レター 後編
スライスしたリンゴと共に焼き上げたフレンチトーストを盛り付け、テレビをつけて夜食を頂く。
正直、この時間の甘いものは罪な気がするが、それは思考から追い出しておく。明日の自分が頑張る事で、今の自分がするべき事は無い。無いことにする。
「美味しいなぁ。」
「もう一枚くらい焼けば良かったね。」
「太るんじゃないかな。」
「あーあー、聞〜こ〜え〜な〜い!」
深夜番組のゲスト達の笑い声と共に、白詰の笑顔が漏れる。
ただのなんて事無いじゃれ合いだが、それがこんなにも楽しい。急に生活圏内に現れた兄妹に馴染むのは時間がかかり、こうしてふざけ会えているのは最近の事だ。
「白詰兄ぃのお受験は? 大丈夫そ?」
「うーん、どうだろう。学歴も職歴も無いもんだから、結構いい点数取らないと難しそうだと思う。」
「高卒何とか試験受かってなかったっけ?」
「高等学校卒業程度認定試験ね。去年受かったばっかりだから、まだ色々覚えてはいるけど……そろそろ疲れたなぁって。」
「あぁ、まぁ……」
彼の性格上、数年で詰め込むような忙しない学習は向かなかっただろう。それでも合格に漕ぎ着けたのは、それだけ本気だったから。
簡単な漢字や、足し算引き算をやっていた筈なのに、大学目指しての勉強が始まったのだ。四穂なら途中で投げ出していそうである。
「う〜、休みたい……」
「誰も休んじゃダメなんて言ってないよ?」
「そうなんだけど、十年以上も休んでたし……」
「入院生活を休むとは言わないと思うけど。」
一番焦っているのが、他でもない本人なのだろう。お兄ちゃんになるんだと言われて、楽しみにしていたらしいので、兄らしい事をしたい、と思っているのかもしれない。
なんだかんだと四穂が教える事が多かったので、それも原因なのだろうか。だとすれば、少し責任を感じざるを得ない。事務所の扉を叩いた事も、多少は影響していそう、というのもある。
「じゃあさ、保護者として遊びに連れてってよ。」
「て言っても、何処に?」
「ん〜、遊園地とか?」
「体力持つかなぁ……」
なんとも心もとない返事だが、行ってくれる気はあるらしい。気晴らしになればと思ったのだが、疲れを貯めてしまいそうだ。
鬱屈とするよりは良いだろうと、頭の中で計画を立てている四穂が、最後の一切れを口に含んで立ち上がる。
「洗っちゃうから貸して。」
「洗い物くらい僕がするよ。」
「そう? じゃあ、お願いしちゃおっかな。」
落として割らないかな、などと失礼な事を考えながら頼むと、机の上を片付けていく。簡単に布巾で拭くと、テレビを消して寝る支度を始める。
寝巻きに着替えた頃に、手を拭きながらキッチンから出てきた兄がコップを渡してくる。
「今日、遅かったんでしょ。はい、ホットミルク。」
「ありがと〜。」
ほのかに甘い暖かさを飲み下せば、喉から胸へ、お腹へとゆっくりと温まる。結構、体が冷えていたみたいだ。シャワーで済まさずにお風呂に入れば良かったか。
二人でゆっくりと飲み干し、体が温まってからコップを水に漬けに行く。洗うのは明日でも十分だ。
「あ、白詰兄ぃ髭ついてる。」
「四穂もね。」
「え、嘘! ボクも?」
グシリと口元を拭う四穂に、ハンカチで拭き取る白詰。性格が出る行動に、二人で顔を見合わせて、どちらともなく笑い出す。
そうだ、こういう物だった。こういう穏やかな幸せが欲しくて、届けたくて、夢を見たんだった。あの人に追いつきたいと思ったんだった。
「ねぇ、白詰兄ぃ。」
「ん?」
「ちょっと頑張りすぎてたかもね、ボク達二人とも。追いかけてたものをさ、勝手に大きく遠くしちゃってさ。」
「そうかな?」
「分かんないけど、かもなぁって。」
「そっかぁ。」
ゆるゆるとした雰囲気だが、二人とも真面目な表情でシンクの中のコップを見つめる。
水をいっぱいに湛えた器が、その端から一筋零していく。蛇口を閉めた数秒後、表面張力が勝って流れ出る水は無くなった。
「程々にしないとさ、終わんないもん。次の無い目標なんて、つまんない。」
「そう、だね。次かぁ……四穂は偉いな。」
「んぇ? 何が?」
