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セオが私の家庭教師となってからの日々は飛ぶように過ぎ去っていった。
ハプニングといえば、魔法の授業で書きなぐっていたノートをうっかりお母様に見られてしまい、誰に字を教えてもらったのかと尋ねられたことくらいだろうか。
苦し紛れにセオに教えてもらったのだと言った私をお母様は疑うことなく、「魔法だけでなくお勉強の方もお願いしようかしら」と非常にポジティヴな方向に捉えてくれた。おおらかというか、なんというか。
私にとっては有難いのだけれど、お母様の中の3歳の子供の基準はまったくもって謎である。少なくとも、私の前世でのそれとは大きな隔たりがあるだろう。
ともあれ、その結果としてセオの仕事量が増えてしまったのはそれからそう経たないうちだった。
申し訳ないと謝る私にセオは気にするなと軽く笑い、そんな彼の優しさについつい甘えてしまっている私がいることは否定出来ない。
セオは口裏を合わせてくれただけでなく、結局のところ誰に教えてもらったのかと聞いてくることすらしない。
曰く、「秘密にしたいことは誰にでもありますから」ということだが、一体どこまで良い人なのだろうかと感動しきりだ。
私がせめてもの報いにとせっせと勉強に励んでいたのは、当然の流れだと言える。
未知の分野を学ぶということは思った以上に面白い。
セオの協力のお陰で読み書きができることを隠さなくてもよくなってからは、授業のない日も私は暇な時間を見つけては家の図書室へと通いつめた。歴史書、童話、伝記、図鑑などなど、手当たり次第に読み漁っていた。
夜更かしのし過ぎで何度テレーゼに注意されたか覚えていないほどだ。
魔法を学び、読み書きを学び(ということになっている)、本の虫になり――2年という年はあまりにも短く、それらを極めるには至らなかった。
ただ、そんな中でも私の歳は着実に重ねられていたことは事実だ。同時に、面倒な話し合いも。
5歳の誕生日の朝、お父様の執務室へ呼ばれた時に私はそれを思い知ることとなった。
「急な話に思えるかも知れないけれど――明日、ブラウン家へ行くからそのつもりでいなさい」
「お誕生日おめでとう、僕の天使。プレゼントは気に入って貰えたかな?」などという、定型句と化している甘ったるい言葉とお祝いの言葉の連投をされた後に、突然のこの一言。一気に私の思考が停止してしまったのも仕方の無いことだろう。
目覚めていの一番に目に入ったプレゼントの、大きなくまのぬいぐるみ(なんと110cmほどある私の身長よりも大きい!)がとってもとっても気に入って浮かれ気分になっていたことが、一瞬にして吹っ飛んでいってしまった。
「ブラウン家って、あの……?」
「なに、少しお話をするだけだよ。難しく考えなくても大丈夫。僕も一緒に行くからね」
違うんです、そういう問題じゃないんです。事実上のお見合いでしょう、それ。あとは若いお2人で……なんて結局2人きりにされる展開は目に見えてるんだからな!
叫びまくる心中をなんとか鎮めて、私はお父様に不安そうな顔をしてみせた。
「お父様、でも、あの私……お名前もお顔も存じ上げない方は、その……」
散々覚悟はしていると言いつつ、やはりいざ何も知らない相手と婚約しろと言われると尻込みしてしまう。
この世界には何故か写真がない。写真のぼやっとした概要を伝えながら、魔法絵本の応用で作れないのかとセオに尋ねたことがあるけれど、諸々の理由でどうにも難しいとの回答を得た。
三次元の人や風景を静止画として記録することは、元から存在する二次元のものを浮かび上がらせるのとは全然訳が違うそうだ。遠視のような中継魔法があるから、不可能だとも言い切れないらしいけれど……。
兎にも角にも、私はそのブラウン家の子供――恐らくは私の婚約者候補――について、苗字と次男であること、魔法の才能があるという情報以外は何も知らないのだ。それこそ、基本的な名前すら。
それに対して、お父様はなんだそんなことかと言わんばかりの口ぶりで私に言った。
「ああ、そうだったね。顔は姿絵を取り寄せるよりも明日会った方が早いからそれとして――ギルバート・ブラウン、それが彼の名前だよ」
ギルバート・ブラウン。
その名前を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが弾ける音がした。
目の前がチカチカする、音が聞こえなくなる。
世界から切り離されたそれらの代わりに流れ込んできたのは、液晶越しに優しい笑みを浮かべるダークブラウンの髪と瞳を持つ青年の姿と、華やかなバンドサウンド。
永遠にも思えたその時間は現実ではものの数秒だったらしい。石のように固まる私に、取りなすようなお父様の声が掛かる。
「すまないね、折角の誕生日なのに。さあ、食堂へ行こうか。料理長が張り切ってお前の好物を作っていたようだからね」
その声になんとかこくりと頷きはしたものの、私の頭の中を埋め尽くすのはきっと出てくるであろう特製アップルパイのことではなく、先程突如として脳内へ降ってきた映像のことだった。
いや、思い出したという方が正確かもしれない。
私の頭がおかしくなってしまったのでなければだが――この世界を、私は知っている。
何故なら恐らくここは、前世で私がプレイしていた乙女ゲームの世界だからだ。
前世の私は高校時代友人に勧められたことをきっかけに、乙女ゲームにハマっていた。
時には鬼の姫になり、時には江戸明治大正などの過去にタイムスリップし……数々のイケメン達と、文字通り寝る間を惜しんで恋愛模様を繰り広げていた。
『君に花束を』というタイトルのそれは、スマートフォンでリリースされていたアプリだった。
絵柄に惹かれ軽い気持ちでダウンロードした私はみるみるうちにハマっていき、気が付けば課金シナリオ全てを開放していた。
そこで終われば良かったのだが、幸か不幸かヒットしたその作品はアプリからポータブルゲームのカセットへと移植された。
そのため私はドラマCDを買い揃え、店舗別特典のために同じ内容のゲームを5万かけて6本購入し、発売記念イベントへも参加していた。
続編が出る頃には大分熱も冷めていたためそちらに手は出さなかったのだけれど、オープニング曲をフルで歌えるくらいに前作がお気に入りなことに変わりはなかった。
とにかく私は、『君に花束を』というゲームにハマっていたのである。心の底から。
それなのに、だ。今の今まで、名前を聞くまで私は欠片もその情報を思い出さなかった。
これは一体どういうことだろうという疑問が、ふつふつと湧いてくる。きっと考えても答えを得られる日は来ないのだろうけれど。
正直、そんなことよりも今は優先して考えるべきことがある。私についてだ。
アイリーン・ロジャース――私の記憶が正しければ、その名前は攻略対象の1人のルートにおいて婚約者として登場するキャラを指していた。
つまり、私はヒロインどころか当て馬なのである。




