夕闇亭の猫
規則的に鳴る車輪の音に耳を傾けつつ、ユウキは窓の外を眺めていた。黒い縁取りの長細い窓の外は赤く染まり、ちぎれ雲が田舎と都会の狭間にある街に陰影をつけていた。
日が短くなったな、と何度目か分からない感想を胸の内に呟き、ユウキは窓から顔を離した。
蛍光灯の明るさと外の薄暗さが窓を鏡にする。
顔にこびりつき剥がせなくなった薄笑い。遊ばせた毛先に学生の頃ほどの熱意はない。張りのなさだけは肌に顕れている。人生において最も充実しているのは、母の胎内にいるときなのではないか。
くたびれた男の向こうに透ける風景の流速が落ち、止まった。
気の抜ける音をきっかけユウキは振り向く。後ろに立っても顔をあげようとすらしない学生の脇を抜け、乗り込もうとしていた人々に手刀を切り、一度だけ左を見て、つま先を右方の階段に向けた。
バラバラの服装にバラバラの足音。子供の頃はそう思っていた。電車で学校に通うようになり、行くのを渋りだし、諦めて通勤しはじめたとき気づいた。
数種類のパターンしかなく、ユウキ自身もその一部だと。
改札にパスを叩きつけ駅舎を出る。暗くなっていた。スマホを見やり、商店街に寄ることにした。
夕飯を作る気力がない。妙な名前の遅くまでやってる肉屋で余りの揚げ物でも買って晩飯にしよう。ついでにコンビニで朝食用シーチキンも補充する。
ユウキは三円のビニール袋にコロッケの紙包みも放り込み、通りを抜け――ようかというとき、ふと横を向いた。
ショウケースに価値の認められない版画や茶器が収まっている。脇には足の長い古びた電灯。『変えのランプシェイドあります』のポストイット。
「替え、な」
いつも気になる夕闇亭。扉の、光を淡く通す曇硝子が取っ手の高さで横一線に途切れている。覗き窓がわりにすると、猫がカウンターに寝そべっている。種類は分からない。青く、いつもこちらを見ている。手を振っても反応はしない。
カサ、とビニール袋を揺らし、ユウキはなんとはなしに入店した。初めてだった。
「こんにちは」
猫に嗄れた声で話しかけられ、ユウキは思わず背筋を伸ばした。
「なにか欲しいものはありましたか」
声は、カウンターの奥から聞こえる。近づくと、背中の曲がった老婆が虚ろな目をして座っていた。
内心で胸を撫で下ろし、ユウキはしばし考えて言った。
「夕闇、とか」
冗談だった。
「じゃあ、そのシーチキンをひとつ」
予想外の返答。
ユウキは、試しにツナ缶のパックをカウンターに置いた。古びた天板が乾ききった音を立てた。老婆は三缶一連なりのツナを見ようともしない。
「三つ分ですか?」
唇は動いていない。まるで腹話術だ。
俺もそのうちにこう喋るようになるのだろうかと思いつつ、ユウキは瞬く。
「一缶、かな」
朝食分は残す。二つ渡してもいいが、また明日コンビニに寄るのは億劫だった。
老婆が言った。
「手が不自由で」
「あ。すいません、気が付かなくて」
ユウキは薄笑いを引っ込めパックに爪を立てた。
「缶も」
「あ、はい」
いま食べる気だろうか。訝しみつつ銀環を起こすとペクンと鳴った。手元に視線。老婆は虚ろに足元を見ている、一方で、
猫が、夕闇色の瞳孔を広げ缶詰に向けている。
ユウキは寒気をおぼえ手を引いた。
猫が、ユウキを見上げた。
「えと……」
猫と老婆を見比べるも返答はない。ユウキは恐々と手を伸ばし、蓋をすっかり開けて猫の前に押しやる。
猫が、首を垂れ、貪りだした。
ユウキは襟元のボタンを外した。急に店内の空気が湿り気を帯びてきた。
「あ、あの……猫にツナ缶は――」
