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地へいざなう虫 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 ん、この音。もう蚊の奴が姿を見せ出したっぽいな。ちょっと湿り気が増えてきているのかね?

 つぶらやのところはどうだ? 今年は虫の被害とか出てねえか?

 こいつら一匹一匹は、俺たちの爪の先にすら満たない大きさのことが往々にしてある。だが生来、持っている武器に関しては俺たちの歯や爪はおろか、道具すらも上回る威力があることもしばしば。

 たとえばスズメバチ。こいつに刺されることはもちろん危険なんだが、針が通らねえ相手に関しては、毒液を噴射してくるときもあるんだとか。目へまともに喰らうと、失明の危険さえあるんだとか、ないんだとか。

 これだけの質量差を無視して致命傷を与える武器。俺たちでたとえたら、一匹一匹が常に対物ライフルとかを担いでいるようなもんだろ。おっかねえよなあ。

 幸い、巣とかに近寄らなければ、この手の攻撃は喰らわずに済むようなんだが……ぎっちょん。向こうから近づいてくる脅威っていうのも、ときには存在するらしいんだ。

 俺が昔に体験した話なんだが、聞いてみないか?



 小さい頃の俺にとって、蚊はうっとおしい相手であると共に、おもちゃでもあった。

 俺は蚊を叩いて完全に潰してしまうことを、よしとしなかった。あいつらは死なない程度の力で叩くと、地面に落ちて這いつくばるのがやっとになる。羽を動かして飛び回る力を奪われたわけなんだが、当時の俺は「ショックで飛び方を忘れた」と認識していた。

 記憶喪失を扱ったアニメにはまっていたからなあ。主要なキャラが記憶を失い、取り戻すまでの挙動を見るとドキドキする。もともと視聴者側が知っているときにはニヤニヤだな。


 蚊に対しては後者だった。

 先ほどまで俺の周りをうっとおしく飛び回り、血を吸わんと躍起になっていたのが、いまは地べたをはいつくばっている。こちらへ襲い掛かってくるそぶりも見せず、右往左往するさまを見るのが、楽しく感じられたんだ。「ほれほれ、早く飛び方思い出さないと、逃げ出せないぞ〜」という具合にな。

 これ以上、手を下すような真似はしない。残された「記憶」でもって、こいつらがどこをさまよい、いかにして力尽きていくのか。それをひたすらに見守るだけだった。

 ひょっとしたら、人間を見る神様の気分ってこんなもんかもしれない。はじまりだけ手を出して、あとはのんびり観察する。救いとか試練とか、あくまで俺たちが自分で決めつけただけで、神様側にはそんな意図、ぜんぜんなかったりしてな。



 最初は家の中でやっていたが、どうしても俺の活動範囲が限られる。棚のすき間とかに入られちゃあ、見届けることができない。

 だから俺は、次第に外で出くわす蚊を対象にし始めたんだ。俺たちでさえ、この世界の点のごとき一部を練り歩くのだって骨なんだ。蚊にとっちゃ、もはや宇宙も同然の広さだろう。

 その中を、残された命でどのように歩んでいくのか。俺は時間のあるときには、自ら蚊を求めて出かけ、試練を与え続けた。楽しいのが前提だから、力加減を誤って殺してしまったり、飛んで逃げられたりしたときには、がっくり来たっけな。



 そんなあるとき。

 今回も首尾よく一匹の蚊を落とし、相手が地面をのそのそと歩きだすのを見て、後を追いかけ出したんだ。

 場所は田んぼのあぜ道の上。道のわきへ茂る草の中へ潜り込まれると面倒な地形だが、今回の蚊は「わだち」となった砂利の上を熱心に伝って歩いている。いちおう前後も見て、すぐには他の人や自転車のちょっかいが出なさそうだと確認した。

 たいていの蚊は、道半ばで――そもそもどこが目的地かしらないが――力尽きる。次いで途中で飛び方を「思い出し」、僕を置き去りにしていくか。他の生き物に襲われてやられるのは、僕が見た限りではまれなケースだった。

「今度はどんな余生を見せてくれるかな」と、舌なめずりする心持ちで、数十メートルを進み終える。



 ふと、蚊の動きが止まった。同時に、少し遠くの路上で車が急ブレーキを踏む音が響いたが、俺はさほど気にしない。蚊の次のアクションを眺めるべく、じっと小さな体を見つめる。

