第1話 ある日常
夏休みが終わり、またいつもの学校生活が始まった。
ここ最近、どこか閑散としていた大学構内に、久々の活気が戻ってきた。
構内に見られる人の様子は、夏休みの思い出を友人同士で語り合っている人や、次の講義に向けて、足早に移動する人、気怠げにベンチに座っている人など人それぞれである。
そんな中、眠たげで、活気に富まず、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら立っている、青年が一人。
彼は、一人暮らしをしながら関東の大学に通う大学一年生で、名前は霧ヶ峰翔矢という。その様相を見るに、周りと関わりを持つ気はないらしく、一人でいることを当たり前に享受している。むしろ、一人でいることに幸せを感じている雰囲気すら感じられる。しかし、ごくわずかではあるが、そんな翔矢に積極的に関わりに行く人もいた。
「おはよう翔矢、朝から元気なさそうだけど大丈夫?」
「おはよ、朝から気分が悪くなるものばかり見せられて辛い。」
彼女がその一人の中桐香織。翔矢の高校時代からの友人であり、高校生の時には、持ち前の人と関わろうとしない性格で孤立していた翔矢と唯一関わっていたことで、周りを騒がせることもあった。
「気分が悪くなるもの?」
「ああ、上辺の会話だけで群れてる集団。」
「もうっ、またそういうこと言ってる!せっかくの大学生活なんだからいろんな人と仲良くしようよ!」
「アホらしい、あんなつまらないことやってる時間はないね。他に面白いことたくさんあるんだから。」
高校時代からこの二人は似たようなことを繰り返しており、もはや二人の間ではこのようなやりとりが定番となっている。
「そういえば中桐は第三言語、何とった?」
「もぅ・・・・。第三言語は化学との親和性も考えてドイツ語にしたよ。」
「ん、やっぱり化学専攻はドイツ語安定か。」
「翔矢もやっぱりドイツ語とったの?」
「言語の勉強は面白くないからとりたくなんかなかった・・・・。」
二人とも仲の良い雰囲気で、それぞれとった講義についてなど、他愛もない会話を繰り広げる。
それからしばらく会話が流れ、二人がともにとっている、次の講義の話になった。
「次は清田教授だよね?」
「おう、もうそろそろ始まるから席を取に行かないと。」
「本当、翔矢は清田教授の講義好きだよね。」
「教授自体はクソだけどな。」
清田教授は化学系の教授で、珍しくも翔矢が積極的に関わる人の一人だ。香織も翔矢を通して清田教授と関わる機会がそこそこあった。普段、悪く言っているが、好きなことに対する清田教授の姿勢を、翔矢は尊敬している。
「確か、理学部棟の一階だったよね?」
「・・・・そうだっけ?」
「楽しみにしている講義の開かれる教室くらい覚えとこうよ、翔矢・・・・。じゃあ少し時間は早いけど教室に行こっか。」
こうして、翔矢と香織は清田教授の講義が開かれる教室へと向かった。
まだ講義開始の時間には間があるためか、教室内にはそこまで人はいなかった。翔矢と香織は、座る場所をとるために前の方に向かった。
「そういえば昨日、理佐さんから連絡があって、全部の講義終わったらいつもの実験室に来てだって。」
「なぜ先輩は、毎回俺の呼び出しの連絡を直接俺に送ってこないのか。」
「翔矢君、連絡送ってもまったく反応ないから。」
突然、後ろから声が聞こえた。
「・・・・先輩、なんで次、一年の講義の教室にいるんですか?」
「私、去年この講義落としてる。」
「二年主席の先輩が単位落としたって何の冗談ですか?」
翔矢と香織に声をかけてきたのは、翔矢と香織の一つ先輩の藤崎理佐。翔矢が言ったように、学年主席になるくらい賢くはあるが、普段はどこか抜けている雰囲気がある。
「去年、この講義の試験の日、寝坊して受けることができなかった。」
「何やってるんですか。まぁ、なんとなく想像できてましたけど。」
翔矢は呆れた表情で返す。
「というか理佐さん、この講義に出るならここで翔矢に伝えれば良かったじゃないですか?」
