一
レーナの奇行は、ほどなくロマン・トゥルダ全体に知れ渡ることとなった。
彼女の変化から、既に三ヵ月。
夜会にも出なくなり、昼食会にも礼拝にも訪れない。ひとりふらふらとロマン・トゥルダをさまようばかりだった。その瞳は確固とした強い光に輝き、それは逆にレーナから見ると、他の者たちの目こそが虚ろにさえ映った。
レーナは、ロマン・トゥルダの果てを探していた。
楽園の果てになにがあるのか。ここから脱出できるのか、と。
しかし、果てを見つけることはできなかった。気付くと、同じところをぐるぐるまわっているだけで、ちっとも前に進んでいないのだ。
果てが、見つからない。
“果て”とはなに?
それは崖になっているのか、広大な湖が滝となって落ちているのか、天をつくほどの壁が立ち並んでいるのか。
そして何故そんな具体的な事象で想像できるのか。
なにもかもが判らない。
楽園の端にある崖の下は、滝や壁の向こうはどうなっているのだろう。
考えは想像の範囲を超えることができず、納得できる確かな答えを見つけることができない。
ロマン・トゥルダに果てはあるのか―――ないのか。
ぐるぐると思考も歩む先もさまようばかりの自分は、逃しはしないと誰かに嘲笑われている気がした。
人々は皆、ロマン・トゥルダに閉じ込められている。
それに誰も気付いていない。
気付かず薄っぺらい快楽に歓んでいるばかり。歓び、それに同調しない者を敬遠し、嘲笑う。
―――遠い。
そんな彼らと一緒の行動など、もうできない。
できないのだ。
ひとり自室で物思いにふけっていたはずが、突然どこかに行ってしまうレーナ。かと思えば、誰も足を止めないのに公園や路上でロマン・トゥルダの疑問を問いかけ続ける。
自分自身について疑問は抱かないのか。ロマン・トゥルダがなんのために存在するのか。わたしたちは何故毎日快楽ばかりを追求しているのか、できるのか。
知るべきではないのか、と。
彼女の言葉は、当然聖職者の気分を害した。が、捕まることはなかった。
幸か不幸か、〝取り締まる〟という概念がないのだ。ただ、莫迦なことをするんじゃないと強く諌められるだけ。
どれだけ苦い顔をされても、レーナには止められなかった。むしろ、強く言われるたび、いっそう楽園の綻びが目についてくる。
何故、気がつかない?
この世界はなんと矛盾だらけなのか。
尽きることのない食糧は、どこでとれるのだろう。狩りのとき以外姿を見せない森の動物たちは、普段どこにいるのだろう。
そして。
とめどなく湧きあふれるこの疑念や知識は、いったいどこから生まれているのか。
謎だらけの楽園。
人々はなにも気付かない。
もどかしさは募るばかりだった。
彼女のもとを訪れるヨアンも、レーナの葛藤を判ってくれない。
毎日毎日、レーナの懸命な訴えを聞いているというのに、言葉は彼の心を通り抜けてゆくだけだった。
レーナへの軽蔑や無視が広まる一方、ロマン・トゥルダの人々が感心したのは、異端者となってしまった彼女にずっと付き添うヨアンの存在だった。
なにを考えているか判らないレーナのもとを毎日訪れ、断られ続けても夜会や狩りなどに飽きもせず誘う彼は、もはや称賛さえされていた。
「―――嫌にならないの?」
レーナは尋ねずにはいられなかった。
今日もヨアンは彼女をオペラの観劇に誘いに来た。
尽きない疑問に見えない答え。煮詰まる思考にさすがに気持ちは倦み、気分転換が必要なのかもしれないと、レーナは誘いを受けることにした。
なにか、得られるかもしれないと縋る思いもある。けれどそれは、レーナ自身も気付かない建前だった。
彼女は、ヨアンを求めていた。
ヨアンのそばで皆のようになにも考えずに笑っていたいと、疲れきった心がそうさせていた。
すべてを捨てて逃げてしまいたいという強烈な思い。
もう、いいのでは?
