マイ アストロノーツ
間を色々すっ飛ばしたので、後々補完する予定。
仏教徒の宇宙とキリスト教徒の宇宙は、違う宇宙なのだという。
宗教社会学の入門書の一節に、そう記されていた。
この宇宙を作った、つまり宇宙の外側にいるキリスト教の唯一神と、
宇宙の中心にいるお釈迦様。
仏教徒とキリスト教との宇宙の捉え方は、まるっきり別のものであると。
「それ読んだときにさ、モーツーのあの連載はすごいなって思ったんだよね」
地下鉄駅のホームに並んで立つ、自分より10センチほど目線の高いクリスチャン兄弟を見やる。
マサさんはまだ私の言わんとしていることを理解できない、そう言いたげな表情をしていた。
「あれ、イエスとブッダが日本でバカンスする漫画、知らない?」
タイトルを告げると「ああ、聞いたことはありますね」という返事が返ってきた。
「聞いたことはありますけど、宇宙の話からどうその漫画に繋がるんです?」
「だって違う宇宙を見ている存在が立川の安アパートで同居してること考えてごらんよ。
2つの宇宙が立川で出会ってるんだよ」
構内アナウンスが、次の電車の接近を告げた。
ややカーブして見通しの悪いホーム、その線路の先は暗闇が口を開けている。
暗闇の真ん中にかすかな光がちらつき、少しずつこちらに近づいてくる、
その瞬間を見つめているのが好きだ。
銀河鉄道が夜を往くのを見るのはこんな感じだろうか、と思うのだ。
夜に飛び立つロケットかシャトルでもよいかもしれない。
電光掲示板に表示される終点駅は、マサさんが住む街よりも手前の駅。
私たちは扉を開き、閉めた電車が再び闇に消えゆくのをその場から動かずに見送った。
本当は私は先程見送った電車に乗っても自分の最寄り駅で降りられるのだけれども、
彼と一緒にいるときはいつも付き合って見送ることにしている。
「面白いですか、その漫画」
「私は面白いと思うけどね。けどマサさんはどうかなあ」
「というのは」
「イエスが父さん、って呼ぶ存在が時たま出てくるんだけれども」
イエスの父はすなわちマサさんにとってのみ父。
思いをこめ、力をこめ、魂をこめて愛するべき神だ。
「イエスが時たま父さんに東京土産を催促されたりしてる。鳩サブレ買ってこいとか。それはマサさん的にありなのかなーと」
「あまり読みたいとは思わないですね」
我が愛するクリスチャン兄弟の眉間には、わずかに皺が刻まれた。
神の子イエス・キリストをジョークに登場させるのはまだ許せるが、
その父である神を弄るのは許せないラインであるらしい。
電車が再び闇を割いてホームに滑り込んできた。
行き先表示を確認して、マサさんに続いて乗り込んだ。
「大体、エルサレムに鳩サブレがあると思いますか」
自分の家にないものだからこそたまには食べたいのではないだろうか、と思ってしまったが、
口には出さなかった。
たまには鳩サブレなんかいかがですか?と呼び掛けても、きっと神から答えは返ってこない。
そろそろこの話題は終わりにしたほうが良さそうだ。
扉横の手すりにもたれ掛かる、いつものポジションに収まったマサさんの横に立つ。
彼の身体の片側に寄り添う格好だ。
「ね、立川の部屋で二つの宇宙が出会うこと考えてたら私思ったんだけど」
マサさんが腕組みしながらもたれる手すりに腕を絡めて、走り出す列車の振動に耐える。
「今まで違う場所で暮らして価値観を異にする二人が一緒に暮らすってだけで、
ある種二つの宇宙が出会うみたいなものって思わない?」
「実際のところ家の中の姿とか生活習慣は一緒に暮らさないとわからないこともたくさんありますからねえ、きっと。
自分の理解できる範囲の外って意味でも、違う宇宙というのは言い得て妙かもですね」
ちょっとおもしろいですねそれ、とマサさんが言う。
「じゃあ、じゅっちゃんの部屋はじゅっちゃんの宇宙ですか」
「そそ、私だけの宇宙」
どっかでブラックホール生まれてそうですもんね、と彼が笑ったので、
うるさいよ、と彼の腕をつかむ。
