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ロマン・トゥルダ  作者: トグサマリ
【第一章】
3/7




 白い光が、地平線の向こう側からロマン・トゥルダの空を染める。透明な光は藍色に沈んだ空気を追いやり、熟んだ夜の濃密な息苦しさを浄化してゆく。

 いつもと変わらない朝が、今日もロマン・トゥルダに訪れる。

 夜通しの遊戯にうつつを抜かした住民は、空が明るくなりだす頃に眠りに就き、陽が昇りきり天の中央を通るあたりに目を覚ます。そして毎日熱心に教会に通うのだ。

 ロマン・トゥルダに唯一の教会。巨大で壮麗な教会は、何百もの住民を毎日その身の内に招き入れる。

 人々は教会の長椅子に(うやうや)しく座り、胸の前で指を組み合わせて神に祈る。―――今日の日の安寧と、大いなる神の御心の深さへの感謝を。

(本当に……そうなのかしら)

 まわりの皆と同じように胸の前で指を組み(こうべ)を垂れるレーナの中に、そんな思いが生まれた。

(みんな、本当に神への感謝の祈りを捧げているの?)

 自分は―――?

 どうなのかと思い返してみるけれど、なにも出てこなかった。

 いままで毎日こうして教会に通っていたのに、神に感謝していたのかと問われると、そうだとも違うとも言えなかった。

 なにも、思い出せなかったから。

 胸の内が、うそ寒くなる。

(待って。ねえ。わたし、いままでどうやって、なにを祈ってたの? ……本当に祈りを捧げていたの? 神に? どんな言葉をかけて? ―――神は、本当に応えてくれるの?)

 疑問はひとつ生まれると、枝葉を広げるようにどんどん広がってゆく。

 そもそも、

(神は、いるの? 神とはいったい、どんな存在なの……?)

 胸に生まれた、神の存在への疑念。

 それはあまりにも危険な疑念だった。そのことに、レーナは気付けない。

 だから踏み込んではならない領域に、レーナは足を踏み入れてしまう。

 神とは、なに?

 祈りとは、なに?

 わたしたちは、ここでなにをしているの?

 気がつくと、レーナはひとり、頭を上げていた。

 皆は一様に頭を垂らし、教会内は水を打ったように静かだった。

 静かだ。

 神父も、祭壇前で恭しく頭を垂れている。ステンドグラスが施されていない窓から差し込む白い光が、静謐な堂内をよりいっそう神聖なものに変えている。

 その中で、ぽつんとただひとり顔を上げているレーナ。

 ただひたすらに、静かだった。

(わたしだけ……)

 頭の隅で、なにかがずきんと脈打った。

(わたし……)

 独りだ。

 隔絶を、感じた。

 教会内にはロマン・トゥルダ中の人々が集まっているというのに、誰もいないように思えてならなかった。

 皆、いるというのに。

 独りきりだ。

 静謐な空気の中、ただ自分ひとりだけが頭を上げて。

(―――ああ……!)

 レーナは悟ってしまう。

 孤立。

 孤立だ。

 なにがどうだとはっきり示すことはできないけれど、自分は、彼らと違ってしまったのだ。

 違う道を、進んでしまっている。

 皆が受け入れられる世界を、受け入れられていない。

 ―――孤立。

 自分だけが。

 世界からはみ出してしまったのだ。

 ゆるりと隣のヨアンを見る。

 彼は静かに目を伏せて、祈りを捧げていた。

 端正なその美貌。頬の産毛を、白い陽光が淡く浮き上がらせている。

 美しかった。

 神に祈りを捧げる彼は、こんなにも綺麗な青年だったのか。ずっとずっと一緒にいたのに、ヨアンの美しさをいま初めてレーナは認識した。

(どうしていまになって判ったの……?)

