0.プロローグ
プロローグ
「お母さん、お腹減った」
隙間風が抜ける張りぼてのような小屋で、母親と、そしてところどころ虫食いにより破れている毛布に包まっている5歳程の少年は今日幾度もなく発している言葉を呟いた。
少年の母親は、悲しそうな笑みを見せながら少年の頭を撫でる。そしてその痩せこけた外見から自身が包まっている毛布のように擦り切れた声を発した。
「お父さんが村の人から食べ物を分けてもらいに行っているから、もうちょっと待ってね」
この言葉を聞いたのはこれで3度目だ。しかし、父が村人のところに行ってから既に3時間が経っている。疲れきった両足を摩りさがら、当分自分の空腹を満たせることができないことを少年は悟り始めていた。
家族がこの村へたどり着いたのは冬で澄み切った空気に映える夕日が落ちかけたころだった。家族が暮らしていた地域に北の国の遊牧民族が侵入し戦乱が起こり、わずかなお金・生活物資と共に命からがら逃げ出してきたのだった。
途中幾度となく戦乱に巻き込まれていない村を周り、住まわせて欲しいと訪ね歩いてきたが、戦時下における食料不足などもあり、どの村も戦乱から逃げ出してきた素性も知らぬ難民を受け入れてくれることはなかった。話を聞いてくれる村はまだいい方で、ひどいところは農具を振り回し追い払ったり、こぶし大の石を投げつけてくるところもあった(不運にもその石は少年のこめかみにあたり、まだ傷が残っている)。その度に家族はあてのない放浪を続けなければならなかったのだ。
少年はふと故郷の村で家族同然の付き合いをしていた一家の安否を母親に尋ねた。
「ねえ、マリアちゃん達は大丈夫なのかな?またマリアちゃんの家でみんなでお星様みたいなー」
半年前までの平和な日常を少年は思い出していた。
「きっと大丈夫よ、マリアちゃんもマリアちゃんのお父さんお母さんも元気にいているわよ、きっと・・・コホっコホっ」
乾いた咳が殺風景なハリボテ小屋に響き渡る。一ヶ月前から母親は酷く乾いた咳をするようになった。はじめは咳だけであったが、最近は咳とともに血が混じりだしたことを少年は知らず、ただ心配そうに母親の手を握ることしかできなかった。
そのとき、小屋の扉が鈍い悲鳴を上げて外から少年の父親が右足を引きずりながら酷く憔悴しきった表情をしながら入ってきた。少年は毛布から抜け出すと一目散に父親の左脚にすがりつく。父親は憔悴しきった顔に無理やり笑顔の仮面を被らせて、ぽんぽんと子どもの頭を撫でた。
「ずっと何も食べさせてあげられなくてごめんな、でも村の人たちから食べ物を分けてもらったんだ」
そう父親は話すと、左手に持っていた袋から表面がところどころ黒みがかった、棒状のパンを取り出し、それを半分にちぎって少年に手渡した。少年はそれを受け取ると母親のところに戻り、黒みがかった部分を千切った後、更に半分に千切り、片割れを母親に手渡したのだった。
「ありがとう、一緒にいただきましょうね」
少年は笑顔で頷きパンを小さく千切って食べ始めると、父親も母子のとなりにきてその疲れきった腰を下ろした。お世辞にも美味しそうには見えない、明らかに通常なら食べずに捨てるであろうパンを、満足げに食べる我が子の姿に心を痛めながら母親に語り始めた。
「この村もダメだった・・・、少し食料は分けてやるから二時間以内に村から出て行けって言われたよ。さもないと追い出すってさ。お前の体調も日に日に悪くなっていくし、せめて今日一日この小屋にいさせてくれたら・・・」
少年の父親は小屋の窓から見える漆黒の寒空を見上げながら諦めたように呟いた。
「私のことは心配しないで、それよりもこの子にひもじい思いをさせる方がとても苦しいのよ」
そう言って母親はパンを食べ終えたばかりの最愛の我が子を優しく抱きしめると、少年は気高に振舞うように、
「僕は大丈夫だよ!マリアちゃんやマリアちゃんのお父さんお母さん、村のみんなはいないけど、お父さんとお母さんがいれば僕平気だよ!我慢できるよ!」
精一杯の笑顔を両親に向けて。
少年の両親は我が子の言葉を聞き目頭が熱くなるのをこらえながら強く、強く、少年を抱きしめ続けるのであった。
二時間後、家族は僅かな荷物を持って真冬の冷気が漂う漆黒の中、小屋を後にした。少年は両親に手を惹かれながら、遥か頭上にある輝き達をぼんやりと眺めて足を進める。
シリウス プロキオン ポルックス カペラ アルデバラン リゲル
