ハーモニカ 前編
不幸、とは何なのだろう。
世の中、悲劇を見ようと思えばキリが無く、深いも大きいも重いも、個人の尺度に委ねられる。バランスを取るように幸運が舞い込んでいる人だっているだろう。
そこまで考えて、少年は目の前の子に向き直る。
「僕はそうでも無いと思うんだけど。」
「なら、まずは靴と袖と頭を洗えよ。」
鳥の糞がくっついた帽子は後で洗うとして、自動車から跳ねた泥水とソフトクリームのこびり付いた袖はどうしようも無い。
帰ってからだね、と肩をすくめる少年に、隣を歩く彼は呆れた視線を向けた。
「なんで近くのコンビニ行くだけで、そんな事なんだよ。」
「さぁ? 僕が聞きたい。」
中学生が歩いて行ける程の距離なのだが、イベントに富んだ道中である。アイスを買おうと思っていたのだが、本人より先にシャツがご馳走になるほどに。
とりあえず、ソフトクリーム以外の物を食べようと決めて、目の前の幼子に手を伸ばす。
「ボク、大丈夫かな?」
「アイス……」
気持ちはわかるが、こっちの心配もして欲しい。
「ほら、お兄ちゃんがもう一個買ってあげるから。今度はぶつからないようにね。」
「うん! ありがとうお兄ちゃん!」
「現金な坊主……」
隣で呆れる友人と共に、アイスを物色していれば、事情を察した店員さんがソフトクリームを一つ、オマケしてくれた。喜んで走っていった子供がコケない事を願いつつ、国民的棒アイスを齧る。
「ソーダばっか飽きねぇの?」
「なんかイメージがさ。」
「まぁ、青いイメージはあるけど。」
というより、歩きながら食べるのに二個入りの大福アイスを選んだ友人の方が謎チョイスだと思われる。
一つもらい、と片方を口に放り込んだものの、噛んだ瞬間ガリと音がした。
「釘があった……パッケージに穴でも開いてなかった?」
「いや、見てないし。誰かのイタズラだろうけど……バチが当たったんじゃねぇの? 半分よこせ。」
残りのアイスを奪われたが、正直それどころでは無い。痛む口の中は、多分切っている。氷でも放り込んで冷やしておいた方が良さそうだ。
「ん? お前血が出てんじゃんかよ。」
「釘噛んだ訳だし……」
「少しは痛そうな顔しろよ!? ほら走るぞ、ほっとくとバイ菌入るっしょ!」
「口の中じゃ、どっちみち治療とか出来ないって。」
「冷やすくらい出来るだろ! 言ってくれりゃアイスも取んなかったのにさぁ!」
先に盗ったのは少年だと言うのに、親切なものだと友人を宥める。
ふと、意識が遠のいて登る。そして白いモヤに包まれるようにして薄れた現実感に、「今」を思い出す。
これが走馬灯というものだろうか、と思うのはかつて少年であった青年、那凪だ。
感情表現が苦手な訳では無い。しかし、どうにも心が動かない。そんな大人しい幼少期を過ごす彼の幼なじみは、対象的なまでに煩い奴だった。轟斗では呼びにくいと、ゴウと呼ばせていたのを覚えている。
幼稚園の頃からの腐れ縁。ちょうどこの頃からだったか、中学になり様々なグループと交流が増えた彼は、疎遠になりつつもなんだかんだと遊びに出かけていた。
あれ程の理解者はいなかっただろう。言葉にすれば、その全てを飲み込もうと努力してくれた。その言葉にする、というのが那凪には苦手だったが、それを待ってもくれた。
カッコつけたい時期だ、悪ガキ共と付き合いだしたものの、防犯思考と健康思考は強いままだった彼とは「なんか話す奴」程度になってきた。
校則なんかは平気で破るし、改造した制服やジャラ着いたピアスは横を歩くと目立つことこの上ない。那凪も髪を染めていたため、優等生といったタイプではなかったが、それでもどんな組み合わせなのだと好奇の目を引いた。
中学と言えば、もう一つ出会いがあった。孤立していた訳では無かったが、比較的一人で彷徨いていた那凪に声をかける人物。
それ自体は珍しくなかったが、話の内容は珍しかった。と言うより、ハーモニカを持ち歩く人物が珍しかった。
「やぁ、天野くん。さっそくだけどちょっと良い?」
マイペースで朗らか、サボり気味ではあるが成績は優秀、愛嬌のあるクラスメイトだった。確か、風峰……そう、響弥だ。
特に断る理由も無いと、彼に連れられて行ったのは放送室だった。何故? と思う間もなく渡されるマイク。重なるテイク、減っていくライク。
