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あなたと私とそれ以外

初めて交わした言葉は、実はよく覚えていない。

おそらく日は何年か前の10月1日、内定式の後の懇親会のはずだ。

そのとき確かにお互いにひとこと、ふたことくらいは言葉を発したはずなのだけれど、

彼がなんと言って、私がなんと答え、その結果どういう印象を持ったのか、驚くほどに記憶に残っていない。

あとから聞いてみたところ、どうやらそれは彼も同じであるらしい。

きっと彼は慣れない相手に自分のことを話すのが人より少し苦手で、

私は慣れない相手の気持ちを推し量って言葉を繋ぐのが人より大分苦手で、

その日は二人ともあまり居心地のよくない場でどうやって無難に振る舞うか、

それだけに注力していたからなのだろう。

ともかく初めて会ったときは、これからともに働く会社の同期、以上の感情を互いに持たなかった。

お互いをその他の20人余りの同期たちとは明らかに違ったものとして認識するのは、もう少し先の話だった。


私が彼を彼として初めて認識するようになった日のことは、よく覚えている。

乾杯は出来ないんです、とその日彼は言っていた。

入社した年の春、最初の同期の飲み会の席だった。

空席が確保できた会社近くの居酒屋チェーンで、決まりきった流れで生ビールを頼んだ。

本当は人数分頼んでしまったほうが注文がスムーズなのはわかっているのだが、

ビールは苦手でジョッキは2時間かかっても飲み干せない私は、

申し訳ない顔を作ってファジーネーブルをオーダーした。

全員のドリンクが揃って、決まりきった流れでグラスを合わせようとした、その流れを止めたのが彼だった。

「すみません、自分宗教上の理由で乾杯は出来ないんです」

そんな宗教もあるのか、その場にいた皆は思ったことだろう。

けれど皆、それ以上その話を広げることはしなかった。

初対面の人と野球と政治と宗教の話はするな、と言ったのは誰だったか。

おそらくまだ互いに探り探りで距離を詰めていっている段階にある今、その話題はいささか「重い」と皆咄嗟に思ったのだろう。

私もそうだ。

そして当時の自分の気持ちを振り返ることが出来るようになったのも、

実のところ彼を特別に思うようになってからだ。

その時の私は、特に深く考えず、

あまり触れない方がよい話題として処理した。

それが日本に暮らすごく一般的な二十代の「シューキョー」の捉え方だ。

自分がその枠から外れない、こちら側の人間であるという事実。

それは彼と出会って数年がたった今、私を目下苦しめる、そんな事実だ。


私が彼を特別に思うようになったきっかけ、今から思えばあれがそうなんだろう、

そういう瞬間のことは、もちろん覚えている。

新入社員向け研修が始まって一週間足らずの、ある朝のことだった。

入社して二か月間は、研修所に缶詰。

美しい礼の仕方、名刺の出し方。

情報システムとは何か、関係データベースとは何か、

WANとLANの違い、フローチャートの書き方。

IT系企業に採用されたとはいえ大半がIT未経験者、

半数が文系である私たちには、最初に詰め込まれるべき基礎知識が山ほどあるらしい。

ずっと椅子に座ってテキストと睨めっこの繰り返しで、

まだ社会人になったという実感がわかなかった頃。

日ごとにローテーションされていた座席が、初めて彼の隣になった。

「おはようございます、小野寺さん」

その日の自分の座席に置くことになっている、紙製の名札を横目で確認しながら、

彼は私に声をかけてきた。

私も彼の傍らにある三角柱に目をやった。

25名の同期、一応苗字と顔は一致するようになったと思っているのだけれど、

念のための確認だ。

そこには「藤本正字」と書かれていた。

私の視線を追った先に自分の名前があったことに気がついたのか、彼がいうことには。

「あまり初見で読んでもらえたことがないんですよね、自分の下の名前」

しょけん、というのは日常会話ではあまり使わない言葉ではないだろうか。

今日以前に言葉を交わしたときも感じたことであるが、

少し芝居がかったような、書き言葉のような話をするひとだ。

けれどもその喋り口調は、不思議と心地よく聞こえた。

私自身も「あまり普通の人が使わない言葉遣いをする」と

よく指摘される人間だからだろうか。

「まさたか、ですよね」

「読めますか」

大体最初はマサジとかセイジとか読みますよ、みんな。

そう言ってやや太めの眉が持ち上げられる。眼を見開いて、驚いた表情。

「河合曾良が若いころ名乗ってた名前と一緒ですよね。岩波庄右衛門正字」

視線は彼に向けたまま、手元のスマホのロックを解除した。

河合曾良、と検索バーに入力する。

「かわい、そら」

「ほら、松尾芭蕉の奥の細道の旅のお供のお弟子さん」

「ああ、昔図書館にあったマンガで読んだかもしれません」

私も読んだ。もしかしたら同じものかもしれないな、と思う。

「それが由来ってわけではないんですかね」

「そういう話は聞いたことがないので、違うんだと思います」

河合曾良の経歴が書かれているサイトを開き、

スマホの画面を隣の彼に向ける。

彼は数秒画面を注視して。「本当だ」と小声で言った。

本当に初めて知ったことだったらしい。

「松尾芭蕉、好きなんですか」

「そうですね、すごく詳しいわけではないんですけど、好きです」

もう一歩、話を広げる時間の余裕はあるだろうか。

ホワイトボードの上にある時計を確認する。今日の講師がこの部屋にやって来るまでは、まだほんのすこしばかりある。

耳に入るのは、私たちと同じく隣同士でとお喋りをする声。新聞をめくる音。(私は就職活動を始めた頃に新聞くらいは読もうと一時は毎朝某経済紙を買っていたものの、早々に挫折した)

