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ロマン・トゥルダ  作者: トグサマリ
【終章】
7/7



 気がつくと、レーナはきらびやかな場所に倒れていた。

 頬が触れても冷たくはない磨きあげられた真っ白な床。林立する黄金の柱。天井がないかわりの間近な空。

 目の前にはひな壇があり、最上部の豪奢な椅子に、ひとりの美しい青年が端然と腰をかけていた。

「目が覚めたか」

 どこかで聞いた声だった。頭の中を探ってすぐ、思い当たるものがあった。

(あのときの……?)

 ヨアンの姿が消える直前に聞いた声。

「あなたは」

 レーナの頭の中に、ひとつの言葉が浮かんだ。聞いたこともなければ見たこともない言葉。なのに、目の前の青年のことだと、何故か判っていた。

「ロジェ神……」

「わたしの名を覚えていたか」

 青年は黄金の髪を肩まで伸ばし、同じく黄金の瞳を和ませる。肌は抜けるように白い。ゆったりと長衣を巻きつけ、夜空を染めたような寛い衣を羽織っている。ロマン・トゥルダでは見たことのない恰好だった。

「神、なのね」

「そうだ」

 ロジェ神は頷く。そのしぐさひとつが、溜息をつきたくなるほどに洗練されている。

 だがレーナは溜息どころではなかった。立ち上がり、おぼつかない足でロジェ神のもとへと歩み寄る。

「ロマン・トゥルダを創り、人間を選んで住まわせた?」

「そう」

 すべての矛盾の原因は、彼女の言葉を肯定する。

「教えて。ロマン・トゥルダとはなんなの? 真実はなに?」

「随分と悩んでいたな。おかげで退屈せずに済んだ」

 ロジェ神はレーナの疑問に答えようとしない。

「―――退屈?」

 眉をひそめて声を低める彼女の前で、ロジェ神はくつくつと喉を鳴らした。レーナの顎に指をかけ、その顔を仰向かせる。

「怖い顔をするな。せっかく美しい顔に創ってやったのに、台無しじゃないか」

「やめて!」

 レーナは神の手を振り払う。

「大した度胸だな。神に対してこの態度」

「退屈せずに済んだって、どういうことよ」

「言葉どおりさ」

 どうでもいいことのようにロジェ神。

 この神は、退屈していたと? そしてそれを、自分が癒していた?

「遊んで、いたの?」

 ロジェ神は答えず、椅子の背にもたれて一本の柱に目を移した。

「見るがいい」

 言われて、レーナは逡巡のあと、背後の柱に顔を向けた。

 柱の中程は窓のように向こう側の景色を見せていた。

 それは、空から見下ろしたロマン・トゥルダだった。

 墜落するように視点は地へと向かい、先程までレーナのいた教会前広場へと場面が変わった。

 輝くばかりで塵ひとつ落ちていなかった広場には死体が累々と積み重なり、汚泥にまみれた血の海と化していた。天は激しく稲妻を落とし、氷の塊は容赦なく人々を砕いていった。

 大地は鳴動している。人々は混乱し、逃げまどい、為すすべのないまま暴動へと変容した。

 略奪、殺人、暴行、強姦。むごたらしい光景だった。

 これが神の楽園、ロマン・トゥルダなのか。

 オペラで演じられた地獄の様よりも凄惨な光景に、身動きどころか目をそらすことすらできない。

 ひとは、どんなに善良で穢れを知らなくとも、あれほどまでに残虐の限りを尽くせるものなのか。

 わななきながらも目が離せないレーナ。その眼差しが、すっと収斂(しゅうれん)した。その先にいたのは、

 ―――ヨアン。

 逃げ惑い、泣き叫び、混乱に陥る人々。その血や泥などで汚れに汚れきった暗い広場の中央に、ひとり(たたず)んでいた。

 広場中央に不気味にそびえる火刑台。レーナの消え去った火刑台の前で、暗い炎を目に燃やしていた。

「彼はこれからも楽しませてくれるだろう。お前の代わりにな」

「どういう、こと……?」

(ああヨアン。お願い、そんな眼をしないで。ヨアン。そんな感情を持っちゃいけない!)

