三
―――翌日。
激しい雨はぴたりとおさまり、かわって抜けるほどの青空が広がっていた。
清々しいこの日。教会前の広場にひとだかりができていた。
人々は広場を埋め尽くし、道の向こうにまでひしめき合っていた。広場に面した家々の窓や、屋根の上にも溢れんばかりのひとの姿。
広場の中央―――群衆の中心にあるのは、火刑台。
今日、この日。これから始まるのは、昨晩奪われるようにして捕らえられた、レーナ・ヴァイルの処刑だった。
神の言葉を伝える聖職者は、彼女の処刑を言い渡したのだ。それは、もちろん最初から決められていたことだった。
火刑台を囲むように張りめぐらされた柵の一番前に、ヨアンはいた。血の気を失い、柵に身体を預ける姿は、まわりの者と対照的だ。
人々の興奮は凄まじい。その激しいうねりに、すべてが呑み込まれてゆく。
―――地下牢のレーナは、彼らの歓声を遠く、他人事のように聞いていた。鉄格子の嵌められた窓から、眩しい陽光が彼女の頬を照らしている。
最後の陽光。
傷だらけの彼女の姿は、しかし、薄汚い地下牢の中でも聖女のようだった。猿轡をかまされ、腕と身体を縛られながらも背筋を伸ばす姿は、楽園ロマン・トゥルダを混乱に落とした悪女にしては、あまりにも高貴で、表情は溜息がこぼれるほどに透明だった。
彼女は、これまでにないほどに落ち着き、平静だった。
人々や神への怨嗟に身がよじれるほどもがいてもいいはずなのに、まったく逆の境地にあったからだ。
(あのひとたちのほうが可哀相だわ)
突然目の前に切って落とされた現実という世界に戸惑い、受け入れることのできなかったひとたち。
彼らは一生、夢の中で生き続けることしかできないのだ。レーナの処刑のあと、彼らが落ちぶれてゆくのは火を見るよりも明らかだった。スケープゴートはレーナだけでは足りないから。彼らは、自分を支えることができないのだから。誰かの犠牲の上に生きていることすら、彼らは受け入れられない。
(哀れだわ)
そして、ロマン・トゥルダの意思。
ロマン・トゥルダは楽園でもなんでもない。人々はここが楽園だと思い込んでいるだけ。―――哀れだった。
静かに眼を伏せる彼女のもとに、やがて硬い足音が近付いてきた。
薄暗い通路に、ふたりの牢番の姿が現れる。この牢番たちも、いつから存在しだしたのかレーナには判らない。
「出なさい」
鉄格子の鍵が外され、軋んだ音を立てて扉が開かれる。
レーナは抵抗もなにもなく、両側を牢番に挟まれて、光溢れる地上へと向かう。
ロマン・トゥルダ最初の死刑囚として。
人々の待つ、火刑台のもとへと。
広場にレーナの姿が現れると、人々は待ってましたとばかり、彼女に石礫やごみを投げつけてきた。粗末な囚人服は、見る間に汚物に汚されてゆく。
轟きわたる罵声。皆が皆彼女を罵るせいで、耳に届く頃には、それは言葉としての形をなしていなかった。
レーナは乱暴に引きずられ、火刑台の柱に縛りつけられた。
「レーナ!」
愛しい声が、罵声を割って聞こえた。突然の声にはっと見まわすと、狂乱する人々の中、まさに目の前に、ヨアンがいた。
―――ヨアン。
胸の奥底が、強く強く引きつれる。震えが走り、身体が千々に千切れそうになる。
ヨアン。
彼の姿はレーナの感情のすべてを奪い、爆発させた。
たったひとつの想いが収束する。
彼を残したまま、死んでしまうのか。
いやだ。
死にたくない。消えたくない。
(このまま)
すべてこぼれ落としたこのままで炎に包まれるのか。
想いは、手繰り寄せられるように別の思いも駆り立てた。
ロマン・トゥルダのことを、結局自分はなにも判らなかった。
(なにも……)
底知れぬ恐怖が足元から噴き出した。
矛盾に満ちたこの楽園に自分は負けたのか?
―――そう、負けたのだ。火刑台がすべてを物語っているではないか。
答えはどこにもなかった。最初から、なかったのだ。
答えとは、なんなのか。
聖書にあった悪魔の獣のように獰猛な人々の姿。
火刑台に立つ自分。
これまでしてきたことは、まったくの無駄だったのか? ロマン・トゥルダの現実から目を背けていればよかったのか? そうすれば、ヨアンとともに幸せでいられたのだろうか?