誰かの音楽プレイヤーの微かな音漏れ。

それは遠いようでまだそれほど時間が経っていない大学時代、一限の必修が始まる前の空気によく似ていて、ああ、私たちは本当に社会人になったのかしら、と思ってしまう。まあ、あと二ヶ月のうちの、少なくともあと5分はモラトリアムを楽しませていただきましょう。

自分の鞄から文庫本を一冊取り出して、

彼の視線の高さまで持ち上げてみせる。

「曽良旅日記」

「どうです、まさたかさん繋がりで曾良さんの句だけでも」

奥の細道の旅を、曽良の視点から綴った日記。

私から本を受け取って、無造作にページを送りながら彼が言う。

「まさたかさんとかあまり呼ばれたことないですけどね。あまり家族以外に下の名前で呼ばれることがなくて」

「ああ、私もあまり家族以外に下の名前呼ばれないかもしれません」

「おのでらことぶき」

改めて私の傍らの三角柱に目をやって、彼は小さな声で私の名前を唇にのせた。

やっぱり少し芝居がかった声色で、少しぎこちなく呼ばれたその名前は、まるで朗読劇の一節のように響く。聞き慣れた自分の名前が、まるで物語の登場人物のように聞こえた。

「はい、小野寺寿です」

殊更はきはきと返事をしてみせる。

数日前に繰り返し練習させられた名刺交換の一幕のように。

彼も私と同じものを連想したのか、視線を合わせて、お互いに少し笑ってしまった。

「なんて呼ばれてます?普段」

「普通に小野寺さんが多いですかね。あ、けど高校の割りに仲良い同級生はじゅっちゃんって呼びますよ」

「じゅっちゃん?」

「はい、じゅっちゃん」

自分の名札の「寿」の文字を人差し指でなぞってみせながら続ける。

「ほら、この文字がじゅ、って読めるでしょう。入学したばかりの時に私の名前をおのでらじゅ?って読んだ子がいて、それから」

「なるほど、読めますけどね」

「読めますけどごろ悪いですよね。おのでらじゅ」

「もう一息って感じですね」

もう一息って、と笑ったところで今日の講師がホワイトボード横に立った。

我々も揃ってホワイトボードに向き直る。

「じゃあ、じゅっちゃんで。お借りしても良いですか?この本。」

「今朝読み終わったので、どうぞ」

「じゃあ、代わりといったらなんですがこれどうぞ。じゅっちゃんの好みかはわからないですが」

あ、呼び方変わった。彼が自分の鞄から出した文庫本を受け取りながら、意識はそのことだけに向いていた。

理由はない、感覚的にとしか言いようがないが、女の子をあだ名で呼ぶことはしない人という印象の彼が、

あっさりと私の呼び方を変えた。

そのことが随分と意外に思えた。


その日受け取った文庫本は、主人公の男子高校生が東ヨーロッパから来て、自分の国に帰って行った留学生の少女のことを回想する形式のミステリーだった。

終盤少女が主人公に語ったこと、

日本から戦場となった自分の国に渡るということに対しての、自分と彼の心持ちの違いについて、が、印象に残った。

そしてその本を読み終えて、彼に返すまでの間も、そのあとも、彼が他の女の子のことを苗字に「さん」付け以外で呼ぶのを耳にすることはなかったのだった。


自分が彼を徐々に特別に思うようになっていることを自覚した、その瞬間を覚えている。

彼に借りた小説の作者の既刊を3、4冊ばかり読み終えたある日、

検索バーに「乾杯 しない」と打ち込んだ。

すると予測として「乾杯 しない 宗教」が現れたので、クリックした。

検索結果から、ある宗教の名前が導き出される。

その名前をまた検索バーに打ち込んだ。

いくつかのサイトの情報に目を通す。

乾杯をしないこと、誰の誕生日も祝わないこと。

輸血と武道の拒否。ああ、これは憲法の授業で習った覚えがある。

ブラウザバックで検索結果画面に戻る。

宗教の名前の後ろにスペースを打ち込んだ。

本の趣味は合っている。

言葉選びのセンスが自分と近いからか、心地よいテンポで話ができる。

少し変わった人なのかもしれないけれど、それほど私たちと遠い世界にいる人とは、今は思えない。

スペースをいれた後ろに、結婚、と打ち込んだ。

それを調べてどうするのか、どうしたいとか、その頃の自分にはまだ解らなかったけれど。

何か取り返しのつかないことをしたような、しようとしているような。

そんな気持ちになったのだった。

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