大して話したことは無かったが、既に嫌いになりそうになるほど歌った所で、彼はふと思い出したように言った。
「そうだ、言ってたっけ? 僕とバンドを組まない?」
「え……今言う?」
かすれた声でボヤく那凪に、彼は謝りながらもう一度手を差し出した。
「君の声、前から良いなって思ってたんだ。音楽はいい物だよ、きっと君の助けになる。ねぇ、歌を作ろうよ! とびっきりの、僕らの歌を!!」
なんと強引な、と思うしか無かった。だが、感じた事の無い情熱というものの燻りを、響弥に感じた気がした。
正直に言えば、ちょっと羨ましかった。幸い音楽は好きだし、彼に乗っかって見るのも面白い。少しは夢中になれたら、という期待もあった。
「それで、空いてるメンバーは?」
「そうだなぁ、シンガーは君がやるとして、やっぱりドラムやギターは欲しいよね。」
「……もしかして誰もいない?」
「僕がいるけど?」
「あぁ、うん……そうね。」
先行きは不安だった。
再びの浮遊感、現実に戻ってくる感覚。しかし、目覚めた訳では無い。見ているこれが「現在」では無いと気づくだけだ。
行動力があり、周囲の良さを見つける力に長けた優しい少年。少し抜けている所と、ちょっとした奇行はあるものの、愛嬌の範疇。子供時代のリーダーとしては良い旗印で、ちょっとした人気者。
そんな彼が動くなら、他のメンツも直に集まるかと構えていれば、予想は大きく外れた。
というのも、彼がずば抜けて上手かった。そこに並んで、作曲編曲を収録し、配信する。プライドが傷つく者や気後れする者が多かったのだろう。
それに自分も拍車をかけていたのは、まぁ自覚している。
余裕とも取れる飄々とした態度で、少しタレた目を向けて歌う姿は色気さえ感じる。彼の評価が間違っていないのは、周囲を見れば何となく理解出来た。
何人かの女生徒が寄ってきたものの、音楽を理解しているとは言い難く、響弥が嫌な顔をするので丁重に断らせて貰った。
「君の泣きぼくろ消せない?」
「それ関係あるの?」
「だって、この雰囲気だとバンドしてくれそうな人集まらないよ……」
半分位は君目当てだ唐変木、と流石にそれを言う気にはならない。言った所で何か変わる訳でもない。
それよりもメンバーを集める事だ。二人だけでも曲を作ることは出来る。一人何役もして録音し、合成するのだ。ひたすらに体力を奪われ、演っている時には音楽は聞こえない。モチベーションやインスピレーションとやらが遠ざかるのだ。
ただ、編集し終えた音源を聞いた時。なんとも言えない高揚感が胸を打ったのは事実だった。それを彼に伝えれば、嬉しそうに言ったものだ。
「音楽っていうのは、抽象的でダイレクトな言語なんだよ。だから、心をぶつけるのに最高なんだ。那凪くんでさえ把握できてない那凪くんが、聞こえているのかもね。」
自分の知らない自分。彼はそんな事を考えていたのか、と驚くと同時にもっと知りたいと思った。
彼を、自分を、音楽を通じて。言葉を通じて。そして、ふと思いついたのだ。知りたいし、知って欲しい人を。腐れ縁のお人好しを。
彼等が屯しているのは、大概校舎裏の物置近く。半分私物化されたそこに、色々と持ち寄って時間を潰している。
煙草の煙に顔を顰めながら、床に落ちたグラビア雑誌を机に戻して那凪は後輩と思わしき者に問う。
「やぁ、失礼。君の先輩に会いに来たんだけど。」
「はぁ? 誰っスかアンタ。」
「那凪って言ってくれたら伝わると思うよ。」
「あぁ、アンタがツイてないって言う……テキトーにその辺座っててください、雷田先輩、呼んでくんで。」
「あ、うん……」
なんで、そんな知られ方をしているんだ。分かりきった答えを聞くための質問が喉までせり上るが、飲み下す。
その辺、と言われてもキャンプ用の椅子には灰皿があるし、床しかスペースがない。片付けろよ、内心で毒づきながら机に腰掛けて待つ。
「よぅ、那凪ん。お前から来るなんて珍しくね?」
「ちょっとお誘いをね。」
「なに? ゲーセン?」
「よりも面白いかも。ゴウ、モテたいからってギター始めたじゃん?」
「なんで過去形なんだよ。今も続けてるんだぜ、これでも!」
「それ、披露する場所があるとしたら?」
「俺のエレキだぞ?」
「もってこいだよ。」