組まれた彼の腕の内側で、彼の指が私の指を捉えた。
指先を絡ませたまま、電車の揺れに身を任せる。
窓の外の江戸川は、夜のこの時間はどこまでも黒が広がるのみだ。
転々と光る街の明かりは、川を渡る車のヘッドライトは、まるで星が瞬いているように見えた。
この黒を抜ければ、私の住む街はすぐそこだ。
「今日晩御飯何作るんですか」
「豚肉とネギのポン酢炒めと、しめじとわかめの味噌汁。食べてく?」
私の指に絡む彼の指には、一瞬力が入る。
それでも彼の顎先は気まずげに窓の外に向けられたまま、下がることはなかった。
「うち来ても、別に何も変なことしないよ」
冗談めかして言ってみる。
「そういう問題じゃありませんよ」と彼は言った。
そうして今日も私は一人で電車を降りる。
私の部屋の、私だけの宇宙の扉は、未だ彼のために開かれたことはない。
水曜日は、先輩と待ち合わせる日だ。
マサさんが集会に行く水曜日、まず一緒に帰ろうというお誘いを受けないその日が、
いつの間にか先輩と会うお決まりの曜日になっている。
マサさんと一緒に帰るときは職場のエレベーターホールで待ち合わせるが、
先輩はそれを嫌がる。
そのため、職場の最寄り駅から電車に別々に乗り、途中の乗換駅で合流するのが常となっていた。
その日も途中駅で合流し、スーパーで食材を調達して二人で私の部屋に帰ってきた。
「とりあえずどーぞ」
グラスに注いだ冷たいお茶と、先程スーパーで買ったカマンベールチーズを先輩に手渡す。
自分はチーズの一ピースをつまみあげ、口にくわえたまま台所に立った。
下味をつけた鶏肉をグリルに放り込んだあとで、味噌汁用のネギを刻む。
「なんかまた増えてね?」
まだ口からチーズをぶら下げている状態では、先輩からの呼び掛けには応えられない。
数秒かけてチーズを咀嚼して振り返る。
先輩の手のなかに、最近手に入れた宗教社会学の入門書があった。
キャパオーバーの本棚の前に積まれた本の山の、一番上にあったものを手に取ったらしい。
その下にはカルト脱会者の手記を集めたノンフィクション。
マサさんとうちに訪問してくるクリスチャン姉妹からもらった冊子のスクラップも、増え行くばかりだ。
「読みます?」
「いやいい。藤本これ知ってるの?」
先輩が本を手放す。軽く放られるように床に着地したそれは、本の山を揺らして軽い雪崩を起こした。
わり、先輩がそう言って、本の山を整えてくれる。
どのみちちょくちょく雪崩を起こす代物なので、別に構わないのだけれど。
「たまに通勤鞄にいれて空き時間に読んでたりするんで、それ見られたことはありますね。
ただアイツうち来たことないんで、ここまでとは思ってないかもです」
引き寄せられて、先輩の膝のうえ。
口の中に舌を差し入れられる。チーズの味。
正直空腹なのでこれ以上の行為は食事のあとにしてほしいが。
「藤本へのアピールじゃないなら、なんのためにやってるの?」
マサさんより狭い胸に顔を寄せながら考える。
多分、ただ知りたいと思っているのだ。
一度指が絡んだ理由を。
彼が本当はそれを離さなければいけないと思っている理由を。
「結構おもしろいですよ。知ってます?仏教徒にとっての宇宙とキリスト教徒にとっての宇宙は違う宇宙なんですって」
私の背中に回っていた先輩の手が、部屋着のシャツの内側から差し入れられる。
私の背中を這い回るいたずらな手をつかんで押し止めた。だから夕飯を食べてからにしてく れ。
「けど、思想信条関係なく、人ってみんな独自の宇宙を持ってると思いません?」
首と背を支えられる格好で、体を床に敷いたラグの上に横たえられた。
天井を見つめる私の視界に割り込んだ先輩が、いや、俺は特に宇宙持ってない気がする、とさして興味もなさそうに言った。
金曜日は、またマサさんと並んで電車に乗った。
入り口横の手すりに凭れる彼と、その手すりをつかむ私。
「一昨日読みましたよ、あの漫画」
「え、どれ?」
「ほら、こないだ話したモーツーの」
