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ロマン・トゥルダ  作者: トグサマリ
【第一章】
2/7



 頭上のシャンデリアが(しょく)のまろやかな光を受け、きらめく輝きを返している。部屋に集う華やかなドレス姿の女性たちや、小粋な男性たち。客たちの香水の香りに満ちた空間は、彼らの(あで)やかな会話にあふれていた。

「あら、レーナだわ」

 今宵、コステル侯爵邸では舞踏会が開かれている。

 自身を着飾る女性たちは、昨晩とは違う男性に手を取られ得意顔で次々と現れる。昨日の夜を共にした相手は、今夜は他の女性の隣を歩き、明日の相手を眼差しで探している。

 ロマン・トゥルダの恋愛関係は淡白だ。

 特定の恋人がいる者はいない。ほとんどの者は昨日は彼、今日はこのひと、明日はあの方、と、夜伽の相手を変えてゆく。

 ロマン・トゥルダではそれが普通のこと。誰も嫉妬をしないし、誰もがそれに満足している。

 ただ、レーナは数少ない例外のひとりだった。

「三日ぶりかしら? どうかなさったの?」

 恋人ヨアン・ファーレンと連れ立って会場にやって来たレーナに、友人のカミラが歩み寄る。しばらく姿を見せなかったレーナに、興味を隠せない顔をしていた。

「頭痛がひどくて、ずっと横になっていたの」

「頭痛?」

 カミラは意味ありげに小首をかしげる。

「三日も、頭痛?」

 明らかに疑う眼差しだった。そうだろう。レーナ自身、これまで何日も続く頭痛など経験したことがない。それ以前に、頭痛自体ほとんど経験したことがない。

 体調不良など、ここではまれなのだ。

「ええ、そう」

「ふぅん……」

 カミラは信じていない表情を返す。

(やっぱりそうよね)

 胸の内で、小さく嘆息するレーナ。

 自分の返答がカミラの望むものではないとは判っていた。

 カミラは言い訳じみた答えではなく、男女の関係を忍ばせた答えが欲しかったのだから。

 うんざりしたものを感じながら、カミラを見つめ返す。

 彼女は友人だ。適当な嘘を混ぜた答えを返したくなかった。

「どうしてだか、夜中に頭痛に襲われたの。痛くて気を失って痛さに目が覚める、の繰り返しで」

「やだ。―――ね。本当は誰かとどこかで楽しんでたんでしょ?」

 ヨアンに聞かれないようレーナの耳元にそっと口を寄せ、囁き込むカミラ。いつもヨアンとばかりいるレーナも、やはり気晴らしに他の男性と楽しんでいたのでしょう? と、その目が期待をしている。

 レーナの恋人はヨアンただひとりだ。

 だからことあるごとに、好奇の視線にさらされる。

「本当さ」

 答えたのはヨアンだった。

「レーナはずっと()せってたんだ。正直、今日も欠席させようと思ってて。病み上がりに無理させたくないだろ?」

「―――まぁあ」

 カミラの目が大きく輝いた。

「それで、ふたりで寝台で“過ごして”いたのね?」

 あまりにも予想どおりの反応に、カミラを睨むレーナ。

「あん。睨まないでよ」

「ずっと臥せってたって言ったでしょ、ヨアンの言葉聞いてなかったの?」

「聞いてたけどぉ」

「……ほら。モーリスさん呼んでるみたい。行ってあげたら」

「あらほんと。せっかちね。それじゃ、またね」

 カミラはヨアンに熱い視線を送ると、そそくさと今夜の恋人だろう男性のもとへと駆けていった。

「またあの視線……」

 カミラは、レーナの恋人であるヨアンにも誘う視線を欠かさない。

 もちろん、カミラ以外の女性すべてにそれは言えるのだけれど。

 ―――辟易する。

 その、辟易した自分の感情に、レーナは何故だかひやりとする。

 いままでも、こんな気持ちになったことあっただろうか?

 レーナの内心など知らないヨアンは、何事もなかったかのように平気な顔でいた。

「いつものことだろ? 心配しなくても、僕には君だけだから」

「あ……、うん。ありがと」

 釈然としないなにかが胸にある。

『僕には君だけだから』

 他の女性からアピールをされた際、いつもかけてくれる言葉だ。

 けれど、今日に限って何故か、―――なにかが耳の底に引っかかっている。はっきりとは判らないけれど、もやもやとした齟齬(そご)のようなものが、ある。

 どうしてだろう。

 いままでのように彼の言葉をすんなり気持ちに収めることができない。

(どうしたんだろう?)