 何故気付かなかったのだろう。ヨアンという美しいひとに、いま初めて出逢った気がした。

 それは逆に、ヨアンのことをまったく知らなかったという現実を突きつけるものでもある。

 自分の愛しいひと。このひとだけが愛しいと思ってた、のに。

(ヨアンのこと……、なにを知ってたの)

 ―――なにも知らない。

 なにも、知らない。

 己に問うて導き出された答えに愕然となる。

 誰よりも愛しいひとのことを、なにも、知らないだなんて。

 あまりのことに、身震いすらできない。

 なにも知らないからではなく、なにも知らなかったという己の無知、その現実が心底恐ろしかった。

 ここはロマン・トゥルダ。神の楽園。

 なにも考えず、ひたすらに快楽にふけっていただけの自分。

 いままで、なんの疑問も抱かずにそうしてきた。まわりにいる頭を垂れているひとたち。彼らはきっといまでも、なんの疑問も抱いていない。

 けれどどうして。

(どうしてわたしだけが)

 世界を同じように捉えられなくなったのか。

 ―――ゴオォォン……。

「!」

 突如響いた鐘の音に、レーナの肩が跳ね上がった。

 ゴオォォン……。

 低い低い荘厳な音は、礼拝の終わりを告げるものだ。

 そして、彼女の世界の終わりと始まりをを告げるものでもある―――。

(この鐘は、誰が打ってるんだろう)

 上げたままの頭を鐘楼のほうへとめぐらせる。

 ロマン・トゥルダの全員がこの堂内にいるはずなのに、いったいどこの誰が離れた場所でこの鐘を鳴らしているのか。

「?」

 眉根を寄せるレーナに、祈りを終えたヨアンが、どうしたのかと眼差しで訊いてきた。

「この鐘を打っているのは誰なのかな、って思って」

「鐘を打つ、ひと?」

 なにを言っているのかと、怪訝な顔になるヨアン。その表情に、これは突き詰めてはならない問題なのだとレーナは悟る。触れてはならないことなのだ。

 思考を無理やり停止させる。

 なんでもないと、小さく首を振るレーナ。

(なんでもない。そう。きっとヨアンやみんなには、なんでもないことなんだわ……)

 そのなんでもないことが、自分には気になってしかたがない。

 それが何故だか判らなくて、自分自身が怖くなった。

 どうでもいいことにいちいちひっかかりを覚えてしまう自分は、得体のしれない化け物になってしまったのでは?

 これからどうなってしまうのかが判らない。どうすべきかも判らない。

 ただ、自分はひとりきりなのだと、それだけを残酷なまでに彼女は受け入れるしかなかった。

 ロマン・トゥルダの人々と自分は、別の存在なのだと、無意識が現実を突きつける。

(そんなの……でも、気のせいかもしれないし、本当はわたしだけじゃないのかもしれないし)

「レーナ」

 ヨアンは硬くなった彼女の手を取る。

「なにを悩んでるんだ?」

 思い詰めたヨアンの目の中に、暗い表情のレーナがいる。

「―――わたし」

 ためらいつつ口にする。判って欲しいという思いと、判ってなどもらえないという不安が交錯する。

 一瞬の間の激しい逡巡に、レーナは急いで次の言葉を探す。

「わたし、わたし、……おかしいの。どうしてこんなふうなのか、全然判らなくて」

 神の存在が判らないとは、言えなかった。だから当たり障りのないぼんやりとした表現を選ぶ。

「おかしいって、どういうふうに?」

 全然そうは見えないけれどと、ヨアン。その腕に縋りつき、レーナは高い場所にある恋人の瞳を食い入るように見つめる。

「わたし、ここにはいられない。ひとりきり。どうしたらいい? わけの判らないことばかりで。わたし……わたしおかしい」

「わけの判らないこと?」

 レーナがなにを言おうとしているのか、ヨアンもわけが判らない。

「さっき―――あなたを見て、初めてヨアン・ファーレンというひとと出逢った気がしたの。あなたの顔を初めて見た気がした。ずっと、いままでずっと一緒にいるのに」

「僕と初めて出逢った、って……」

「初めて認識した、っていうか」

「僕はずっと君のことを見ているけど?」

「そう、なんだけど。そうじゃなくて」

 見てる見ていないではなく。

(ああ―――)

 レーナは落胆を禁じえない。

 ヨアンの言葉が上滑りしている。

 意識のどこかがすれ違っていて、彼と自分は違う場所を見ている。

 自分を想ってくれているヨアンの気持ちはひしひしと伝わってくるのに、どうしてだかその想いが、(うつ)ろに感じられてならなかった。

 否応なしに、現実は示している。

 ヨアンには伝わっていない。―――伝わらない。

 どうすればいい?