悔しくてならなかった。このまま死ぬのは、絶対に嫌だった。
けれど、―――これがロマン・トゥルダの意思。
レーナはもはや、ロマン・トゥルダの人々に殺されるしかないのだ。
もう、それしか道はない。
(わたしは、負けたのだから)
「行くなッ!」
(ヨアン、ヨアン……!)
涙のあふれる目を大きく開いて、彼女は恋人の姿を求めた。
思えば、ヨアンにはいつも苦労ばかりかけていた。最後の最後まで、彼を苦しませてしまうだなんて。―――悲しませたくなんかないのに。本当はずっと、ずっと一緒にいたかった。
「行かないでくれ……!」
ヨアンは腕を懸命に伸ばす。けれど、ふたりの間はあまりにも遠く距離があった。手を伸ばしたくともレーナは拘束されて身動きが取れない。はめられた猿轡で、呻くことしかできなかった。
(ああ―――!)
ヨアンは柵を乗り越え、レーナのもとに駆け寄ろうとしてる。彼女はしかし、それを目で制した。
(来ないで!)
まるで声が聞こえたかのように、ヨアンの動きがはっと止まる。
(あなたまでみんなに恨まれてしまう! ヨアンは、ヨアンは誰からも好かれるヨアンでいて!)
「僕はどうしたらいいんだ!ッ」
ヨアンは叫ぶ。
(ロマン・トゥルダの汚濁にはまみれないで。あなただけは、自分を見失わないで。この楽園に、溺れたりしないで。……ヨアン……)
レーナの足元の薪に油がかけられる。そして、彼女の身体にも。囚人服に、冷たく油が沁み込んでいく。鼻の奥が、油のきつい臭いにつんと刺激され、痛みを訴える。
刑吏の掲げる松明に、火が点けられた。大きくどよめく群衆たち。
(ヨアン。誰よりも愛してる。出逢えてよかった。我儘ばっかり言っててごめん。ごめん。思いを曲げて生きていけなくてごめんなさい。―――許して、ヨアン。あなたをひとりにさせてしまうなんて!)
彼女の頬に、ひと筋の涙が流れ落ちた。
(これがわたし。わたしの生! ヨアン、お願い、わたしを覚えていて。わたしの生を、忘れないで!)
目の前が急に真っ赤な炎に変わった。直後、激しい熱が彼女を襲う。刑吏が火刑台に火を放ったのだ。
凄まじい熱が襲いくる。肌を焦がし、焼けつく焔。激しく噴き出す真っ黒な煙に、彼女の肺が爛れてゆく。
炎に包まれ身悶えするレーナの姿に、群衆は歓声に沸いた。
「やめろおおおお! レーナ!」
堪えきれず、ヨアンは柵を乗り越え、レーナのもとに駆け寄った。それを、刑吏たちがおしとどめる。ヨアンを抑える彼らの顔は、恍惚としていた。
怒りが、とめどなく噴出する。抑えられなかった。自分自身に対しても、ロマン・トゥルダの愚かな人々に対しても。
何故嬉々としている。判っているのか。
お前たちはいま、公然とひと殺しをしているんだぞ!
もはや炎に包まれ、姿ははっきりと見えない。そのとき、猿轡が外れたのか、レーナのものであろう悲鳴が広場の隅々にまで響き渡った。
「あああ……ッ!」
「うわあああああッ!」
女性の声とは思えない地獄の底からの唸りのような不気味な悲鳴に、ヨアンは気が狂いそうだった。
(僕が至らなかったばかりに!)
憤然と抵抗をし、刑吏に殴りかかるヨアン。
「ヨアン! いけない、やめて!」
振りかざした拳が、宙ではたと止まる。
いまの言葉は、レーナのものなのか?
ヨアンは顔を火刑台へと向ける。
「幸せになって、ヨアン……。愛してる、ずっと、ずっと……」
「レーナ」
ヨアンのいる場所から火刑台までまだ幾らかの距離がある。それでも凄まじい熱気に煽られていた。
―――レーナはこれを遥かに上まわる灼熱に焼かれて―――、なのに、彼女にはまだ意識があると?