「なるほど、その手があった。」
「この先輩、アホだ。」
「翔矢、そういうこと言わない。」
翔矢の言葉を、香織が咎める。だが、香織の表情もどこか呆れを含んでいる。
「勘違いしてるみたいだけど、今日の放課後は、香織ちゃんも一緒に来て。」
「え!?私もですか?私は翔矢みたいに、特別化学に詳しいわけでもないですよ?」
「うん、今回は専門的な知識を持ってる人というより、純粋な労働力が欲しいの。」
「そういうことならお手伝いさせていただきます!」
香織は、やる気を感じる身振りとともに手伝いを承諾した。そんな様子の香織とは反対に、翔矢は消極的な態度を見せる。
「え、先輩。俺、単純労働させられるんですか?」
「うん、今回は翔矢君にも頭脳労働じゃなくて肉体労働のお手伝いをお願いしたい。」
先輩の言葉を聞いて、翔矢はことさらに不機嫌そうな顔になる。
「絶対嫌です。なんでそんな面白くなさそうなことをしなくちゃいけないんですか。」
「・・・・もう少し考えてから断ろうよ、翔矢。」
にべもなく断る翔矢に、苦笑いの香織。ただ、理佐は気にした様子もない。
「そんなことを言ってても翔也君は手伝ってくれる、優しいから。」
「え、先輩。何か強い強制力を感じるんですけど。」
「強制力?」
理佐は、不思議そうに首を傾げる。
「まあ、そんなつもりはないんだろうな、とは思ってました。」
「翔矢が面白くないことやりたがらない性格なのを知っててなお、先輩は頼んでるんだし、かなり必要なんじゃないですか?」
「うん、できればお願いしたい。」
再度頼まれてなお、渋い顔をしていたが、良いことを思いついたらしく、
「・・・・分かりました。その代わり、先輩の時間を少し僕にください。」
手伝う代わりの条件を提示する。
「いいよ。いつ?」
「今週の水曜日の午後が空いてたらそこでお願いします。」
「大丈夫。じゃあ予定入れないようにしとく。」
翔矢は、三日後の水曜日の理佐の時間を所望した。このやりとりを、香織は苦笑いで眺めている。
「翔矢、何があるの?周りの人に、デートの約束と勘違いされるようなやりとりしてるけど。」
「ん?今回はただのデートの誘いだぞ?」
翔矢の言葉に、香織は少し驚いた顔を見せる。
「あれ?二人って付き合ってたの?」
「いや?別に付き合ってないけど。」
翔矢は不思議そうな顔で香織を見る。理佐も、香織が何を言っているのか分からないという表情である。
「あれ?これ私がおかしいのかな?普通、デートって付き合ってる人同士がすることだよね?」
「普通とか知らないけど、前から興味があったから。丁度いいし先輩とやってみたいなと思って。」
「私も翔矢君とならデートしたい。」
興味がある、それだけでデートしようと試みる翔矢。別に翔矢とならデートするのもかまわない、むしろしたいという態度の理佐。そんな二人を前に、呆れ顔の香織。
「二人とも、もう少し常識を勉強した方が良いと思うの・・・・。」
「別に、常識通りの行動をして面白いならそうするけど・・・・ねぇ?」
分かりやすく意味を含ませた翔矢の言葉に、隣で、気怠げに首を縦に振って同意の意思を見せる理佐。
「・・・・ていうか、お互い好きって気持ちがないと、デートって成り立たないんじゃない?」
「私、翔也君のこと好きだよ?」
「俺も勿論、リサ先輩のこと好きですよ。」
「今は友愛の話をしてるんじゃないんだけど・・・・。」
そこで、講義が始まるチャイムが鳴り、周りの喧噪が落ち着き始める。・・・・しかし、程なくして、また辺りが喧噪に包まれていく。
「教授来ない。」
「まぁ、いつものことですよね。」
「清田教授は遅刻の常習犯だからね。」
特に表情を変えることなく呟いた理佐に、当たり前のことだと勉強の用意を出してすらいない翔矢。香織も苦笑いしている。
結局、教授がやってきたのは授業開始のチャイムから十分ほどたった頃だった。
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