エレベーターの「閉」ボタンがすり減っていた
スマホを見ると時間は12:47だった。
いつもより余裕を持ってオフィスの入ったビルに帰ってこられた事にちょっと嬉しくなる。牛丼屋で昼飯をかきこみ、ドリップコーヒーを淹れるいつものコンビニもすいていたからだな。今日はどうやらラッキーな日のようだ。
手に持った紙コップのコーヒーの温みを感じながら、オフィスの自分の席でゆっくり味わおうと思い到着したエレベーターに乗り込む。
なんとエレベーターには俺一人だった。
これは嬉しい。目的階まで持ち上げられる間、息苦しい狭い空間を無言で誰かと分け合う事もない。ますますのラッキーに心までが温かくなった気がした。
「閉」ボタンを押そうとして、ふと気づく。
ボタンが酷くすり減り、「閉」の文字がかすれている。
なんとなくその横の「開」ボタンに目をやると、新品のように綺麗だった。
俺は0.8秒くらい思いを馳せる。おそらく同じ工場から、同じ時期に作られたふたつの部品、「閉」と「開」。それなのに今はふたつの差は歴然だ。
なんと哀れだろう。
酷使され、くたびれすり減った「閉」の哀れ。
その場に確かにあるのに、あまりにも使用されない「開」の哀れ。
このオフィスビルで働いている全員が「開」を押す余裕もなく「閉」ばかり急いで押しているという事実の哀れ。
このボタンには哀しみしか存在していない。
せめて、今この瞬間。昼休みのほんの少しの余裕、ほんの少しの心の温みを持っている俺だけは。
俺はボタンを押さずに自然とエレベーターが閉まるのを待った。
目線を斜め下のボタンから上げて、真っすぐに前を見る。
と、遠くから見慣れたシルエットの人間がこちらに向かって早足で来るのがわかった。
……やばい。アレは山田課長だ。
アイツと一緒のエレベーターにふたりきりで乗ってみろ。たった1~2分の間に嫌味をぐちぐちと言われ、昼休みで得た安息を潰されるだけじゃなくオマケがつくぐらいメンタルをやられるに違いない。
俺は課長から顔が見えないようにサッと壁側に寄って高速で「閉」ボタンを連打した。
ドアが閉まりかける事に気づいた山田課長が早足から小走りになりながら「おーい」と声をかけてくる。俺はもちろん聞こえないふりをして顔をそむけ「閉」を押し続ける。どうか俺だと気づきませんように。
課長がエレベーターに到達するまでの数秒前、まさに間一髪。ドアが閉まり、安寧のひとり空間を手に入れた俺は「閉」ボタンを眺める。
今、俺が連打した事で更にくたびれたようなボタンに感じたのは哀れみではなく、一緒に歴戦をくぐりぬけ生還した末に産まれた友情のようなものだ―――――
―――――と、突然すうっとドアが開いた。そこには鬼のような形相で息を荒くしている山田課長。
何故。……何故だ!?
「あ? おい田中、お前さっきドアを閉めなかったか?」
「ふぇっ!? な、なんの事ですか?」
「まぁいい……あっ、おい、ボタン押してないじゃないか。早く9階を押せよ」
「あ」
乗り込んだ時は心に余裕を持ちすぎて、そして課長を見てからは焦りすぎて階数ボタンを押していなかったのか。そりゃドアを閉めたところで向こう側から「▲」ボタンを押せば開くわけだ。
「お前さぁ、どっか抜けてるんだよなぁ。そういう詰めが甘いところが結果を残せない原因だろ。だいたい先週だって……」
ふわりと浮き上がる狭い箱の中、ふたりきりの空間で山田課長のぐちぐちとした嫌味が始まる。俺のメンタルはガリガリとすり減らされた。
それはもう、目線の斜め下にある「閉」ボタンなんて目じゃないくらい。
お読み頂き、ありがとうございました!
↓のランキングタグスペース(広告の更に下)に「5分前後でサクッと読めるやつシリーズ」のリンクバナーを置いています。もしよろしければそちらもよろしくお願い致します。