自宅療養
即興の前書き掌編は、やっぱり無理でした。一応中止にします。
もし次に書くことがあれば、その時完結になるかもしれません。
【鬱病】と診断された時、俺は錯乱状態で希死念慮が強かった為、医師は即座に入院という手段を父親に説明していた。しかし俺は、入院などする気は全くなく、「入院なんてしない!!」の一点張りだった。諦めた医師は、鎮静剤の点滴をし、自宅療養という形で治療方針を切り替えた。その時処方された薬は覚えてないが、睡眠導入剤としてフルニトラゼパム、そして印象的だったのが、リスパダールという薬だった。リスパダールは、点滴にも使用されるそうだが、経口摂取しても効果を発揮し、俺は帰宅後、二日間眠り続けた。
それ以来、綾とは全く連絡をとっていない。また会う事すら無かった。
それからの事は一切覚えていない。これは、後から両親に聞かされた話である。
二日間眠り続けた俺は、起きてから無感動な人間になっていた。バラエティー番組を観ても、一切笑わず。何をするにも能面状態で無感情。朝起きてする事もなく、ぼ〜としたまま何もせず、たまに玄関の前に出てタバコを吸い、足元をじぃっと眺めていたそうだ。かと思えば、突然立ち上がり、玄関を出ていこうとするようになったらしい。
「信也何処へ行く」
そんな両親の掛け声に、「呼ばれている」とだけ言うと、フラフラと家を出るようになった。そんな毎日が続いた後、俺は身体中に蟻のような虫が這い回っている感覚に襲われた。夜中の事だった。両親はどうして良いか解らず、取り敢えず精神科に電話した。すると『すぐに連れて来い』との事だったようで、俺は半狂乱のまま車に無理矢理乗せられ、大声で叫び続けたまま病院に運ばれ、すぐに鎮静剤の投薬をされた。この時、俺に出た診断名は、【統合失調症】。
その時もまた、入院を勧められたが、俺が強く拒否した為に、また自宅療養の形となった。
自宅に戻ってからは、リスパダールは欠かせない薬になっており、寝る前にはフルニトラゼパムを常時服用していた。しかも、希死念慮が酷くなっており、黙って家を出る事も、もはや当たり前と化し、川の堤防で枯れ木や枯れ草、新聞紙等を燃やして、自治会の人に怒られていた事もあったそうだ。
傷病手当で生活していく中、一つの課題が持ち上がった。この辺りから俺の記憶も戻りつつある。それは、家族ともう一度やり直すという事だった。初めは、父親が妻との交渉をし、そのうち、子が実家に顔を出すようになった。その度に俺は、リスパダールの服用をねだり、家族と会う事すら不安の一要因となっていたのだ。子が来た時、何を話したのかすら覚えていない。携帯電話の写真に残された画像だけが、子が来た証拠であった。そのうち、妻が来る事になり、俺は一度にリスパダールを二つ服用するようになる。和解等初めはあり得なかったが、話し合いの末、妻と家族が実家に移り住む事となった。
それから暫くは、俺の症状も平行線を辿っていたのだが、ある日突然、左胸の強い痛みに襲われた。すぐに救急車を要請し、運び込まれた病院で俺は【一過性の狭心症】と診断された。タバコが一番の原因とされ、禁煙を要求されたが、止める事も出来ずにいた。それからは、溜め込んだストレスを解消する為、何もしない生活がスタートした。