 感じている違和感を具体的に言うべきだろうか。けれど言って、それでヨアンが離れてしまったら? そうなったら、きっと本当に自分は味方もなくひとりきりになってしまう。

「レーナ?」

 優しく眼差しで先を促すヨアン。

「わたしのこと、軽蔑しない? なんてこと言うんだって、突き放したりしない?」

「どうして僕がレーナのことを軽蔑しなくちゃならないの? 君のいいところも悪いところも、おかしなところもそうでないところも全部含めて、好きなのに」

「ん……」

 ヨアンからは、そういう返答がくるとは、なんとなく判っていた。

(どうしよう)

 悩むけれど、ひとりきりでは抱えきれない気がした。

 あまりにも、自分の身に起こったことは重すぎる。

 レーナはまっすぐにヨアンの目を見つめ返した。

「あの、ね。ヨアンのことだけじゃないの。それだけじゃなくて。その……お祈りしているときに思ってしまったの。神とはなんなのか、ここはどこなのか、わたしは誰なのかなにをしているのか、って。そういうことばかり考えてしまうの。みんながいつもしていることが、―――無意味に思えてならなくて」

「レーナ」

 ヨアンはあたりを憚るように腰を浮かせた。たったそれだけの仕草に、レーナは心臓が潰れるかと思った。

「外に出よう。たぶんここには、似つかわしくない話題だ」

 硬い声でヨアンは囁いた。

 教会内に残っている者は、いつの間にかレーナとヨアンだけになってした。ふたりの囁く会話も、向こうに控えている神父の耳には届いているかもしれない。

 神の楽園の住民であることをもっとも誇らしく思っているのは、聖職者だった。住民の中で一番神に近い存在だからだ。そんな彼らの耳に、神の御心に挑戦する思想を聞かせていいわけがない。

 知られたら、ここにはいられないのだと、ヨアンの中で叫ぶ声があった。

 レーナにそんな運命を辿らせてなるものか、と。

 席を立ったヨアンに、レーナの彼の腕にかけていた指に力がこもる。ヨアンはその思いをくみとり、笑みを浮かべた。

 大丈夫だと、頷いてくれる。

「とにかく、外に出よう」



 レーナは、教会前広場から連なる公園の小道を歩きながら、隣のヨアンに目覚めてからのことを話した。

 五感が痛くなるほどに鋭く研ぎ澄まされていること。これまで気にも留めていなかったことが、とても気になってしまうこと。自分自身が、世界から置いて行かれた感覚がすること。

 そして、神の存在すら疑問に思ってしまったということ。

「気のせいだって、考えないようにしても、どうしても抑えることができないの。なんていうのかな。……そうしなきゃいけないような、そういう感じで」

 うまく表現ができない。言葉では言い表せない、胸の奥深くに現れた思いだった。

「判る、かな?」

 もどかしかった。ちゃんと伝えられない。

 言葉というのは、こんなにも不便なものだったのか。

 思いをできる限り伝えたけれど、ヨアンはそれをどう受け止めるだろう。もしかすると、離れていってしまうかもしれない。嫌いになってしまうかもしれない。

 不安が、一瞬一瞬が過ぎるごと深まってゆく。

(見捨てないで……)

 窺うように、レーナはヨアンにそっと視線を這わせる。

「よく……、判らない。ごめん」

 ヨアンはしばらくの沈黙のあと、申し訳なさそうに口を開いた。

「僕には、どうして君がそうなってしまったのか判らない。どうすべきなのか、なにが一番君にとっていいのかも、判らない」

 ヨアンはまっすぐ前を見ていた。言葉を慎重に選んでいるのか、普段の彼よりもずっとゆっくり喋っている。

「だけど、ひとつだけ自信をもって言えることがある」

 ヨアンは、歩む足を止めて、レーナに向き直った。

「それでも僕は、君を愛してるってこと。そんなに怯えなくても、僕は君を見捨てたりはしない。少しずつ焦らずに、もう一度ロマン・トゥルダに慣れていけばいい。そうだろ?」

