食前10秒間の過ごし方
店の自動ドアを開く前に確認した腕時計は、21時10分前を指していた。
ラストオーダー時間と見比べる。まあ、問題ないだろう。
最近はシステムエンジニアを扱ったフィクションが増えたせいか、
初対面の人に職業を明かすと少し同情したような目を向けられることも多い。
実際のところ労働条件は会社と所属部署に大きく依存する。私などは午前様か会社に泊まりか、などという暮らしはしていない。
とはいえ、残業はそれなりに多い。
そんなわけで今日もラストオーダーギリギリに、駅ナカのベトナム料理専門店の入り口を潜った。
私も、今日の連れも取り立ててベトナム料理が食べたかったわけではない。
ただ目についた店のなかで一番閉店時間が遅かった店を選んだ。
あ、隣はもう店じまいの準備してる。
座席数20席ほどのさほど広くない店のなかを、テーブル席の間を縫って慎重に奥まで移動する。
テーブルにつく先客は、何れも仕事帰りの会社員といった風情。まあ、要するにお仲間だ。
残業お疲れ様でございます。
壁に向かうカウンター席に、並んで腰を下ろす。
取り急ぎフォーと生春巻き、ドリンクのセットを二つ注文して、一息ついた。
「仕事は落ち着いたの?」
今日の同行者に呼び掛ける。
他部署の同僚。同期入社で一番気の合う子。
多分彼が私との関係性を誰かに説明するときは、そんな風に話しているはずだ。
私も同じように話している。
ただ本当は、もっと違う言葉を使いたいと思っている。もう長いこと。
「この時間に帰れる程度には落ち着きましたよ」
「20時半退勤で今日は早く帰れた、って言っちゃうとか。毒されてるなあ」
彼は私よりは大分世間様がイメージするシステムエンジニアらしい暮らしをしている。
先週までは連日終電帰りか下手をすれば泊まりか、という生活だったのがようやっと少し緩んだところ、そこを狙ってこうやって久方ぶりに食事に出ている。
「いやな慣れですよね。ここ一週間の夜食で下のコンビニの新メニュー制覇しましたよ」
「ああ、なんか最近色々新しいの出てたよね。どれかおいしかった?」
我々のいるオフィスの入っているビルの一階はコンビニエンスストアが入っている。
彼よりは頻度は低いはずだが、多分に漏れず私もお世話になっている。
「ひき肉バジルご飯と生春巻きがよかったですよ」
「あ、バジルご飯は私も食べた。生春巻きは原材料表示見たらきゅうり入ってたから買ってない。なんで生春巻きって結構な確率できゅうりが入ってるのかしら」
「そういえば今日の生春巻きには入ってないんですか?」
「確かめてない」
先ほど女性店員がおいていったお冷のグラスを傾けて、彼に笑いかける。
なんでドヤ顔なんですか、とツッコミひとつ。そんな顔をしたつもりはなかったのだけれど。
自分の左隣に座る人は、お冷のコップに浮かぶ氷に人差し指で触れる。
毎度のこの人の癖なのだ。
お冷のグラスでも、梅酒ロックのグラスでも、
浅めのグラスに浮かぶ氷は大体こうやって彼に人差し指で遊ばれている。
「え、じゃあきゅうり入ってたらどうするんですか」
「きゅうりだけ抜いて食べるから問題ない」
彼の人差し指に押されたままの氷は、コップの中で円を描いてくるくる泳ぐ。
時々氷がコップの端にぶつかる音は、少し風鈴の類いを思わせる涼しげな音で、悪くない、と感じた。
ああ、あれみたい。流れるプール。同じところを何度もくるくる、くるくる。
そういえばそろそろ気温も上がってきて、海やプールに行くのにはちょうどいい季節だ。
隣にいる彼をそういったところに誘っても、
曖昧に流されてしまうのだろうけど。
きっと、「じゅっちゃんの水着姿が見たいのはやまやまですけどね」なんて言いながら。
彼が守っているラインは、私のそれとは違う。私が今まで遊んで頂いたオトコノコたちとも違う。
本人になんども話して聞かされて、彼にもらった本を読んで、
そのことはだいぶわかってきてはいるけれど。
それでも彼と私を決定的に隔てるものに時たま焦れることも、寂しくなることもあるのだ。
「抜かれたきゅうりの行き場は」
「マサさん食べるよね」
「ずいぶんと横暴なことで」
「まーまー、代わりと言っちゃなんだけどトマト乗ってたら食べてあげるし」
私はきゅうりが苦手でまず食べない。彼はどうしても食べられないほど苦手な食べ物はないけれど、
トマトが苦手であまり積極的に手を付けない。
「フォーにトマトは入らないでしょう」
「わからないよ。たまには入ってるかもしれないよ」
そのとき、図ったようなタイミングで私たちの前にプレートが置かれた。
彼が頼んだ今月のフォーと、私が頼んだ蒸し鶏とゴマのフォー。
彼の前におかれた丼には、くし型のトマトが浮かんでいた。
「ちょ、トマ・・」
トマト入ってるじゃん、という私の台詞は途中で飲みこまれる。
先ほどまで私に向けられていた顔は伏せられて、その表情は伺えない。
けれど今彼は眼を閉じているはずだ。「そうするもの」らしいから。
毎日、毎食前、彼が行っているらしい彼の神への祈り。
日本の多くの家庭と同じく宗教に対して無頓着な家庭に育った私には、
あまり馴染みのない光景だ。
初めて一緒に食事をしたとき、この景色をみて「どうした?」と声をかけてしまったことを
今でも思い出すたびに少し苦い気持ちになる。
少し自分を嫌いになる、そんな気持ち。
よくよく見ると左の掌だけが私に向けられている。
待て、のサインですか。
彼と食事をするときは毎度お馴染みの手順のはずなのに、
未だに私は彼との会話に休みを入れるタイミングを間違えてしまう。
間の悪さは昔から。
そのせいか、親しい友人は少ない。
よって、食事を共にする人も少ない。
だからこそ、数少ない例外である隣に座る男のことは、出来るだけ尊重したいと常に思っているのだけど。
・・できてるのかな。
彼とふたりで食事をするようになってそれなりに長いけれど、
彼が下を向いているこの数十秒、私は何をしていればよいのか未だに決めかねている。
先に食べ始めているのは違う気がするけれども、
携帯で料理の写真を撮るのも、何か邪魔をしているような気持ちになってしまう。
結局いつもうつむく彼の肩越しに、どこか遠くを見つめている。
これ、傍から見るとお説教しているように見えてしまわないかしら、なんてくだらないことを考えながら。
戯れに彼を真似て目を閉じて、下を向いてみた。
彼は心のなかで唱えている文言があるはずなのだけれど、
私はその仔細を知らない。まだ教えてもらったことはない。
代わりに10から初めて、ゆっくりと0までをカウントしてみることにした。
同じポーズで下を向いていても、今彼と私はそれぞれ違う時間を過ごしている。
彼のことを遠くでみているらしい存在は、私のことは見ていない。
彼が今考えている、その言葉は遠くにいるその存在に響く、
私の言葉は響かない。
顔を上げると、同じタイミングで彼も顔を上げたところだった。
彼の目が、再び私を捉える。
「すみません」
私はそれには答えず箸を伸ばす。
返事の代わりに、彼の丼からトマトを掬いあげた。