内緒話は0と1に変換される
日常のなんでもないことを、一番に話したくなるのが誰かを好きになるということなのではないか、と昔から思っている。
少なくとも私は好きな男性がいるときは、脳内の一人言のほぼほぼすべてがそのひとに対して語りかけられる形で生まれてくる。
自転車の後輪がパンクして、家から最寄り駅までの約1.5kmを歩くはめになったこと。
乗換駅の階段に一輪赤いバラが落ちているのを見て、大正時代の流行歌を連想したこと、
たまたま見上げた空の上、雲を切るように進む旅客機がとてもきれいだと思ったこと。
後に本物の彼に伝わる話は、そのなかの10分の1にも満たないのだけれども。
それでも毎日、私は私のなかの彼を相手にお喋りを続けている。
私の普段の通勤路は某有名テーマパークの最寄り駅を通るため、
毎朝の車内は通勤・通学途中のスーツ姿とテーマパークを目指す派手なTシャツや被り物が入り乱れるなかなか混沌とした風景である。
夢の国の住人たちと、現実を生きる企業戦士たち。夢か現か。
寝起きのぼんやりした頭には相応しい風景かもしれぬ。
そんなことを考えてしまうのはやっぱりまだ少し寝ぼけているのかしら。
右手のスマートフォンで、rssリーダーを起動する。
以前彼が読んでいると言っていたコミックの新刊の発売日が決定したニュースを見つけた。この話題で、今日辺りメッセージを送ってみようかしら。
「これは朗報ですね」
頭のなかで声を聞いた気がした。
いつでも、頭の中の彼とお喋りをしている。
それと同時に、現実の彼に話しかけることができる、そのきっかけをいつだって探している。
エクセルに貼り付けられたログを追っていた目が、
デスクトップ画面の右下で点滅する四角を捉えた。
新しいメッセージを受信したことを示すアラートだ。
1日中パソコンに向かい合っているせいか、すぐ近くで机を並べている同僚ともネットワーク越しに会話する癖がいつの間にか染み付いている。
重要な用件はメールで、ちょっとしたやりとりはメッセンジャーアプリで。
皆がキーボードを叩く音と、ほんの少しの事務的なやりとり。
けど実は聞こえてくるよりも何倍もの言葉が、
電気信号に変えられて飛び交っている。
カーソルを右下に移動させ、メッセージを確認する。
送信名にはM.Fujimotoの文字。まさたかふじもと。マサさんだ。
マウスを操作する手とは反対側、左手を鼻の下に移動させる。鼻がかゆいふり、実のところは少しニヤケている顔を隠すためだ。けどこれでは少々不自然だろうか。
ちょっとお尋ねしたいのですが、彼のメッセージにはそう書いてあった。
「なんですか」
下唇に力を込めて、出来るだけ無表情を装ってからキーボードを叩く。
「じゅっちゃんのところのアプリって、アプリサーバー上でJavaのコンパイルしてたりします?今度サーバーのバージョンアップがあって、それに伴ってアプリ改修が必要か調査中なんです」
「シェル内でプレーンJavaファイルのコンパイルしてるな。あとJSPは即時コンパイルじゃない?」
おまけにそれらしい記述のあるwebサイトをいくつか見繕って、URLを送信した。
自分の作業であるところのログチェックを進めながら、時折横目でメッセージをチェックする。
表情は固定して。メッセンジャーアプリのウィンドウは極力小さくして。
あまり誉められた勤務態度ではないのかもしれない。
一応仕事の話ではあるので許容範囲よね、と自分に言い聞かせてみる。
けれども私は知っている。
だからやっぱり、これは内緒の話なのだ。
メーラーを起動する。
彼の直属の先輩から、こちらのグループメーリングリスト宛のメール。
そこには先ほど彼から聞かされた内容とほぼ同じことと、正式に調査を依頼する旨が書かれていた。
つまり彼はこの調査結果を待っていさえすれば、
私にメッセージを送る必要はないのだ。
彼とのやりとりは大体仕事のことから始まるけれど、今日のように私個人に訪ねる必要のないことや、明らかに私より彼のほうが詳しく知っている分野の話であったりすることがある。
そんなふうに私にメッセージをくれるのはなぜか、訪ねたことはない。
まだ私の都合のいいように解釈していたい。
数十分から小一時間の間を明けながらメッセージのやりとりは続いて、気づけばデスクトップ画面の隅の時刻表示は21:00。
時計表示の左側に、また点滅する四角があった。
そろそろ、来るかな。
書きかけだったメールを完成させて、今日の仕事は一段落、とする。
「結構いい時間ですね。そろそろ帰りますが、そちらは?」
「こちらもそろそろ落としますよ。あとメール一本送ったら終わり」
「では、一階のエレベーターホールにいます」
いつしか夕方に送られてくるメッセージは、ここまでがワンセットになっている。
切り出すタイミングはこちらからの時もあれば、向こうからの時もある。
私から切り出すときは、キーボードを叩く指先にいつも少しだけ力が入ってしまう。
そして「じゃあ一緒に帰りましょうか」なんて返ってきたあとに、力が抜けて、そのことに気がつくのだ。
いつでも彼にだけ届く電気信号を送信していたくて、
変換元たる言葉を探している。
だから彼も同じ気持ちであったらいいのにと、いつでも思うのだ。
階段を小走りに駆け降りる。きっと今度こそ私はニヤけた顔をしてしまっているだろう。