 レーナは、身体の内側が音をたてて崩れてゆくのを感じた。

 だから違うのだ、と。

 そうじゃない。

「戻れないのよ。もう戻れないよ、わたし。もう、いままでみたいな生活なんてできない」

「僕と一緒にいるのも嫌なのか?」

「ヨアンとはずっと一緒にいたい!」

 不安を切り裂くように叫んでも、心の隅に、絶望が顔を覗かせる。

 一緒にいたい。けれど違うのだ。

「だったら、これまで通りでいいじゃないか」

「それができないから苦しいのよ!」

「―――ごめん」

 レーナの悲鳴にヨアンは息を呑む。レーナは胸をつかれた。

「……ごめんなさい、大声あげて」

 自分はこれまで、声を荒げたことがあっただろうか。

「レーナ」

 ヨアンはいたわるように恋人の名を呼んだ。

「君には辛いことかもしれないけど、たぶん、僕が君にできる最善のことは、いままでどおりに接するってことくらいだよ。―――きっと、レーナ、このままだと君は、禁忌に触れてしまう。気をつけたほうがいい」

(禁忌……?)

 彼の唇からこぼれ落ちた思いもよらない言葉が引っかかった。

 禁忌とはいったい、なんなのか。

 ヨアン本人は、自分がなにを言ったのか気付いていないようだった。

 もしかするとそれはきっと、彼の無意識が口走らせた真実なのかもしれない。

 禁忌とは、なんだろうか。

 ロマン・トゥルダに、そんなものが存在していたのか。―――神の楽園に。

「あとで、迎えに行くよ」

 レーナは一瞬、彼の言葉の意味が判らず、目で訊き返した。

「今日は狩りの日じゃないか」

 皆が森にくりだし、男性は小動物を狩り、女性は開けた場所に張ったテントでその帰りを待つのだ。

 レーナは、反射的に首を振った。

「森に行けば、気分転換にもなる。行くべきだよ。―――行こう?」

「ごめんなさい、わたし。―――わたし、行けない」

 目を瞠るヨアン。

「レーナ」

「ごめんなさい……!」

 レーナには、それしか言えなかった。

 狩りを見物するような心境ではなかった。

 ロマン・トゥルダに流されて、自分を見失ってしまいそうだ。

 流されるべきなのかもしれない。けれど、気付いてしまったから。いまとなっては、逆らわずにはいられない。

 逆らわなければならないのだ。

 ロマン・トゥルダの流れに呑まれてはならないのだ。

 以前のように、狩りを楽しむことなど、できはしない。

 ヨアンを困らせてそれでよくも彼の愛を欲しいと言えたものだと、自分が情けなくなる。恥ずかしい。

「先に帰る。ひとりで、帰る、ごめんなさい……!」

 レーナはその場から逃げるように駆け出した。

「待って!」

 背中にヨアンの声がかかる。しかし、彼女の足は止まらない。

「僕が君を治してみせるから! だから、諦めるな!」

 治す。

 ―――違う。

(そうじゃない!)

 ヨアンの声を背に、レーナは心の中で叫んだ。

 どうしてヨアンから逃げださなければならないのか。

 それもこれも、すべてあのときの頭痛のせいだ。

 あの激しい痛みさえなければ、こんなことにはならなかった。

 何故、どうしてこうなってしまったのか。

 神の悪戯なのだろうか?

 神には人知を超えてなにか思うところがあって、だからレーナに苦しみを強要させているのだろうか?

 神はロマン・トゥルダの住民に快楽を約束してくれた。

 なのに、どうして自分はそれを失ってしまったのだろう。

 何故、世界との乖離に苦しまねばならないのか。

(神って、ねえ、どういうものなの……?)

 ロマン・トゥルダの創造者であり、保護者でもある存在。

 けれど、どこかがおかしい。

 何故、神はレーナには永久の平穏を約束してくれなかったのか。

 漠然と神を信仰し、その存在を絶対的なものとして受け止めてきたレーナ。それが、少しずつ、崩されている。

(楽園って、楽園って、どういうものなの? ロマン・トゥルダは、―――本当に楽園なの?)