「僕は大学行って、いい所に就職して、今までいっぱい迷惑かけた分取り戻すんだって、それしか考えてなかったから。でも、それだけじゃ父さんも母さんも四穂も、心配なままだよね。」
「迷惑とは感じてないと思うけど……そうだね、白詰兄ぃには幸せになった欲しいよ?」
「四穂もね。」
小さな子供にやるみたいに、優しく髪を梳かれる。とっくに父よりも高くなった兄から見たら、四穂は幼く見えるのかもしれない。あの入院生活の何処にそれだけの栄養が、と思わなくもないが。
心地よい感触に頭を揺らしていた彼女から、スっと手が離れる。見上げる彼の顔は、幾分か晴れやかであるように見えるのは、自分の希望的観測という奴だろうか、と四穂の胸中に僅かな期待と諦めが共に歩いた。
「それじゃ、もう寝ようか。夜食ありがとう、美味しかったよ。」
「うん、お粗末サマ! おやすみ白詰兄ぃ。」
「あぁ、おやすみなさい。」
それぞれ二階の自室に別れ、閉まる扉の音を聞く。一人になり、ベッドに転がれば直に瞼が重くなってきた。
思った以上に疲れていたのかもしれない。そんな事を思いながら、四穂は微睡みに溺れていった。
カーテンから差し込む光に目が覚める。目覚ましはならなかったのかと時計を見れば、07:19とデジタル表記が光っていた。
「わぁ……結構な寝坊……」
ぼんやりとした頭で思い返せば、今日は休日。事務所に行けば誰かいるかもしれないが、特に集まる予定は無かった筈だ。学校も休み、仕事もない、となれば焦ることは無い。
久しぶりに二度寝でもしようと頭から布団を被るが、眠気が来ない。仕方なくベッドからおり、着替えてから洗面台へ行く。洗顔料を買い足さないとな〜と考えながら顔を洗い、ヘアブラシとドライヤーで寝癖を直していると違和感を覚えた。
「あれ……誰もいない?」
この時間、早起きな華二宮家ではとっくに朝食は終わってリビングに皆が居ると思うのだが。テレビの音も洗い物の音もせず、父が仕事に行く音もしない。
「おっかしいなぁ……パパの休み、明日だったと思うんだけど。」
リビングへの扉を開ければ、案の定というべきか、無人の空間が広がっている。
何故だろう、そう思う間もなく日が沈み、辺りに暗闇が訪れる。夕刻まで寝ていたのだろうか? だとしても寝静まるには早い時間だ。
「ママ〜? パパ〜……?」
返事は無い。この時間なら勉強している兄が自室にいるかもしれない。そう思って引き返そうと走るが、身体が前に進まない。すぐ側の扉へ、手が届かない。
なんだか息苦しい。どんどんと暗くなる周囲は、その限度を知らずに暗闇を招く。ついには何も見えなくなり、身体が重く、冷えていく。
声が出ない、息が出来ない、ついには足が浮く。いや、沈んでいるのだ。暗く冷たい水の中で、藻掻くことしか出来ない。
何も見えない、聞こえない。上にいかないといけないと思うのに、上が分からない。
何も出来ず、無力な自分に死が迫る。意識を手放したいのに、目を閉じたいのに、耳を塞ぎたいのに、それさえも叶わない。
『手を出して、主様。ほぅら、出来るから。』
聞こえた声に、手を伸ばす。藁にも縋る思いに応えたのは、藍色と桜色の反射を纏う、頼りになる手。
急に訪れる加速感とともに、目の前に灯りが光る。紅い彗星のようなそれを追いかければ、炎が水を追っ払った。金色の煌めきが散る中、水面に立つ。
『さぁ、主様。次は貴女が手を取る番。しっかり差し伸べてあげて。』
「待って!」
後ろからの声に振り替える瞬間、強い浮遊感と共に視界が暗転し……
「……っは!」
空になった肺に一瞬で空気が満ち、覚醒した意識が汗の滲んだ不快感を教えてくれる。
煩いアラームを八つ当たり気味に止めて、目を閉じる。もう、さっきの続きは見えない。目が覚めればなんて事はない、いつもの夢……だったものだ。あのまま溺れていく、そんな夢。
「心臓が煩くない、身体も強ばってない……出来れば汗もかく前に助けてくれても良いんだけどナァ。」
ワガママだと自覚しながら、そんな事を口に出す。自然、上がる口角を抑えながら、シャワーでも浴びようと下へ降りる。
何時もの時間、何時もの風景。この時期だとまだ薄暗い時間だが、母が料理を作り父が食器を並べる何時もの光景……白詰が寝坊助なのも相変わらずらしい。