「大丈夫です」
「は?」
「猫ではないので、大丈夫です」
猫じゃない? とユウキが視線を落とすと、『それ』がユウキを見上げていた。目が合うとすぐ食事を再開した。
「……皿にあけたほうがよくないですか? 缶の縁でベロ切っちゃうかも」
「そこまで不器用ではありません」
「……そうですか」
ユウキは喉を鳴らし、店内を見回す。南洋を思わせる装飾過多の置物や、真鍮の蜥蜴が絡みつくアールヌーヴォー風の写真立てや、埃まみれの市松人形などがあった。小さな着物は日に焼けて色褪せている。
向き直ると、ちょうど『それ』が夕食を終えたところだった。
「では私の目を見てください」
「……目、ですか?」
ユウキは左右に首を振り、その場に屈んだ。老婆の目はカウンターの下を見つめており、視線が合いそうにない。
「『そちら』ではなく『私』のほうです」
「は?」
視線。夕闇色の眼差し。猫――ではないならしい何か。
長い沈黙があった。
そういうことか、とユウキは苦笑した。
「面白かったよ。ありがとう」
苛立ち紛れに礼を言い、ユウキはため息をつきつつ背を向ける、と。
「返品できませんので」
嗄れ声が聞こえた。はいはいと手を振り店を出た。
やられたよ。と、ユウキは強張った背筋を伸ばし、
「……え?」
絶句した。
空を染めゆく青紫を押し返さんと、橙色が大きくうねっていた。
陽は、とうに落ちたはずなのに。
夕闇色の空と手元のコンビニ袋を見比べ、ユウキは微笑した。肩越しに振り向き、腰を折り曲げ、覗き窓のように細い透き通る硝子の向こうを見た。
カウンターに寝そべり、猫ではないらしい何かがこちらを見ている。口を開き、牙を舐めた。足元に空き缶。コンビニ生まれの割高なツナの三分の一。悪くない選択だったとユウキは思う。
暦どおりなら、まだ見られない空。
秋の訪れを知らせる夕闇の空は好きだ。
決して濁らない夕日と宵闇のせめぎあいが、宇宙の一端を垣間見せる。
広大な地表の一点を無目的に彷徨く矮小な虫が、宇宙を知った途端に特別な何かになれたような気がするのだ。
目に見えぬ微細な塵芥は、星すらも塵だと知った瞬間、高次の存在に変じる。
たとえエレベータの狭い箱のなかにいても、蒸し暑いアパートの一室に暮らしていても、安いマットレスの上で薄いタオルケットに包まれ眠っているとしても――、
「……夢か?」
ユウキはレースカーテン越しの夏空に息をついた。頭を掻きながらビニール袋を手繰り寄せ、
「……夢ではないのか」
たしかめるように口にした。朝食を平らげ、身だしなみをし、灼熱に踏み出る。
昨日までの徒労感はなかった。夕闇を見て自身の大きさを知覚できたからかもしれない――いや、幻覚か。
なにやら、通りすがりに視線を感じる気がするから、そのせいだろう。
ユウキは電車のドア窓に寄り添った。
今日も夕闇色の空を見られるだろうか。もし見られなかったら、ツナ缶をもってあの店に行こうか。
硝子に薄ぼんやりと顔が映っていた。口元の薄ら笑いに人工的な匂いはない。
何度目かの気の抜けた音のあと、
「――あ、ユウキさん。おはようございます」
振り向くと、いつも疲れていたが最近は特にくたびれた顔になってきた同僚の女がいた。驚いたように瞬き、じっとユウキの顔――いや、目を見ている。
「……何か?」
「え? あ、いえ!」
女は頬を染めて目を逸らした。
「あの、出勤のときは、お洒落をなさるんだなって……」
「お洒落?」
「カラコン……ですよね?」
「カラコン?」
つまり、カラーコンタクト?