少年は故郷の村で覚えた星達を呟き、あてのない放浪前の、あの平和で暖かかった日々を思い出す。
少年の両親も空を見上げながら同じようなことを思い出しているようであった。
冬のダイヤモンドと呼ばれる6つの星の輝きにとは対照的に、家族の足取りは鈍かった。
蒼い髪の少女は、翌日10歳の誕生日を迎える。普通の子どもなら誕生日の前日は、一日中鼻歌を歌ったりスキップしたりと気分を高揚させたまま過ごすかもしれない。しかし彼女は違った。いつものように侍女に朝起こされ、されるがままに身支度を整えていく。
それが終わると朝食。いつもの「灰色の日」が始まっていった。
豪華な装飾が施された大広間には、優に20人は座れるようなテーブルが一つ中央に設置されている。テーブルの上には、各地から厳選して取り寄せられた、朝食とは思えぬような豪華な料理が所狭しと並んでいる。今朝の朝食を金額換算すると、およそ庶民が一生かかって稼ぐ額に相当する。
そしてそのテーブルを広間に施された装飾と同等以上に高級感溢れる衣服を纏っている5人が椅子に座り取り囲んでいた。深夜の墓地のように静まった広間に入ってきた彼女は、ギギと椅子を引き着席した。
「メリッサ、静かに座りなさい。はしたないですよ。」
その音に反応した彼女の母親が、厳しい声で注意する。
「メリッサ、わかっていると思うがお前は将来他国に嫁ぐことになる。そのようにはしたなくしていると帝国の恥を晒すことになるぞ。」
またこれだ・・・
毎日晒される両親からの小言にげんなりしながら、朝食前の祈りを捧げる。
テーブルを囲む全員の祈りが終わると、彼女の横に一人の侍女が付く。ナイフを持つ手、スープを啜る動作の一つ一つを細かく監視され、少しでもテーブルマナーに反することをしようなら、厳しい口調で怒鳴りつけられてしまう。叱られないようテーブルマナーに気を使いすぎて、目の前の最高級の朝食の味すら感じない。
このようなことが昼夕食、さらに勉強やピアノ、ダンスといった上流階級さながらの習い事の間も一日中続いていく。
さながら鳥籠の中の小鳥が毎日調教されていくかのようだと自身を自嘲したこともあったが、それは遠い昔の話だ。今はただ、自身を小鳥だとは思っていない。機械仕掛けの人形だ・・・。毎日同じことを繰り返すように設計され、周囲のなすがままにされるだけの、人形だ。
一日の予定を終え彼女は自身の部屋へ戻ると、机の上に何かが置いてあることに気づいた。
「なにかしら・・・」
彼女は戸惑いながら、その何かに手を伸ばす。そして一枚のメッセージカードが付随していることに気づいた。
一日早いですが誕生日おめでとうございます。お嬢様が一日の終わりを楽しめるよう、本をプレゼントとしてお送りいたします。お嬢様は読まれたことはないかもしれませんが、帝国では五本の指に入るような有名なお話です。ご就寝前にお読みください。
カードには名前こそ書いてなかったが、少女は送り主が誰なのかすぐにわかった。自分が心を開いている唯一の侍女・ミラである。侍女の中ではミラは最年少ということもあり、少女はミラを姉のように慕っていた。その彼女が贈り物をしてくれたということに、少女は気持ちの高揚を隠せず、すぐさま包装をといて本の表紙を覗き見る。
「シリウス叙述章・・・」
ゆっくりと本のタイトルを呟き、ページをめくる。あらすじを見る限り、シリウスという英雄の人生を綴った本であるようだ。ページを少しずつめくる度に少女はその物語に引き込まれていった。
物語はシリウスという主人公が生まれることから始まる。下級貴族として生まれた彼は、裕福とは言えない家柄ながら、誰とでも分け隔てなく接する温厚で優しい少年として育っていった。しかしある時期、彼の一族が治める領地で大飢饉が起こり、領民の生活が破綻寸前まで追い込まれた。さらに彼の両親も、同時期に希少で高額な薬を投与しなければ死に至る、重い病気を患ってしまう。シリウスは領民と両親を助けるために、高額な賞金が得られると言われる、帝国各地から猛者が集まる闘技大会に出場することを決意する・・・
少女がシリウスの闘技大会の話を読み終わる頃には、窓から薄らと朝日が差し込むような時間であった。不眠で朝を迎えたはずの彼女の顔に疲れはなかった。
早く続きを読みたい・・・
10年の人生で一度も感じたことのない興奮を感じながら、自ら身支度を整え始める。
そして、彼女の「灰色の日」は10歳の誕生日にとある本と出会うことがきっかけに終わったのだった。