読みたいとは思わない、と言ったイエスとブッダの同居漫画を、どうやら彼は手に取ったらしい。
どういう風の吹き回しなのか。
「どうだった?」
「イエスとブッダがお互いの思想を概ね尊重しつつ面白おかしく暮らしてるのがなかなかに興味深かったですよ」
「ああ、結構仏教ネタもキリスト教ネタも出るよねあれ」
実はイエス・キリストはキリスト教徒じゃないけどね、と続けると、
まあ、日本では大抵の方はそれ知りませんよね。とマサさんが言った。
「けど、読みたいとは思わないって言ってたのに」
電車が一際大きく揺れて、ぐらついた足で2つ3つ床を叩いてしまう。
マサさんに腕を掴まれて、なんとか体制を立て直す。
手すりに腕を絡めて立つ。結果先程よりも彼との距離を詰めて、寄り添うような格好になった。
「なんとなく、視野を広げてみようと思いましてね。とはいえやたらめったら背教的なものを見ようとは思わないんですけど」
私の二の腕を掴んでいた手が離れる。
下ろされていた手は、私の腰の辺りで止まった。
「じゅっちゃんが最近色々本読んでくれてるのと同じです」
「私は背教的な本?も読んでるけど。排斥になった兄弟の手記とか」
「そういうのは、本当はあまりお勧めしたくないですけどね」
窓の向こうに広がる暗闇を、黒に紛れる江戸川を眺める。
私の住む街は、もうすぐそこだ。
「今日の夕飯は何作るんですか?」
「確か冷凍の鶏肉がまだあったから、玉ねぎと一緒に煮物でもしようかねえ」
醤油と酢をいれて。汁物の具は何にしようか。
「一昨日は何作ったんですか?」
「あー、一昨日はグリルで鶏肉焼いたかな。なんで昨日じゃなくて一昨日?」
結局食べ頃を一時間ほど逃して、グリルの中で冷めきっていた鶏肉は、
再度レンジで温めて食べたのだけれども。
一昨日の来訪者について彼が知るはずがないと思っていても、
知っていたとしても、彼はそれを責めることができる立場にない、ということになっているとしても。
胸の奥は暗く淀んで、まるで宇宙を飼っているよう。
昔の国民的アニメ映画で、宇宙作るキット出てきたことあったな。あれ欲しいな。
「昨日は22時過ぎまでチャットあがってたんで、うどんでも食べて帰ったんじゃないかと」
「見られてたし。つかマサさんもその時間まで居たなら言えし」
「いや、自分は昨日終電だったんで」
「お疲れさまです。あと昨日は一応夕飯用意したよ。キャベツ千切ったやつと豚肉に料理酒ぶっかけてレンジに入れただけだけど」
ポン酢をかけて食べた。人様にお出しはできない投げやりな夕飯だが、平日一人の夕食ならそんなもので正直十分だ。
一昨日の出来事を感づかれているわけではないと知って、少し胸のつかえがとれた。
そのせいか少し饒舌になっている自分に気づく。これは少々不自然な態度だったかしら。
車内アナウンスが私の最寄り駅が近づいている旨を告げた。
手すりから手を外し、電車を降りる体勢になろうとする。
私の腰のあたりにあったマサさんの手に、力が籠った。
手すりから、彼から距離をとろうとする私を押し止めるように。
「どしたの」
一度手を放した手すりにもう一度腕を絡めて、マサさんの胸に頬を寄せる。
彼の腕によりいっそう力がこめられて、私を抱き寄せる格好になった。
「わかんない、けど。なんだか名残惜しいですね。」
窓の外に広がっていた暗闇が少しずつ白んで、
やがて光にとって変わった。
蛍光灯の白い明かり、白く光る床のリノリウム。
私が住む街の駅のホームに、電車が滑り込んで、止まった。
「玉ねぎと鶏肉の煮物、食べてく?」
いつも一緒に乗り込んでいる列車を、初めて並んで降りる。
「ホント今日どしたの」
わかんない、けど。そう彼は繰り返した。
「なんで自分はこんなにじゅっちゃんに惹かれるんでしょう」
そういった彼の声は、なんだかすごく心細そうで。
改札をくぐる、彼も少し遅れて続いた。
私の住む街に降り立つ、初めの一歩を踏み出した彼を、
私は宇宙ステーションに初めて降り立った宇宙飛行士を見るような気持ちで見守ったのだった。