いて持ってきていたタオルがしっかり役に立った。足を拭いてまた靴を履き、小学生のところに戻る。
「ほら、これだろ?」
帽子を見るなり、小学生の顔はパッと明るくなった。
「ボクの、大事な帽子! お母さんが最後に買ってくれた、すっごく大事な帽子! おじさん、ありがとう!」
おじさんと言われたことは大変ショックだが、相手は小学校おそらく低学年、しかも死んだ人間にそういう教育をする必要はないだろう。
「もう、歩けるか?」
彼に聞くと、足をぺたぺたと動かして、動くようになった自分の足を見ていた。
「歩ける……歩けるよ!」
「幽世の鏡まで送ろう。おいで」
そう言って俺が歩き始めると、彼も着いてきた。ニトも、後ろからかったるそうに着いてきている。
住宅街の隙間、行き止まりになっている壁だらけの場所。子どもにとっては、大きな壁だろうが、大人の身長になってしまえば、壁の奥に見える家で、何者かが生活していることくらいは分かるようになる。
「迷い人様をお連れしました。彼の逝く道をお示しください」
それを言い終わると、行き止まりになっていた壁に、大きな壁掛け鏡のようなものが浮び上がる。幽世の鏡の表面は、まるで水面のような波紋が出来ていた。
「この先に、君の行くべき場所がある。いっておいで」
「わかったよ、おじさん。ありがとう」
彼はそう言うと、鏡の奥に進んでいき、姿が滲んできたところで、幽世の鏡は姿を消した。
「お〜、お疲れ。キショーおじさん」
ニトがニヤニヤしながらそう声を掛けてきた。
「おじさんじゃない」
「言われてたじゃん。オレ年上だけど言われたことなーい」
「老けてて悪かったな」
薄暗い裏路地から抜ける。時間はもう昼頃だろうか。
「ねーぇセンパーイ、お腹空いた〜。ごはんごはん〜、奢って〜」
「あんたの方が先輩でしょう?」
「えぇ〜、だってオレのこと教育してくれるんでしょ〜?」
「いい大人なら、自分の飯代くらい自分で賄えますよ」
「ちぇーっ! キショーってば真面目だー! 見た目通り〜」
そう言うニトを無視して炎天下のアスファルトの上を進む。昼飯は、適当にコンビニでパンでも買って行くか。次の仕事の確認をしながら、最短距離で本社に戻っていく。
仕事は真面目にするに限る。
「キショーって、ホント真面目だよね」
ニトがまた嫌味のようなことを言っている。ニトみたいなタイプからすれば、俺みたいなのはウザイか。
「キショーって、なんでここきたの? ここに来てる以上、絶対アレ見てんじゃん。何を見た?」
思ったより少し真剣なトーンで声をかけてきたので、思わず立ち止まって、ニトの方を振り返った。
なんで。なんで俺がここにいるのかは……。
「病気で死んだ祖母が、悲しみにくれる祖父の隣で泣いていたのを見た。そして、その祖母を連れていく、送迎者を見たから……だ」
そう言うと、ニトはジトッした目でよそを見て、ふぅんと言った。
「キショーって、自分のおばあちゃんみたいに、悲しみに昏れる迷い人を、あっちに連れてってあげることをやりがいとしてるタイプ?」
「……まぁ、そうなるな。抗えない死を終えた後に、さらに悲しむのは、辛いだろう」
「は〜、ほっんと真面目だねぇ」
ニトはそう言うと、俺を指さした。
「真面目なやつは、早死する。気をつけろ」
そう言い終わるなり、ニトは急に笑顔になって、腹減った、飯を食おうだのと言い出した。
本当にこの人は、掴みどころがない。