怪訝な顔をする彼は、音楽の授業でのアコースティックでも思い浮かべたのだろう。確かに、今までの那凪とバンド活動はあまり結びつかない。どちらかと言うならクラシックを好んでいた気がする。
「ロックな世界って奴を、さ。一緒にどう?」
「最近は会ってなかったけどよ……変わったな、お前さん。」
「嫌?」
「まっさか。最高!」
ニヤリと口角を上げた彼が、肩を組んでくる。相変わらず馴れ馴れしいな、と思うが嫌な気はしない。
「なぁんか鬱屈としてたしさ、今のお前はちとハレバレって感じ! 悪くねぇんじゃねぇの?」
「君のおかげだよ。」
この底抜けに明るい奴がいなくては、もう少し心の壁は厚かっただろう。そうすれば、音楽を感じる、なんて事は無かったかもしれない。聞こえてくる音に、感情を聞くことは無かったかもしれない。
「でも、僕のこと鬱屈としたなんていうの、君くらいだけどね。」
「隠してる自覚あるのか知らないけど、お前マジで本音弱音出さねぇモンよ。気づけるの俺くらいジャン?」
「はいはい、ありがとさん。」
「照れた?」
「さぁね。」
一人、確保。どちらかと言えば優等生なキーボードと、チャラついたギター。だがお人好しで距離が近い明るい奴ら。良い音になりそうだ、と浮ついた心地が足音に現れるようだった。
再び浮いていく。この頃は楽しかった。無論、今までの人生だって面白おかしく生きてきたが、冷めたような褪せたような心地は拭えなかった。
それが今は熱がある。強い情熱を持った存在から、確かに伝わる熱が。自分にもこんな一面があるのかと、嬉しかった日々。
だが、こんなのは序の口だった。自分の醜いとまで言える執着心を知る事になる初めの出会い、中三の夏、長期休みに入る二週間前の事だった。
「転校生?」
「うん、この時期には珍しいけど。」
長期休暇の前に、という事は。焦りを感じているのだろうか? 大抵は、準備期間を取りたいものだと思うし、数週間で馴染むとも思えない。
というより、受験シーズンに学校を移るのが信じられない。内申にも響くだろうし、義務教育はあと一年経たずで終わるというのに。
「僕のクラスじゃないって。那凪くんのクラスだよ? 」
「何処でそんな情報仕入れるのさ……」
「職員室かなぁ。」
キーボードの電源を入れながら、那凪の問に答える彼の底が知れない。自分の耳も広い方だと思っているが、彼には敵わない気がする。
「大事なのは、女子かどうかって所だな。」
「そこ気にするの、轟斗くんだけだと思う。」
「うるせぇ! このモテモテイケメン共!」
「え? 僕も?」
「那凪んと違って、自覚無いと余計に腹立つな。」
ギターの弦を調整する彼の怨嗟は止まらない。彼もルックスは悪く無いのだが、節操のない態度がダメなのだろうか。中高生には敬遠される感情に違いない。
とはいえ、彼を責めるのはお門違いか。可愛ければ誰でも良い、とは至ってありふれた感情ではあるだろう。普通は隠すだろうが。
そんな事よりも、とスピーカーへと繋げたマイクを叩き、音の確認をした那凪が振り返る。
「ど〜すんの、今回の曲。」
「やっぱりベースかドラム欲しいね……」
キーボードでリズム隊の音も取っているため、かなりの無茶をしている。
ボーカルに集中したい那凪、リズム感が薄い轟斗、体力が無い響弥。ベースなら体力も持つのではと思われたのだが、弦楽器が軒並み下手くそだった。ギターもベースも出来ないとは、一人でバンドをやらない訳である。
「ちゅーか、アレだろ。キーボードでいっそリズムだけ取っちまえば? 俺のギターだけでも、彩りに欠ける事は無いんじゃね?」
「まず君は、コーラスの音もう少し下げなよ。後半、息が上がってるから少し高いんだ。」
「那凪んが言うなら、そうなんだろ〜けど……」
絶対音感。真っ先に那凪が声をかけられた理由だろう。自分が歌いながらも、周りの音を聴き分けている彼が、調整の要だったりする。
「ま、もう一回やってみようよ。難しくはあるけど、何度もやればリズムも身体に刻まれてくるよ。」
「というか変調を無くしたいんだけど!」
「最初に決めたチャレンジテーマを頭から否定しないでくれる?」
「ちくしょー! 見とけよ、次は決めてやっからよぉ!」
ジャーン、と轟いた音色を合図に、次のテイクが始まる。