7
階下に下りても緊張しっぱなしの私を見て、お母様がくすくすと笑い声を零した。
「そんなに固くならなくても大丈夫よ」
「はい……」
とは言うものの、意識をしてリラックスするのはとても難しい。
なにせ、私の今後が懸かっていると言っても過言ではないのだ。知らず、身体に力が入ってしまう。まるで受験の合否発表でも待っているかのように心臓が忙しない。
そわそわしながら過ごして、15分ほど経っただろうか。ミスターレインに伴われて1人の男性が入室してきた。
「やあ、久しいねセオ」
「ご無沙汰しております、ロジャース卿」
応接間にやって来たその人に、お父様が気安い調子で声を掛けた。
礼をして、上げられたその顔を私はじっと見つめる。
顔に刻まれた皺から、年の頃は50近くに思えた。くすんだ鈍色のローブで全身をすっぽりと覆っているためか、これといって目立つ印象はない。
「お元気そうで安心したわ」
「夫人におかれましてもお変わりなくお過ごしのようで何よりです」
お父様もお母様も昔から何度かこの人にお世話になっているのだという話は、テレーゼから聞いていた。
検査士というのは専門職で、就いている人数もそう多くない。親子揃って見てもらうことも珍しくないらしい。
「ここにいるのが娘のアイリーン。今日の主役だよ」
お父様の紹介を受けて、セオと呼ばれた検査士の視線が私に向いた。
……あまり愛想がない。いや別にニコニコして欲しいわけでもないけれど。
右足を引き、左の膝を少し曲げる。スカートの裾を両手で摘みながら私は礼を執った。テレーゼとクラリスのお陰でそれなりに形にはなっている、はずだ。
「初めまして、アイリーンともうします。本日はどうぞよろしくおねがいします」
ちらりとお母様を見遣ればにっこり笑っていたため、及第点は貰えたのだと理解した。
「初めまして、レディ・アイリーン。私はセオドア・マレットと申します。どうぞお気軽にセオとお呼びください」
使用人に囲まれているうちに慣れたと思っていたけれど、前世の自分よりもはるかに年上の人に畏まられるのはやはりなんだかムズムズする。これから外に出ていく機会が増えれば馴染んでいくのだろうか。
セオの言葉に、了承の意味を込めて私はこくりと頷いた。
「では早速始めても……?」
「そうだね、まあ急ぐことでもないけれど。君は無意味に時間をかけるのが好きじゃないしね、早く終わらせようか」
「恐れ入ります」
一体全体私は何をやらされるのだろう。
検査の内容自体は誰に聞いても教えてもらえなかった。与えられたのは『難しいことではない』、その情報だけだ。
ますます強ばる私を他所に、セオは手に持っていた大きな鞄から杖と綺麗な小瓶、直径10cmほどの透明な水晶玉を取り出した。
「まずはこちらをお飲みください」
セオの動きを注視していれば、ずいと小瓶を差し出された。
戸惑いつつも受け取ってそれに目を向ける。
底の平たい部分にかけてのフォルムは鈴蘭の花のような曲線を描いていて、飲み口の部分だけが2cmほどストローのように伸びていた。中で揺れるのは綺麗な赤色の液体。
被せられていた蓋を外して鼻を近づける。匂いはない。アセロラジュースだとでも思って飲めば良いだろうか。
怖々口をつけ、一気に飲み下した。
と、レモンをそのまま噛み締めたかのような酸っぱさが一瞬にして口内を支配した。
その後には、必要以上の時間をかけて淹れられた珈琲のような強烈な苦味。
それぞれに関して言えば、別に不味くはない。不味くはないけれど、とてもつらい。み、味覚がおかしくなる……!
既に涙目な私を心配そうに見つめるお父様達に、大丈夫だとジェスチャーで伝える。
「汝の血、汝の骨、汝の命。総てを司るものよ。テオトルの僕として其の在るべき姿を示せ」
セオが何やら言いながら杖を振っているが、今の私にはそれを聞き取るだけの余裕はない。
何度も唾を飲み込んで、はちゃめちゃな口内状況を改善しようとしているからだ。
「では、こちらを」
次いで差し出された水晶玉を、ほぼほぼ反射のようにして受け取る。何でもいいから早く終わらせて口をゆすぎたかった。
けれどその水晶玉を両手に持った瞬間、それまでのことが嘘だったかのように、口の中を支配していた酸味や苦味が立ち消えた。
同時に、セオが一瞬顔をしかめたのを私は見逃さなかった。
その視線の先は私の手元、つまりは水晶玉。つられて目をやると、つい先ほどまで透き通っていたはずのそれの中に奇妙な靄が漂っていることに気が付いた。
「……ロジャース卿、申し訳ありません。こちらの不手際で少々問題が発生してしまいました」
物珍しげに水晶玉を眺めていれば、セオがくるりとお父様の方へ身体を向け、そう言った。
待って、問題発生?
「珍しいね、君でもそんなことがあるのか」
「返す言葉もございません。つきましては、再検査のための準備を行わせていただきたく……」
「構わないよ、時間は十二分にとってあるからね」
「ご厚情痛み入ります。修正作業のために一度お嬢様を除くすべての方にご退出いただく必要があるのですが、よろしいでしょうか」
「わかった。セシル、一旦出ようか」
「そうね。どれくらい待っていればいいのかしら?」
「そうお時間はいただきません。10分もかからないかと思われます」
私を置いて大人達による会話がぽんぽんとなされていく。
これはもしかしなくとも、私はまたあの酷い味の液体を飲まなくてはならないのだろうか。
考えるだけで嫌気が差してくる。痛いことでないのは救いだけれど、もうちょっとマシな方法が良かったと思ってしまうくらいには。
「それじゃあまた後で」
私が口を挟む間もなく、お父様達の話はまとまったようだった。従僕やメイドに至るまで部屋にいたすべての人が扉の外に消え、私とセオだけが残される。
正直居た堪れない。その道何十年のプロが失敗をするなんて、明らかに私の方に問題があるのだと思うし。
これも転生のせいなのかなあと考えていると、突然セオの手が頭に伸びてきた。
「え、え?」
「……やっぱりダメか。レディ・アイリーン、先ほど貴女が飲んだものはどんな味がしましたか?」
「味……?え、と、ものすごいすっぱくて、にがかったです」
「2つ?それも強烈な?間違いないですか?」
「はい……」
ひたすら疑問符を浮かべる私と黙り込んだセオとの間に奇妙な沈黙が生まれる。
無愛想な中年男性に無言で見つめられると威圧感が、とそこまで考えたところで何かが頭の端に引っかかった。なんだろう、うまく言葉にならないけれど、気持ちの悪い感覚だ。
違和感の正体を探ろうとする私にセオが薄く笑った気がした。その口がゆっくりと開かれる。
「2年も連続でこんな金の卵に会うとは思いませんでした」
その言葉が誰に向けられたものなのか、理解するのに数秒を要したのは仕方のないことだったと思う。