とにかく疲れていた。
膨らむばかりの危険な思いに振りまわされ過ぎていた。こんな思考などなくしてしまいたい。すべてを忘れられたら。
劇場へと向かう馬車の中で、彼女は向かいに座るヨアンに目をやった。今日の彼は深い夜空の色の上着を着ている。襟元の淡い白と綺麗に調和していた。その上にある端正な顔。透き通る肌。
ヨアンは知れば知るほど美しく、素敵な男性だった。彼を〝認識〟したのは三ヵ月前のことだけれど、三ヵ月という時間は、レーナにあらためて彼への愛を抱くのに充分な時間でもあった。
レーナは、自分の〝恋人〟に恋をしていた。
毎日通ってくれるヨアン。自分へと向けられるその〝愛〟に、打たれずにはいられない。彼の熱心な想いは、強くレーナを揺さぶっていた。
ヨアンを前にすると、悩みを抱くことの愚かしさを痛感する。もういいじゃないかと、彼の存在が訴えてくる。
ヨアンは、レーナになにも言わない。
莫迦なことを考えるんじゃない、もっと軽く考えていこう。友人や聖職者はうるさく言うのに、ヨアンはなにも言わず、当たり前のようにただそばにいてくれる。
彼は確実に、レーナの支えになっていた。―――同時に、足を引っ張る存在でもあった。
「ところで、さっき言ってた『嫌にならない?』って、なにが?」
「わたしに、こうして付き合ってくれることが」
レーナの支えになってくれるヨアン。けれど、そのヨアンに自分はなにもできない。なにも返せていない。迷惑をかけるばかり困らせてばかりで、そのことが気がかりでたまらなかった。
「どうして?」
「みんな言ってるでしょう? わたしが莫迦なことしてるって。別れるべきだって」
「まあね。でも、僕の君への想いはちっとも変わっちゃいない」
「でも、でも、他のひとたちみたいに遊びたいでしょう? 毎晩違う相手と踊ったりして、その……、楽しみたいって思うでしょ?」
(ヨアンを縛りつけてるんだもの。ヨアンの愛情に甘えきってるんだもの)
レーナが出かけないときは、ヨアンも出かけなかった。とても嬉しかったが、ロマン・トゥルダの住民としての思考を持つヨアンには、窮屈なはず。
が、ヨアンの表情は、なんでもないことのように変わらない。
「僕は別に。君と一緒にいられないのなら、誰といてもつまらない。それに新しい発見もあった」
ヨアンは悪戯めいた目をした。
「こうして久し振りにレーナと出かけると、いつも以上に胸が高揚する」
「ヨアン……」
そう言ってくれるのは嬉しかった。心がほっと安らぐ。
「でも、毎日一緒に出掛けてくれるにこしたことはないけどね」
「―――ごめん」
「謝るのはなしだよ。言ったろ? 僕は諦めたりしないって。どれだけ時間がかかったとしても、元の君に戻してみせるって」
時間がかかったとしても。
彼にとっては深い意味のない言葉でも、どうしてもレーナはくどいほどにいちいち引っかかってしまう。
時間。
(ロマン・トゥルダに時間は本当に流れてるって言えるのかしら。毎日同じことを繰り返してるだけじゃない。それとも……、時間の流れがないから、飽きることもないとか?)
レーナはもちろん己の疑念を口にはしなかった。判ってもらえないのだから。
この三ヵ月、訴え続けてもなにも判ってもらえなかった。誰ひとりとして、レーナの言葉が意味あるものだと認識すらしてくれない。
訴えたぶん、みじめになるだけ。
そう、学んでしまった。
「―――うん」
だからレーナは小さく頷き、苦い胸の内を隠して窓の外に視線をやった。
暗い夜道に街燈の光が流れてゆく。
石畳を音を立てて走る馬車。ずっと先のほうに、眩しい明かりが見えた。
ヴァクレスク劇場だ。
夜空を持ち上げる高い建物。その威容はまるで不夜城だ。窓から漏れる光で、いっそう不気味さが増している。
この劇場はロマン・トゥルダの人々の象徴。ただ快楽にふけるだけの場所。それだけのために設けられた娯楽施設。
―――愚かな。
(なんて愚かしいのかしら)
その快楽の場にまさに向かっている自分自身もだ。
こんなことをしていてもいいのだろうか。
一瞬一瞬が過ぎるごと、なにかをこぼし、失っている気がする。
ヨアンとともにいたいがために、目的もなく快楽の場へと赴こうとしている自分。
何故人々はここに集うのだろう。快楽とは? ロマン・トゥルダの人々が追い求める快楽というものに、目的はあるのか。
(夜になるのを待って開かれるオペラ。何故、夜でなければならないの?)