 とどまることをしらない自分の思考は、ぞっと凍りつくことばかりだ。

 そうして、すべてが色を失い枯れ果てる中、ひとつの答えが浮かび上がる。

(わたしは……、知りたいんだわ。きっと、なにかを知りたいんだわ)



 結局この日、レーナはヨアンが誘いに来ても狩りにはでかけなかった。

 彼女は家の書庫にこもり、憑かれたように膨大な量の本のページを繰った。

 だが、なにも得られなかった。

 ―――なにも得られないということを、知っただけだった。



 その日から、レーナは書庫で本と向き合う日々を送るようになった。―――なにも記されていない、白紙の書物と。

 白紙。

 どうしていままでこのことに気付かなかったのか。

 あらためて見てみると、書庫に限らずすべての書籍の背表紙には、本の題名が記されていない。ただ、そこに本がある、という背景の一部分でしかなかったのだ。

 飾るためだけの書物。なにも記されていない本。

 それとも、レーナ以外の者にはちゃんと文字が記されて見えるのだろうか。

(わたしの目が、おかしいの……?)

 判らなくなる。

 すべてが偽りに思え、ものを意味付ける言葉の単語自体が、自分を騙しているのではと恐ろしくなった。



 レーナはカジノに誘いに来たヨアンに、なにも記されていない古びた分厚い本を差し出した。突拍子もない行動を見せたレーナに、目を丸くさせるヨアン。

「どうしたの、本なんか持ってきて。それよりも今日こそは出掛けよう? カジノに行こう。カミラもエルナも来るって言ってたよ」

 愛しいひとの唇が紡いだのは友人の名だったが、レーナは話を切り捨てるように首を振る。

「いいの。行かない。それよりも」

「行かない? どうして? 賭博は好きだったろ?」

(―――え?)