「お前は実にうまくやってくれた。悩める人間を見るのは、飽きなくていい」

「なにを、なにをしたの? あなた、ロマン・トゥルダになにをしたのよ! あなたがすべての元凶なのね!? ―――どうしてこんな酷いことできるのよ、神のくせに!」

 楽園が、災禍に呑まれてゆく。

 ロジェ神は指を鳴らした。柱に現れていたロマン・トゥルダの映像が、ぷつりと途切れた。

「お前に文句を言われる筋合いはない」

 レーナは、きっとロジェ神を振り返った。ロジェ神は鋭くレーナを見ている。その力強さに一瞬怯むも、恐怖をねじ伏せて真正面からその視線を受け止める。

「わたしがロマン・トゥルダを創ったのだ。お前たちもわたしが創った存在にすぎぬ。どう動かそうと勝手だろう」

「創造主だからなにをしてもいいと? ふざけないで! わたしは、あなたの駒じゃない。自分の生きたいように生きる!」

「そうだな。確かにお前は期待以上に動いてくれた」

「―――え?」

(期待以上、って?)

 レーナは目を瞬かせる。

 ロジェ神はひとつ大きく息を吐き出した。

「褒美として教えよう。わたしはね、ひどく退屈していた。あるとき思いついたのだ。楽園を創り、彼らの生活を眺めてみようじゃないか、と」

「ロ……マン・トゥルダ……」

 神の創り賜うた楽園。

「絶対最高者であるわたしの楽園で、彼らに最高の生活を保証した。飢えもない、争いもない、生命の心配もなく、老いもしない。日々の生活は保証され、毎日を遊んで暮らせるように。……ただ、そのためには多少の精神操作が必要だったが」

「精神、操作」

 ロジェ神は、薄い嗤いを口元に浮かべた。

「ひととひとがいれば争いが起こるのは当然だろう。わたしはそういった負の感情が生まれないようにしてやった。感謝こそされても、恨まれる筋合いはない」

 レーナは絶句する。

 ロジェ神は懐かしげに彼女に語り続ける。

「だがな。時を閉じ、毎日を無益な遊びに費やし、わたしへの信仰はいつしか形ばかりとなった。毎日が前日と同じに過ぎていくだけ。思想もなにもない。―――飽きてくるだろう? 幸福に浸かりきった彼らは、わたしをちっとも楽しませてくれなくなった」

「当たり前でしょう!? あなたがそうするようにって決めたんだもの。そう刷り込まれてるんだもの!」

「だから、変化を与えた」

 ロジェ神は、金の瞳でレーナをひたと見た。

「お前に、真実を見抜く眼を与えた。それからは知っていよう。ロマン・トゥルダの辿ってきた道を」

 レーナははっと思い当る。半年近く前の、あの激しい頭痛。

「あなたがやったことなの!? あのときの頭痛は、あなたのせいだったの!?」

「世界がまったく違って見えたろう?」

 ロジェ神はにやりと笑う。

「―――ひどい。あなたのせいでわたしは……!」

「人間の分際が神に言う言葉ではないな」

「なにが神よ、偉そうに!」

 ロジェ神は、すっと眼を細めた。途端、レーナは後ろへ弾き飛ばされた。すぐそこに見えない壁があり、したたかに背を打ちつけた。

「分をわきまえろ」

 レーナは、起き上がることができなかった。

「―――わたしは、三つの選択肢を用意した」

 ロジェ神は何事もなかったように言葉を続ける。

「彼らは見事に、わたしの期待にこたえてくれた」

 くつくつと嗤う。レーナにはそれが、残酷なサタンに見えてならなかった。目の前にいるのは神なのか、悪魔なのか。

「あのときわたしはお前に真実を見抜く眼を与えた。ロマン・トゥルダを破壊する鍵とさせるために。そして、ヨアン」

「ヨアン? ヨアンにもなにかしたの!?」

 ヨアンだけは、なんの穢れも知らないでいて欲しい。夢に生きるようなことにならないで欲しいのに。

 彼は、レーナの聖域だから。

「ヨアンは第二の道。お前が真実を見抜き、ロマン・トゥルダを破壊に導くのが第一の道ならば、ヨアンの言葉に耳を傾け、奴とともに以前の毎日に戻ってゆくのが第二の道。そうなれば、ロマン・トゥルダが崩壊することはない。―――わたしには、つまらぬだけだが」

 だから、ヨアンは執拗にレーナに説き続けていたのか。なにも考えるな。禁忌に触れてしまう、と。諦めることなく切々と。

 そこに、彼の想いはあったのだろうか。

 心の奥底が、深く重たく沈んでゆく。

 レーナを説得し続けていたのは、

(わたしを愛してくれていたから? それとも……)

 ロジェ神に刷り込まれていたから?