ひとはなんのために観劇するのか。オペラを観て、ひとはなにを思うのだろう。
これが終われば、決められたように彼らは今宵のパートナーと朝までを過ごす。どれだけのひとが、今日このオペラの内容を覚えているのだろうか。
それとも、そもそもこれはひとの記憶に残らないものなのだろうか。
同じ毎日を繰り返すためにただ決められて……?
―――誰に?
「レーナ」
どんどん深みにはまってゆく思考を引き上げたのは、正面に座るヨアンの声だった。ふと目を返すと、ヨアンは真面目な顔つきでレーナを見つめている。
「せめて、こうして僕と一緒にいるときは、僕のことだけを考えて。世界がどうとか、ロマン・トゥルダがなんであるとか、そういうのは横に置いて欲しいんだ」
「あ……」
今日ヨアンと出かける気になったのは、息抜きのためだったのに。なのに気付けばいつもの思考に沈んでしまった。
「僕のことを考えるゆとりは、持っていて欲しいんだ。寂しいだろ、そんなの」
「ごめんなさい……」
ヨアンはふっと口元をほころばせた。
「君はなんだか、謝ってばかりだね。図星って、ことなのかな」
「そんな意味じゃ」
「いい。判ってる。ちょっといじわる言ってみたくなっただけさ。ずっと、辛い顔をしてるから、そんなレーナを見るのは、正直辛いんだ、僕も」
「―――ん」
「だからさ、今日くらいはなにもかも忘れて、純粋に楽しもう? 僕らはロマン・トゥルダ一、愛し合う恋人同士。だろ?」
「ええ。そうよね。そうだわ」
自分が変わってしまったという自覚はある。けれど、これだけはいままでと変わってないものがある。
ヨアンへの愛だ。
むしろ、いままで以上に彼を愛しく感じている。
馬車が、小さな揺れとともに止まる。
「さてと」
ヨアンはもったいぶった口調になる。
「姫君。皆の称賛を浴びにでも行きますか」
おどける彼。いつものヨアンだ。レーナの胸も躍る。
「ええ」
馬車の扉が開かれる。
先に降りたヨアンから、すっと手が差し伸べられた。自然に、ごく当たり前のようにその手を取るレーナ。懐かしい興奮が、胸の奥底から湧き起ってきた。
レーナの久し振りの登場に、皆がどよめいた。
かつてのようにヨアンに寄り添う彼女の姿は、彼らの溜息を誘う。
ヨアンの愛がレーナを救ったのだと、皆が感じた。
レーナは元に戻ったのか。ヨアンを見つめる彼女の熱い眼差し。彼女を見つめ返すヨアンの穏やかな眼。レーナの奇行が、かえってふたりの絆をよりいっそう深めたかと思われた。
元に戻れてよかった。彼らは皆一様に安堵をする。それでいいのだ、と。
レーナが聞いたら、訊き返してしまうだろう。なにがそれでいいのか、と。
けれどレーナは、今日はなにも言うまいと決めていた。なにも思うまい、と。
ヨアンに言われたように、彼と一緒にいるときくらいは、なにもかも忘れようと努めた。
実際、ヨアンと当たり障りのない話をしていると心が洗われる。彼と一緒にいるのがごくごく当たり前なことに思えて、楽しくて嬉しくて、ずっと忘れていた安らかな気持ちになれた。
一方で、誰ひとりとしてこのオペラを覚えていないのなら、自分だけでも覚えていようと思った。
演目は、『神の饗宴』。大いなる神が、サタンのもとへと堕ちた愚かな人々を断罪する、という内容だった。
たくさんの蝋燭の立てられた中で進められてゆくオペラ。場内に響き渡る重い歌声。奏でられる壮大な曲。
ボックス席から舞台をじっと見つめるレーナ。人々は、堕落した者たちが神の手によって制裁される場面で歓声をあげた。
胸の奥に押し込めた思いが、激しく抵抗している。
レーナには、この演目が何者かによって仕組まれた気がしてならなかった。
考えないようにはしていても、無邪気に歓声をあげるまわりの者に同調することは、やはりどうしてもできなかった。
ヨアンも、隣で手を叩き満足げな笑みを浮かべている。
こういうとき、決定的な距離を感じずにはいられない。
彼らは、この舞台の本当の意味を知っているのだろうか。
そんな思いがレーナの胸を冷たくさせる。
(本当の意味って、―――なに?)