 なにかが、変だ。

 素直に心が言葉を受け入れてくれない。

 いったいいつから違和感を覚えるようになったのか。

 思い当たるものは、ひとつしかない。

 ―――あの頭痛。

(……かも、しれない)

 いや、もうそうとしか思えない。

 あの頭痛から、すべてが変わってしまっている。

 襲ってきたときと同じく、今朝意識が覚醒したときにはぴたりとおさまっていた激しい痛み。

 恐るおそる身体を動かしても、蓄積した強い疲労に引きずられる感覚はあったが、頭痛がぶり返すことはなかった。

 ようやくあの辛い苦しみから解放されたのかと、長い吐息が唇から洩れ出でた。

 そうしてあらためて部屋へと目を転じたとき、レーナは目の前の光景に言葉を失った。

「……!」

 目に飛び込んできた光景はあまりにも眩しく、強い色彩を放っていた。

 朝の陽光に照りつけられているだけではない。自分の部屋の様子が、窓から見える外の光景が、これまでとはまったく違っていた。

 すべてが、鮮やかすぎた。

 鮮やかで細やかで。いつもと同じ部屋の姿なのに、まったく知らない顔を見せている。

 天蓋から垂れるカーテンはこんなにも白かったろうか。ひだの陰影には地の模様が浮かび上がっていただろうか。寝台の上掛けの色はこんなにも濃い緑色だったか。壁に掛かっている絵画は、昨日もあっただろうか。

 壁の色、絨毯の色はこんなにも鮮やかだったか。

 窓からの空は、あれほどまでに青く透き通っていたか。

 太陽の光は、柔らかいのに、なのにこんなにも強い力があっただろうか。

 木々の緑。自分の肌の白さ。金色の髪はこんなにも赤みを帯びていた?

 ―――判らない。

 いままでがどうだったかが、まったく判らなかった。

 窓を開けて頬に触れる風は涼やかで、心地よい。

 緑の匂い。鳥のさえずる声。

 これはなに。

 世界はあまりにも鮮明で、新しすぎてめまいすらする。

 なんなのか判らない。

 こんなこと、初めてだった。

 これまで感じたことのない感覚に、全身に鳥肌が立った。

 世界の存在が、目覚めたばかりのレーナの上にのしかかっていた。

 五感が異様に研ぎ澄まされている。

(でも……、それだけじゃない……)

 意識自体も、いままでとは違っていた。

 いつもなら気にならないことが気になってくる。

 自分はおかしくなってしまったのか。

 ―――もしもそうだったら、ここにはいられない。

 どうしてだか、そう思った。

 だから、この自分の異変は誰にも言えなかったし、認めたくもなかった。

「具合、まだ悪いのか?」

 押し黙ってしまったレーナに、ヨアンが心配そうに訊く。じっとこちらを見つめる眼差しに、レーナは曖昧に首を振った。

 申し訳なくも、ヨアンに対しての気持ちもそうだった。

 彼を愛しているという想いはある。独占したいという想いも。

 いままでだったらその気持ちに疑いなんて持つこともなく、ただまっすぐヨアンの胸に飛び込んでいたのに、何故だか足はためらいで動けず、表情もこわばりそうになる。

 ―――自分の中に、自身ですら見つめることのできない深い深い場所に、なにかがある。

 ヨアンに対して、得体の知れないなにかを、無意識が感じていた。

 だがそれに意識を向けてはならないともうひとりの自分がまた無意識下で警告をしている。

 だから、わけが判らないまま身動きができなくなる。

「―――大丈夫」

 レーナは、無理やり笑みをつくり、ヨアンを見つめ返した。

「無理するな。僕に気を遣ってるわけじゃないよな?」

 病み上がりのレーナを今夜の舞踏会に誘ったのはヨアンだった。

「ううん、本当に大丈夫よ。―――そばにいたいし」

 不安なのだ。

 自分が、得体の知らない化け物になってしまう気がして、怖くてならなかった。

 胸に巣食う暗い思いを封じられるわけもないのに、レーナはヨアンの腕に絡めた手に力をこめる。

「気分が悪くなったらすぐに言うんだぞ。我慢するなよ」

「ありがとう」

 ヨアンの心遣いが嬉しかった。

 ロマン・トゥルダには〝病気〟が存在しない。大きな怪我も不思議とない。だから医者は存在しても、今回のような原因不明の頭痛に対処できる腕の持ち主はいないのだ。

 そもそも三日も続く頭痛自体がありえなかった。

 激しい頭痛に襲われたと聞いたカミラの反応は、ロマン・トゥルダの住民ならば当然だったのだ。

 彼女の突然の症状は家族にはなすすべもなく、ただ彼女の痛みが消えるのを神に祈るしかなかった。

 ヨアンはレーナの異変の連絡を受けてすぐに駆けつけ、そのままずっとそばにいてくれた。レーナが痛みに苦しむときには、そっと背中に手を添えてくれ、汗を拭い手を握ってくれた。家族にとってもレーナにとっても、これほど心強いことはなかった。ヨアンがそばにいたからこそ、原因不明の頭痛を乗り越えることができたのだ。