 レーナは目をぱちくりさせ、ヨアンを見上げた。彼女の反応に、ヨアンは疲れた表情を見せた。

「大丈夫か? 自分の好きなものまで忘れないでくれよ。まさか、僕のことは覚えているよね?」

「もちろんよ当たり前じゃない」

 言って、急に不安が頭をもたげる。

「―――ねぇ。あの。……、ヨアンは、わたしがいないと、誘われたりしてるんだよね? その、夜伽(よ とぎ)とかにも……」

 ヨアンは愛想をつかして、他の娘たちを求めてしまうかもしれない。

 夜会に出席しなくなった自分の代わりに、別の女性がヨアンの隣にいるのだろうか。

 そうして、そのあとも。

 膝が震えた。

 不安だと、言える筋合いはない。

 彼を繋ぎとめられないのは、自分のせいだから。

 迷惑をかけているのは自分なのに、ヨアンを手放したくないと思うだなど、ひどく身勝手だと思う。

 レーナとヨアンのように互いだけを想い合うのは、ロマン・トゥルダでは他に例を見ない珍しいことだ。

 だからこそ、彼は他の娘たちに狙われている。

 彼の頑なな心を溶かし、振り向かせてみせようではないか、と。

 ヨアンは、上目遣いで自分を窺う恋人をいじらしく感じた。

「僕は君以外と夜伽をするつもりはないよ。そんなにも心配なら、でかけよう? たまには息抜きもしなくちゃ。書庫にこもってばかりだと頭の中にまでカビが生えてしまう」

 レーナはす、と視線を外す。そこにまた戻ってくるのか。胸の中に吐息を呑み込み、抱えていた本をヨアンにずいと差し出した。

「読んで」

「レーナ」

 途端声が硬くなったレーナに、ヨアンは天を仰ぐ。すっかり出歩かなくなった恋人になにが起きたのか。彼は神に何百回目か祈った。彼女を助けてくれ、と。

「お願い。とにかく開くだけでいいから」

 一歩も引かない強い表情で突き出される本。ヨアンは本とレーナを交互に見る。

「判った。読むよ。だから今日こそ外に行こう? いいね。礼拝にも来なくなるなんて、どうかしてる」

 レーナは言葉を返さなかった。返せなかった。神の存在が判らなくなったいま、どうして礼拝ができようか。それこそ不敬ではないのか。

「行こう。な?」

「―――行く。だからお願い。読んでみて」

「判った。みんなも、君が来るのを待ってるんだよ」

 言いながら、ヨアンはレーナから本を受け取った。適当なところを開け、視線を落とす。

 本に目を落とすヨアンの反応を、息をこらしてじっと窺う。

 胸が騒ぐ。

 はたして、彼はどんな反応をするのだろう。

 白紙の本を見れば、彼にもレーナの感じていた違和感が判るかもしれない。密かな期待が、胸を占める。

 しかし、―――ヨアンの言葉は、容赦なく彼女の想いを打ち砕いた。

「これが、どうしたというの?」

「え?」

 レーナは眉を寄せる。まさかそんな感想が返ってくるとは思わなかった。ヨアンが言いたいことが、判らない。

 ヨアンは混乱する彼女の前で、前後のページをめくる。どのページも、白い。なにも記されていない。なのに、平然としている。

「だって本でしょう? なにか書いてあるはずなのに、文字ひとつも書かれてないのよ? おかしいでしょう?」

「本になにか書かれているわけないじゃないか。そんなの、本じゃないよ」

 耳を疑う言葉だった。

「なに、言ってるの? だったらわたしたち、どこから知識を得たの? なんにも知ることできないじゃない!」

「本とは書庫にあるもの。書棚にあるもの。飾るものだ。開けて読むものじゃない」

 愕然とした。

 開けて読むものではない?

 どうして平気でそんなことが言えるのだろう。

 自分の持っていた考えと、激しく乖離(かいり )している。

 そこまで、離れてしまったのか。

 ヨアンとの間に、みんなとの間に大きな亀裂がある。深い亀裂が明らかに走っている。

 ものの定義が、違っている。

(定義? ―――定義って、なに……)

 本とはどういうものか。レーナはどうして本を〝文字が記されて知識を得るもの〟だと思ったのだろう。それが当然のことだと思ったのは、どうして。いつから。

 根本が、異なっている―――。

 本は開けて読むものじゃない。飾るもの。

 知識を得る。

 ―――知識、とは?

 知識を得る、とは? その先になにを見ようとしている?

 ―――なにを?

 頭の中でさまざまな疑念や思いが答えを出しては更なる問いを生み、思考を超え、身体を突き抜け、世界のすべてを駆け上り駆け下りる。波紋が水面を走るよりも速く、あらゆる問いに答えが音を立てて落ちてくる。目に映る光景は渦を巻き、示された答えとともに複雑な色に絡まりあい、胸の中心へと吸い込まれてゆく。

(ああ……!)

 彼女の中で、弾けるものがあった。

(わたしたちは、知ってはいけなかったのよ。なにも知ってはいけなかった。だから、だからなにも記されていないんだわ)

 ロマン・トゥルダの住民に知識は―――なにかを知るという意識の動きは、それ自体、不要なのだ。知ろうという興味は、存在してはならないのだ。

 無知でいなければならない。

(そう、だったの……?)

 本は飾るものだと言ったヨアン。きっとそれはヨアンだけの意見ではなく、ロマン・トゥルダ全体の意見だろう。

 知りたいという衝動を持つのは、自分ひとりだけ。

 疑念を抱いているのは、たったひとり。

 自分のみ。

 誰も、なにも気付かない。

 がくりと落ちたレーナの肩に、そっとヨアンの手が添えられる。

「さ、行こう? 急がないと、時間に遅れてしまう」

 ヨアンの声は、もはや頭に入ってこなかった。とても遠くで誰かが口から音を流している―――話しかけている。

(ああ、そうか。ヨアンがどこかに誘いに来てくれたんだったわ)

 たった独りだ。

 レーナは、すべてを失った絶望に、ただこくりと頷くしかできなかった。



 ―――失意のうちに赴いたカジノだったが、やはり楽しむことはできなかった。

 まわるルーレット。テーブルを滑るカード。増えてゆくコイン。

 以前の彼女なら目を輝かせてはしゃいだのに、いまのレーナは暗く沈んでいた。

(これのどこが楽しかったんだろう)

 勝っても勝っても、充実感は得られない。むしろ、虚しさばかりが降り積もってゆく。チップに触れる手が、脆く空虚のまま消えてしまいそうだ。

(つまらない。なにもかもがつまらない。―――気付かなければよかった)

 自分ではどうすることもできない後悔に(さいな)まれるばかりだ。

 人々の歓声も、レーナにはもはや、うるさいものでしかなかった。




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