それすら判らないというのに。
次第に、幕が進むにつれ、レーナはひしひしと思わずにはいられなかった。
これは、訣別なのだ、と。
このオペラは、彼女とロマン・トゥルダを繋いでいた最後の望みを断つものだ、と。
何者かによって、なにかが仕組まれている。
自分と人々は、あまりにも違いすぎてしまった。
もう、二度と戻れない。
それを、レーナに思い知らせるためのオペラだ。
自ら、この作品を観たいと思っただなんて。
(ああ―――)
これまでレーナは、ヨアンから離れることができなかった。
気持ちにふんぎりがどうしてもつかなくて、自分の想いを貫くのなら彼を諦めるべきなのに、―――なのに、これまでずるずるとヨアンへの想いを引きずっていた。
(失いたくないもの。大好きだもの)
けれど、堪えられなかった。
決定的だった。
これは目をそらし続けていた現実なのだと、なにかによって無理やり目の前に見せつけられている。
ヨアンがオペラに拍手を送る姿。その音。椅子ごしに伝わってくる振動。
彼が歓喜の表情を湛え手のひらを叩き合わせるたび、レーナに重たい気分が降り積もる。
こんなにもすべてがかけ離れているのに、どうしてやっていける?
愛しているのに。
舞台の上で、堕落者を演じる役者が逃げ惑っている。
もしもこの演目が真実ならば―――。
その思いはレーナの心を強烈に締め上げた。
神に疑問を抱き、異端の者となってしまった自分。
(わたしは、サタンに心を奪われた堕落者なのね。―――堕落者、なんだわ)
役者は神の制裁を受け、苦しんでいる。流れる哀歌が耳に痛い。
これがおまえの辿る運命だと、何者かによって突きつけられている。
(わたしは……ひとり、だ……)
目に、涙が浮かんだ。
誰にも頼ることはできない。
誰にも、この胸の虚無は判らない。
神の勝利に沸く歓声。
ヨアンの昂ぶりが伝わる。
判らなかった。
判らない。
何故。
何故神は、堕落した者を助けてはくださらないのか。
(わたしは、救われないんだわ)
神ならば、堕落した者こそを救うのではないのか。
ああ、と、レーナは悟る。
そもそも―――。
(ロマン・トゥルダに堕落者なんていないんだ。わたし以外には)
もとより、〝堕落〟というものがなかったのだ。目の前で繰り広げられるオペラも、きっと堕落とはなんであるのか、その意味を皆は判っていないのだろう。
不敬が堕落なのだろうか。
それとも、知ること、知ろうとすること自体が堕落なのだろうか。
どちらであっても、レーナにとっては同じことだ。
皆とは違う道を、もう歩きだしてしまったのだから。
堕落。
自分は、神に見捨てられてしまったのだ。
感じていたロマン・トゥルダからの隔絶。それは、あの激しい頭痛を境にして神から見捨てられたことを意味していた。
神の愛を、見失ってしまったのだ。
だから、ひとりきりになった。
レーナの頬を、透明な雫が流れてゆく。
もう、なにもかもが終わりだ。
喝采する人々、ヨアン。
これがヨアンとの最後の夜。
もう、取り戻せない。
*
その夜、レーナは狂おしくただひたすらにヨアンの愛を求めた。
彼の愛を刻みつけておきたい。
―――そう、願って。