「おはよう〜。」
「四穂、おはよう。」
「あら、また汗が凄いじゃない。流してきたら?」
「うん、そのつもり。タオルは?」
「まだ掛けて無い。持ってきなさい。」
「はーい。」
洗い流し、サッパリした顔に化粧水を馴染ませながら、髪を乾かす。寝癖も直ったので一石二鳥だ。
忘れた下着を取りに自室に戻り、着替えてから朝食を取りに戻る。その頃には寝癖が芸術的な白詰も、船を漕ぎながら席に着いていた。
「おはよ。」
「んぅ? あ、うん。おはよぉ……」
四人揃っての食卓。すっかり慣れてきた日常に、何気ない会話が広がりながら時間が過ぎていく。
父が仕事へ出かけ、兄が部屋へ戻り、母が買い物に出かける。8:00にもなれば、リビングに残っているのは四穂だけになった。
「ん〜……ボクも出掛けよっかな……」
昨日、あれだけドタバタとやったので、事務所に向かうのもなんとなく気が引ける。せっかくの日曜に素人の後始末をさせては申し訳ない。
兄にも満足いくまでは集中して欲しいので、家に残るのも気が引ける。とりあえず、近場を歩いて目的地を決めればいいかと、散策にでも出かける事にする。
「おぉ、いい天気。白詰兄ぃも出かければいいのに……」
雲ひとつない晴天。道行く人の三人に二人はマスクに眼鏡で憎たらしそうに空を見上げているが、生憎と杉の木はその方向には無いだろう。
日曜だと言うのにスーツ姿で駅に向かう人に、心の中でエールを送りながら散策していると公園でブランコを漕ぐ少女を発見する。
この時間に一人と言うのも珍しいが、黒いセーラー服を纏うその子の年は、ブランコを漕いではしゃぐようには見えない。
「おはよう、隣いいかな。」
「……お姉さん、ダレ?」
「ん〜、知らない人? 着いてっちゃダメだよ?」
「ナニソレ、へんなの。」
少し笑った少女は、一度大きく地面を蹴ると長いストロークで揺れ始める。
「なんで、アタシに声掛けよ〜なんて思ったの?」
「黙ってるの、辛そうだったからかな〜。ボクもそんな気分の時、あるし。」
「ボク? おにーさん?」
「おねーさんで合ってるよ。そんなに男の子チックじゃないでしょ?」
「イケメンならお姉さんくらい、化けれそう。」
「キミ、結構失礼だね……」
「へへっ! かもね!」
前へと漕いだ反動で跳び、クルリと振り返って彼女が笑う。
「残念だけど、そんなすぐに何でも話してあげちゃうよーな子じゃないから、アタシ。」
「すぐじゃなかったら良いんだ?」
「明日もここに来たら良いかもね、ガッコーあるから夜だけど。会えないなら手紙でも置いとけば?」
「いーよ、約束。ボク、ルールとか服は破るけど約束だけは破った事ないんだ。」
「へへっ! ほんっと、変なお姉さん。」
公園を出ようとする彼女は、すこし晴れやかな顔をしている気もする。自分に出来る事、精一杯。これもその一つに出来るのだろうか?
「そうだ、お姉さん名前は?」
「え?」
「アタシさ、人の顔覚えるの苦手なんだよね。だから名前で確認。偽名でも良いよ?」
「ボクは四穂。華二宮 四穂ちゃん、十八歳! 君と友達になりたい女の子だよ。」
「何その自己紹介、アイドルかよ。アタシは……」
笑った彼女は少し躊躇った後に、目をしっかりと合わせてから告げる。
「アタシはサキ、柏陽 彩季だ……多分な。」
ニッと笑って誤魔化した彼女は、可愛らしい便箋を一束、投げてよこした。それを四穂が取るか取らないかのうちに、「じゃーな!」と駆け出してしまう。
「この便箋、要るんじゃ……良いのかな。」
とりあえず、替えのレターセットは手紙と一緒に置いておこうと決意する。可愛いのを買いに行こうと、ブランコから腰をあげる。
自分の感じることの出来た幸せを、皆にも。でも、それは出来ないから。
(手の届く人にくらい、ちゃんと手を伸ばさないとね。キミもそう思うでしょ?)
見上げた青空には、フワフワ漂う泡ばかり。相棒が見届けてくれていると信じて、デパートに足を向ける彼女の自信に満ちた姿。
それが、五年前に憧れたヒーローに似ていた事は、彼女が知る事は無かった。
その後、近くの子が吹いていたシャボン玉が、弾けて目に入ることも知る由はなかった