新生活
今回も即興前書き掌編はありません。
何もしない生活が当たり前になってくると、人間とは不思議なもので、何かをしないと不満になってくる。そうして始めたのが、父親のパソコンいじり。調べていたのは、【処方された薬の致死量】や【自殺の方法】、【ニコチン中毒死の方法】や【二酸化炭素中毒死の方法】等々。
苦しまずに、尚且つ、他人に迷惑を掛ける事なく死ぬ方法、ただひたすらにそれだけを探していた。それを見た父親は、俺にパソコンいじりを禁止した。
そうなると今度は、家の中にいる事が億劫になってくる。そうして意味もなく、「次、仕事見付かった時、体力がなかったらやってけないから」とか何とか言って、二リットルの水のペットボトルを五本程入れたリュックサックを背負い、両足に十キログラムのバンドを巻き、ウォーキングをする毎日が始まった。ここまでくると、既にバカである。バカを通り越して阿呆である。しかもウォーキングとは名ばかりの宛のない徘徊。気が付けば、『ここ何処?』って事は一度や二度ではなかった。そして三月に退職していた俺は、両親や妻の「まだ、ちょっと早いんじゃない?」の言葉も聞かずに求人情報を集め出す。
そして七月、新たな職場、地域密着型特別養護老人ホームに入職し、それなりに楽しい人生を歩む。……筈だった。にもかかわらず、その時にして両親や妻の言っていた「まだ、ちょっと早いんじゃない?」の意味がわかった。通勤するのも苦痛。終業して帰宅するのも苦痛。なんて日々が繰り返され始めたのだ。
入社して二年目くらいに一つの楽しみが現れた。元々、施設行事等で劇の脚本や演出をしていた俺だったのだが、そんな作品をより多くの人に読んで貰いたいと思ったのだ。そして出会ったのが、【小説家になろう】だった。初めは、使い方も解らず、取り敢えず書きたい事を書いては投稿していた。途中で【小説を読んだら、感想を書きましょう】的な文章を羅列し、【くれくれ君】等と呼ばれた日もあったが……。
それからの生活は暫く、安定していた。とは言っても、安定剤と抗鬱薬の服用、睡眠導入剤の服用は続けていたが。病気の事は、入社して半年が過ぎた頃、当時、フロアー責任者兼、特養管理責任者の主任ユニットリーダーに薬の事を尋ねられ、初めは痛み止め等と答えていたのだが、自責の念から病気の件を自白した。初めは驚いたようだったが、他言無用を快く承諾してくれ、その後は、誰に薬の事を尋ねられても、腰痛の薬としていた。