 恐ろしくなった。

 自分の想いすら、ロジェ神に操られているのか。

 ヨアンの愛情も、神の仕業だというのか。

 なにを頼みとすればいいのか。

 絶望的だった。

「―――第三の、道は?」

 声が震えた。

「ロマン・トゥルダの民に与えられたものだ」

(皆が皆、ロジェ神に遊ばれていた、ということ?)

 ロマン・トゥルダすべての人間に、ロジェ神はなんらかの使命を組みこんでいたのか。

「お前が〝現実〟をもたらし、ロマン・トゥルダが混乱に陥ったとき、彼らが元の平穏な生活に戻るには、元凶であるお前を処刑しない(・・・)、ということを条件とした。お前は破壊の種。奴らがお前をどう扱うかによって、最終的にロマン・トゥルダの運命が決まる」

 レーナの身体に、火あぶりにされたときの熱がよみがえる。肌を焼き、肉を溶かす炎。

 思い出してはならないと、レーナは頭を振る。

「だが奴らは、集団の同意のもと、殺人を行った。もう楽園に住まう資格はない。ロマン・トゥルダは楽園ではなくなった。奴らは犯してはならない罪を犯した。わたしの楽園を崩壊させたという、ね」

「勝手だわ!」

 レーナは喘ぐ。

「崩壊させたのはあなたじゃない。責任転嫁しないでよ!」

「そうさせたのは奴らだ。責められる筋合いはない」

 憮然と返す神に、はらわたが煮えくりかえる。

「傲慢だわ! あなたずっと高いところで見下ろしてるだけで、自分の手を汚そうとしないじゃない! 罪悪感じるどころか楽しんでるなんて!」

「もともとそのつもりで創った楽園だ」

 当たり前のようにロジェ神。

 信じられない。

 最初から、もてあそぶために。

「だからってひとの一生をおもちゃにしていいと思うの?」

「わたしは変化を与えただけだ。わたしが動かしたわけではない。自ら選択して動いたのは、お前たちだ。お前たちがわたしの楽園、ロマン・トゥルダを崩壊に導いたのだ」

「正当化する気? 虫唾が走る」

「神とひととは違うのだ。もとよりお前に理解してもらおうとは思っていない」

「サタンの間違いでしょ? あなたには神よりも悪魔のほうが似合ってる!」

 レーナの言葉に、ロジェ神は鋭く目に力を込めた。強く睨み据えられ、またなにかされるのではとレーナは身体を硬くさせた。

 しかし、弾き飛ばされたり、息を止められることもなかった。

「サタンなどもとよりいない。存在すると思いこませただけ。わたし以外、何者も存在しない」

「聖書にあったことは偽りだと?」

 サタンは神の光に闇の果てに追いやられたというあの記述は。ロマン・トゥルダ唯一の書物は、偽りを記していたのか。

「あんなもの、信じているわけではなかろう?」

「!」

 足元が、崩れる思いがした。神が聖書の言葉を否定するなど。

「……ほんと、……莫迦みたい」

 あまりの情けなさに、笑みさえこぼれる。

「嘘にまみれた聖書を信仰の拠り所にしてたなんて」

 そして唯一文字の記されたその書物にすがって、世界を知ろうとしていただなんて。

「信じている者にとっては、それも真実となる」

「あなたは―――神の名のもとに、ロマン・トゥルダをもてあそんだのね。わたしたちの故郷を! 神のくせに、あなたは真実を歪めたんだわ!」

 レーナは叫んだ。眉ひとつ動かさない神に向かって。

 心底憎かった。これほどまでに誰かを憎いと思ったことなどない。ただひたすらに、目の前の神と名乗る存在が憎い。

「返して! 幸せだったロマン・トゥルダを返して! 元に戻しなさいよ!」

 這いずるように、レーナはロジェ神ににじり寄った。

「ヨアンを返して!」

「奴はもう戻らない」

「返して!」

「お前を失った奴は、憎しみにまみれ、残虐な男になっていくのだ」

 ロジェ神は冷たく言い放つ。

「あれはもはや、お前の知るヨアンではない」

「ヨアンを返して!」

(いやだ)