 すると蚊が突然、上体を起こした。人から見ればほんの些細な高さに過ぎないが、確かにこいつは立っている。

 血を吸うとき、しっかり針を刺すまで空へおっ立てるままでいることの多い、後ろの二つの肢。こいつらを支えにして、蚊はそれより前の体部分を起こしていたんだ。

 にわかには信じがたい。あんな体重のかけ方じゃあ、すぐに肢がぽっきりと折れて、動けなくなってしまうはず。それがまがりなりにも、数秒以上を耐えていた。

 上体の動きもせわしない。いまや垂直近く持ち上がった羽のある胴。そこから伸びる残りの肢を、じたばたと暴れるように上下させている。

 まるで水の中をかいて進まんと、必死になったもがいているかのようだった。

 

 チリン、チリンと後ろから自転車の音。

 さっき確かめたときにはいなかったのに、近くの家から出てきたのだろうか。僕は道のわきへどくも、蚊はそんなこと知るよしもなく踊り続けている。通り過ぎる自転車のタイヤと蚊が重なったように見えて、あわやと思ったけれど蚊は無事だ。

 ギリギリで軌道が外れたんだろうが、今度はその自転車に乗っている人に異変が起こる。

 

 

 不意にハンドルから両手を離すドライバー。そのまま空へと腕を伸ばしたかと思うと、平泳ぎでもするかのように、腕を大きく動かし出したんだ。

 そんな状態で運転ができるはずがない。たちまち自転車は横倒しになり、運転手の右足は地面と車体に挟まれて嫌な方向へ曲がっていた。

 だが運転手はやめない。ときおり「ひい、ひい」と悲鳴じみた声を漏らしつつも、空を手でかき続けている。足にのしかかる自転車をどかそうともせず、一心不乱に。

 

 これはさすがに、何かが変だ。

 僕は逃げ出そうとしたけど、そのとたんに足元がいきなり消える感覚がした。

 眠っているときにないか? いきなり崖から落ちて「うわっ」と目が覚めるやつ。あれの長いバージョンだと思ってくれ。

 しかも引き込まれる直前、ざぶんと音がして周りを季節外れの冷たさが覆いだす。そのうえ、まともに息をすることができなかった。視界がにわかにぼやけ、鼻や口からはちょうちんでもないのに、あぶくがぽこぽこと立ち上る。

 

 俺は水中に引き込まれていた。陸の上にいながらだ。しかも落ちる感覚はなおも続いて、体にかかる重さはどんどん増していく。

 冷静になんかなれない。反射的に、本能的に、俺は頭の上を目指して両腕を必死にかいていた。落ちる感覚に拮抗し、あわよくば「浮かび上がって」、この状態を抜け出さなきゃいけない。

 息は相変わらず詰まっている。声を出すわけにはいかない。助けも呼べず、俺はいまだ前方で同じようにあがいている人の背中を見ながら、もはや解放を願うばかりだった。


 どれくらい経っただろう。前の運転手の横を通り抜け、こちらへ一直線に向かってくる、小さな黒い粒があった。「ぶつかる!」とも思ったが、そいつは俺のこめかみすれすれを抜け、背中へ抜けていく。かろうじて、羽が生えていることは分かったが、それ以外ははっきりしない。

「なんだったんだ」と思っていると、足を引っ張る力が急激に弱まり出す。ほどなくまた、ざぱっと音がして空気が戻ってきた。


 ――助かった!


 俺は腕を休め、存分に深呼吸をして酸素を思う存分味わった。

 前方の運転手は、いまや体をかがめ挟んだ自分の足をいたわっている。嫌な角度に見えたが本人には問題ないのか、再び自転車にまたがって漕ぎ始めた。

 そして件の蚊は地面に倒れこんで、もう動く様子を見せない。疲れ死んだのか、もしくはあの感覚におぼれ死んだのか。確かめることはもうかなわなかった。

 そして先ほど聞こえた急ブレーキの原因。俺は後日に知ったんだが、どうやら横断中の歩行者がいきなり動きを止め、がんがんに飛ばしていた車の運転手がぎりぎりで気が付いて、踏み込んだらしいんだ。



 のちに俺は、虫などが持つフェロモンの存在を知る。

 多くは異性や仲間を引き寄せるものだが、外敵を追い払うのにも使えるらしい。

 俺はあの時の幻覚が、ひょっとしたらあの通り過ぎた虫のもたらしたものじゃないかと思っている。その効果が現れるのは、図体の小さい蚊のほうが早かったんじゃないかともな。




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