「やめろ。やだ……、もう、やめてくれ、頼むよ……誰か……」
がっくりと膝から力が抜けたヨアン。レーナはひとりで立っているのではなく、柱に縛りつけられている鎖によって、身体を支えられているにすぎない。苦しみにくずおれることすら、許されないのか。
「神よ……!」
火刑台から、潰れた声が天空へと響いた。
「これがあなたの楽園です! ―――これがお望みかッ!」
その言葉を最後にして、―――レーナは、動かなくなった。柱に繋ぎとめられたままぐったりと力尽きた黒いひと影が、燃え盛る炎の間から姿を現す。
歓声が、ひときわ高くなった。
吹き上がる煙は、いつしか天を覆っていた。
それは次第にまっ黒な雲になり、青かった空を隠してゆく。辺りは暗く、冷たい風が吹き始めた。火刑台で爆ぜる薪の音が、いやに耳についた。
不穏に、人々はざわめきだした。饐えた臭いがする。雨が降るのか雪が降るのか。
そこここで生まれたざわめきが渦を巻き、ひとつになろうとしたそのとき、
「ああッ!」
誰かが天の一角を指差した。つられたように、皆その方向に頭をめぐらせる。
「!?」
「……」
皆、言葉をなくした。
―――暗い天から降ってきたのは雪でも雨でもなく、ひと筋の、光。
レーナがこときれたばかりの火刑台の上へと光は伸びてゆく。
白く眩い光が火刑台を包むと同時、激しく燃え盛っていた炎が消え去った。
ざわめきが、静寂に変わる。
真っ黒に焼け焦げたレーナの遺体が、彼らの前にむき出しとなっていた。
僅か前まで生きていた娘。変わり果てた彼女の姿に、人々は悲鳴をあげた。
楽園に暮らす彼らは、焼け焦げて無惨に形を崩したひとの亡骸を見たことがなかったのだ。
「……レーナ?」
ふらりとヨアンは立ち上がり、炭となり果てた彼女のもとへと歩み寄った。足先に触れようと彼が手を伸ばしたときだった。
「お前たちは、犯してはならない罪を犯した」
暗雲垂れこめる天から、突然、力強い男の声が降ってきた。
大きく轟く声。決して猛々しいものではなく、胸の底に透き通って届いてくる。
この声は、いったいどこから聞こえてくるのか。
まわりの人々と視線を交わし、そうして彼らは悟る。悟らざるをえなくなる。
―――神の声、だと。
天からの神の声は、罪を犯したのだと、彼らを非難している。
罪?
何故?
―――彼らには、判らない。ただ、レーナだった亡骸に触れるヨアンだけが、その言葉をすんなりと受け止めていた。
「お前たちはロマン・トゥルダの名のもとに殺人を犯した。由々しきことである。これが、お前たちの選んだ道。しかと受け止めよ」
しんと冷え渡った広場に響く声。
人々が声の意味に困惑する中、レーナの身体が鎖の戒めを解き放ち、ふわりと浮かび上がった。天へと浮かびながら、焼け焦げた彼女の身体は、見る間にもとの瑞々しい身体に戻ってゆく。
「ああ……」
「きせき……」
「神の奇跡だ……」
人々は、口々にそう漏らす。
「―――レーナ?」
ヨアンが呼びかけると、応えるようにレーナのまぶたが持ち上がった。
「ヨアン……?」
なにが起こったのか、彼女自身判っていないようだった。
ここはどこなのか。何故宙に浮かんでいるのか。火あぶりになったのに、―――あのおぞましい灼熱に焼かれたというのに、火傷ひとつない。激しく殴られ、蹴られた痕も消えている。
足元には愛するヨアンがこちらを見上げている。彼の姿を認めたとき、レーナの顔に笑みが広がった。
ヨアンが、いる。
「しかと受け止めよ」
「!?」
冷酷な声とともに、レーナの目の前が突然真っ暗になった。
―――世界が、消えた。
ヨアンの姿もまた、消えてしまった。
人々は、神の声とともに姿を消したレーナに慌てふためいた。
いったい、なにが起こったのか。そう思う間もなく、天から大粒の氷が凄まじい勢いで降ってきた。
拳大ほどもある氷の塊は、人々を無慈悲に打ち貫いていく。辺りはあっという間に阿鼻叫喚の血の海と化した。
その中で、ただひとりヨアンだけは、レーナの消え去った空の一点を見据えていた。氷塊は何故か、ヨアンを避けて傷付けることがない。
ひたと空を見上げるヨアン。その眼には、激しい情念の炎が揺らめいていた。