 信じたくない。ヨアンが憎しみに呑まれるなど、信じたくなどない。

「よくもそんな酷い目に」

「奴自身が選んだことだ。お前も見たろう? 奴の憎しみに燃える眼を。奴はロマン・トゥルダを憎み、恨みきっている。住民にお前を殺されたためにな」

「わたし死んでない。死んでなんかない! 生きてるじゃない、ここに、こうして! ヨアンを返して。元に戻して! わたしを返して!」

「ヨアンが選んだのだ。奴にはもう以前の自分に戻るつもりはない」

 レーナがそうであったように。

「ヨアンのところに行かせて! そうすればヨアン元に戻れるから!」

 レーナはロジェ神に頼み込んだ。だが、ロジェ神は彼女の想いをまったく受け入れる素振りを見せない。

 神の力をもってすれば、ヨアンを助けることができるのに。なのに、ロジェ神はなにも動こうとしない。どころか、傲岸に笑みさえする。

「お前にはこれからやってもらわねばならないことがある。ロマン・トゥルダに戻すわけにはいかぬ」

「これ以上なにを! もういや、放っておいて!」

「レーナ。お前はこれから、人間の母となるのだ」

「―――?」

 言っていることが判らなかった。人間の母、とは、どういうことか。

 警戒するレーナに、ロジェ神はかぶせるように言う。

「ヨアンの子を、宿しているな」

(!?)

 レーナは思わず腹部に手をやった。

(ヨアンの、子供……!?)

 手のひらの下のこの体内に、ヨアンの命を受け継ぐ生命が宿っている―――?

(あのときの)

 最後にオペラを観た夜に宿ったのだ。直感がそう告げる。

「ヨアンが……」

 ヨアンが、ここにいる。

 レーナの中で、愛しいヨアンの姿がよみがえる。朗らかに笑うヨアン。恥ずかしそうに照れているヨアン。怒っているヨアン。愛情深くレーナを見つめるヨアン。

(ヨアンの子供が……)

 お腹の中に。

「お前はこれから地に降り、そこで生きてゆくのだ。楽園を追放された者という烙印を背負って」

「ヨアンは?」

 この子の父親として、ヨアンもともに地に降りてくれるのだろうか。

 ロジェ神は首を振る。

「地へ行くのはお前だけだ。そこで子を産み、育てるのだ」

「そんな……」

 ロジェ神の言う〝地〟とは、ロマン・トゥルダのことではない。聖書に記されてあった、魔物の棲む荒涼とした大地のことだろう。神の光がかろうじて届くという場所。夜になれば魔物が跳梁跋扈するという。

 そこに、たったひとりで。

 神に護られたロマン・トゥルダで生きていた者が住める場所ではなかった。

 唯一の望みは、聖書の記述が必ずしも正しいとは言えないと判ったことだった。それでも、見知らぬ土地であることに変わりはない。

「冗談でしょう?」

 こぼれた呟きに返ってきたのは、冷酷な眼差しだけだった。

 ロジェ神は右手を正面に差し出した。すると、レーナのいる床が急にぐにゃりと溶けだした。

「これは決定だ。ヨアンはロマン・トゥルダで、お前は地でまたわたしを楽しませるのだ」

「や……、いやだ……ッ! やめて」

 ぬるりと落ちこむ床にレーナは必死で爪を立てる。しかし流れる床面は、彼女の身体を見る間に呑み込んでゆく。

「いや、ロジェ……!」

 レーナを見下ろすロジェ神の眼は、残酷な光に揺らめいていた。―――楽しんでいる。

 こいつは、最後まで。

「許さない……! 絶対にあなたを許さない! いつか、いつか必ず復讐してやるッ!」

「なんとでも言うがいい。どうせお前の記憶はすべて消え去る。ロマン・トゥルダのことも、ヨアンのことも、自分自身のこともなにもかも忘れ去るのだ」

「悪魔だわ。あなたは自分が神だと思い込んでる悪魔よッ! いつか―――」

 レーナの言葉は、最後まで伝わらなかった。彼女はロジェ神の前で床に呑み込まれ、―――未開の地へと堕とされていった。

 レーナの姿が完全に見えなくなったあとも、ロジェ神の眼には、酷薄な笑みが浮かび続けていた。


   *


 古代神話にはこうある。

 ―――遥かなる太古、天上に神の楽園があった。人々はそこで争いもなく平和で、常に幸福に満ち足りていた。しかしあるとき、ひとりの娘が現れ、知識を生み出した。楽園は知識のために崩壊し、娘は追放された。偉大なる神は娘を哀れに思い、彼女にひとつの生命を与えた。

 荒涼たる大地に落とされた彼女の身体には、神との子が宿っていた。太陽と月が七回天をめぐったとき、彼女は神の子を産んだ。

 それが我々人間の祖、ヨアン・ファーレンそのひとである、と。

 また、偉大なる神と敵対するサタンの名もヨアン・ファーレンと呼ばれているのはどのような不思議なのかは、謎のままである。




             了





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