 なにが起こり、どうなってしまうのか判らなかったろうに、彼は懸命に彼女を看病してくれた。

 心から自分を心配してくれるそんなヨアンに対して不安な思いを抱いているだなんて。彼を裏切っている気がして、自分が嫌になってくる。

 その自分を厭うという感情自体も、初めて覚えた心の動きだった。

 自分を厭う。

 そんな感情があるのだと彼女は初めて知ったのだった。



 何曲踊っただろう。ときにはヨアン以外の男性とも踊ったが、すぐにレーナはヨアンの元へと戻る。

 得体の知れない不安から目をそらしたいという思いもあるのだろうか、無意識に彼を求めてしまっていた。

 どれだけ考えないようにしても、頭の外に追い払っても、どんどん不安は意識の隙間から忍び込んできて、静かに積み重なってゆく。

 曲の切れ目を見はからい、踊りの輪の外にふたりは出た。運ばれた軽い果実酒のグラスを手に、レーナは思いきって訊いた。

「あの、ね」

「どうした? 気分悪い?」

 ためらいがちの切り出し方にヨアンは眉を曇らせた。レーナは首を振る。

「あの。―――こういうのって、楽しい?」

「?」

「わたしたち、毎日こうしているじゃない? 舞踏会だったり夜会だったり。いろいろ。本当に楽しいのかな、って。なんのためにこうやっていつも遊んでいるのかしら。なんか、気になって」

「突拍子もないことを訊くね。君は楽しくないのか?」

 面食らうヨアンの顔に、莫迦なことを言ったと知る。

 夜は昼の後に来るのかと、当たり前のことを尋ねたみたいで。

 けれど、レーナはいつもと違い、この舞踏会が楽しいと思えなかった。

 いままでなんの疑問も抱かず皆の輪の中に身を投じていたのに、どうしてだかこの空間にいるだけで、胸の奥が砂を噛んでいるように(きし)みをあげている。

 眩しいシャンデリアの光。色とりどりのドレス。鳴り響く音楽。ざわめき、お酒の匂い、化粧の香り。それらすべてに圧倒され、呑まれてしまう。

 自分はいままで、本当にこの状況を受け入れ、楽しんでいたのか?

 いまの皆のように?

 訊かずにはいられなかったのだ。けれど、そんなことを尋ねるのはおかしいことだともまた、判ってもいた。

「やっぱり、こんなこと訊くのっておかしいよね」

 自嘲に口元を歪める彼女に、ヨアンはまわりを見渡す。

「みんな楽しむことを追い求めずにはいられないんだよ」

「追い求める……?」

「レーナ」

 遠い目をする彼女にヨアンは優しく声をかけた。

「まだ疲れてるんだよ、治ったばかりだから。無理させて悪かった。もう、帰ろうか?」

 レーナもまわりを見る。まだまだ、舞踏会は続く気配だ。これから盛り上がる雰囲気すらある。だが、これ以上ここにいられるとも思えない。

 ヨアンが言うように、疲れているのかもしれない。

 ただ、疲れているだけ。

「いいの?」

「もちろん。構わないさ」

 レーナを受けとめてくれるヨアンに、彼女は内心ほっとした。と同時にまた、ここにいるにもかかわらず彼が遠ざかってゆく恐怖に襲われた。

(どうして。すぐそばにいるのに……)

 腰に手をまわしてくれているヨアン。見上げれば、優しい眼差しがこちらを見つめている。

 なのに―――、ヨアンが離れていってしまうと差し迫って感じたのだ。

 膝の裏が、ざわめいてくる。

 嫌だ。逃したくない。

 レーナは咄嗟に彼の袖を取った。

「どうした?」

「あ……、ううん、その、ううん、……なにかあった、とかじゃないんだけど……」

 彼の声に我に返る。

(なんなの、いまの感覚……)

 ヨアンがいなくなると何故感じたのだろう?

 自分が判らない。

 どうすればいいか判らなくて言葉を濁すしかないレーナ。ヨアンは微笑み、所在なげな彼女の手に手を重ね、

「しっかり摑まってて。転ぶといけないから」

 穏やかな声で落ち着かせてくれるように言ってくれた。

 もしかすると、久しぶりの夜会に戸惑っていると思われているのかもしれない。

 自分のわけの判らない思いを誤魔化したくて、レーナはヨアンの誤解に気持ちを委ねて頷いた。ヨアンはレーナの手を優しく撫でた。

「ヨアン―――」

 消え入りそうな声になった。

「ずっと、ずっとそばにいてね。どこにも行かないでね?」

「なにを言うかと思えば」

 ヨアンは困ったように笑って腰への手に力をこめた。

「僕が君を置いてどこに行けるというんだ? 知らないのかい? 君がいなけりゃ、僕は生きていけないんだよ」

 気休めでもない、ヨアンの真実の言葉だ。

 ―――それが判るからこそ、いっそう不安に締めつけられる。

 彼が優しい言葉をかけてくれるたび、甘い眼差しを注いでくれるたび、何故だか届かない存在だというはっきりとした思いが湧き起こってくる。

「わたしには、ヨアンだけなの」

 強い不安を押しやり、レーナは言う。

「愛してるの、ヨアンだけを」

「僕はその何倍も、君を愛してる」

 耳に頬に唇に、甘くくちづけられる。

 気持ちを懸命に彼へと傾け、心の底にあるなにかから必死に目を背けた。

 そうして、優しく囁きかけるヨアンに誘われて、レーナはそのまま会場を後にしたのだった。




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