ユウキは車窓を見た。外の明るさで瞳までは視認できない。スマホの黒い液晶でも色は不明だ。同僚の女が怪訝そうに手鏡を出した。
「使います?」
「あ。ありがとうございます」
鏡を覗くと、
「は?」
目が――正確には、瞳孔が、猫のように細くなっていた。
そして、その細い黒線を境に、右が橙、左は青紫に、夕闇の空を成していた。
夕闇色の空は、この奇妙な虹彩が生み出したのだろうか。
ゴン、とユウキは電車のドアに額を打ちつけた。そんなバカなと思うが、しかし、現に瞳が夕闇色に輝いている。
「変えられた……」
「……は?」
同僚の女は、当然ながら冗談と思ったのだろう。ユウキ自身の影が車窓を汚れた鏡に変え、女の苦しげな愛想笑いを映していた。
ユウキの口元の薄ら笑いが、急に出来損ないになった。
「まあツナ缶一つ分ですし、明日には戻りますよ。きっと」
ちょっと寂しい気もするが。
――そんなのは、一日目だからの感想だった。
瞳孔は猫のまま戻らず、空は夕闇色がつづいた。それだけでなく、奇妙な存在が見えるようになった。大抵は壁や床や天井に突然いた。白い体表に極彩色の螺旋を蠢かせる何か。人形もあれば、蜘蛛のようなときもあった。夕暮れが近づくと増え、見ているのに気づかれると近づいて来さえした。
そして。
「だ、大丈夫ですか?」
ふたたび、帰りの電車で出くわした同僚の女の気遣わしげな声に、ユウキはやつれた顔をあげた。笑う気力はなかった。
「……あんまり大丈夫じゃないんで、返品します」
「へ、返品?」
ああ、とユウキは頷いた。
「夕闇亭ってところで買ったんで、そこに」
「えと……本当に大丈夫ですか? もしよかったら、私も一緒に――」
「いえいえ、単に猫をドヤしつけてやるだけですから」
「……猫? ですか?」
女が喉を鳴らした。
「あの、やっぱり心配ですから――明日! 明日、一緒に行きましょう!」
やけに真剣な声で言われ、結局ユウキはメッセージアプリのIDを交換させられた。嬉しいような悲しいような。ただ、待つ気はなかった。
――夕闇色の空が、時折、瞬きするようになっていたから――。
ユウキは祈るような思いで夕闇色の商店街を歩いた。コンビニで三缶一連なりのツナを買い、価値の認められない小物が並ぶショウケースの前で足を止める。
上下二枚の曇ガラスの、取っ手の高さのところだけ透ける硝子を覗き、カウンターに寝そべる『それ』の様子を窺った。白と黒の、人の目をしていた。
「お前が、俺の目を取ったのか」
呟き、ユウキは店に入った。足早にカウンターのに近づき、乱暴にツナ缶のパックを置いた。
「返品だ」
「……返品はできないと申したはずですが」
相変わらず、声は俯く老婆から聞こえ、『それ』がユウキを見上げていた。
「いいや。やってもらう。ツナ缶、三つ全部くれやる。戻せ」
ユウキは缶の蓋を全部あけ、『それ』の前に並べた。
「返せ。俺の目を返せ! うんざりだ! あんな気味の悪いもの見たくない!」
「夕闇を望まれたのは、あなた自身ですが……見たくないというのなら、ツナ缶三つ分、叶えさせていただきましょう」
老婆が言い、猫らしき何かがが首を垂れた。
ユウキは咄嗟にその首を掴んだ。
「――待て。騙されるところだ。見たくない、でツナ三つ? その手に乗るか」
「誤解ですよ」
それは窮屈そうに、くぁ、と口を開いた。
「ツナ缶ひとつですから、すぐに終わっただけです」
「……何?」
「夕闇にはご満足いただけなかったのですか?」
――。
ユウキは、ぱっ、とそれの首から手を離した。一瞬。一日。あるいは夕食の時間分。充足感はあった。
瞬くユウキの目を覗き、それは言った。
「私はお望みの物を提供した」
「……余計なものまでついてきたけどな」
「では次は余計な物を見ぬように。人生で最も充実している時を。どうでしょうか」
「……余計なものはナシだ」
「もちろんです」
「……食べろ」
「お待ちを」
言って、それはツナ缶を食べだした。一つ。また一つ。三つ目に差し掛かったときポケットでスマホが震えた。同僚の女からのメッセージだった。
――いまドコですか?
それが猫めいた声をあげた。思わず目をやると老婆が、
「では私の目を覗いてください」
と言った。疲れた人のような目と、ユウキの視線が交錯した。
新しいメッセージが届いた。
――一人で行かないでくださいね?
スマホをしまい踵を返した。
猫は老婆に顔を向けて一鳴きした。
老婆の視線の先の、カウンター下に置かれたブラウン管モニターに、夕闇亭の扉が開く様子が写っていた。映像が揺れて上向いた。
空だ。
すっかり暗くなっていた。