その後
頭が痛いとは、こういうことを言うのだろう。 物理的にも精神的にも大きなダメージであった。
私と彼が絡んで問題が起きなかったことはほとんど記憶にない。今回は私が悪いので、自業自得と言ってしまえばそれまでの話。ふらつく私を見て彼はニヤリと笑う。その笑みがひどく誘惑的な香りを放って、すでに酒にやられてしまっている私をさらに酔わせる。
「ただの二日酔いだろ。」
そう、カクテルを高々数杯とはいえ一気に飲んだがためにこのザマだ。若いうちは大丈夫だと聞いていたのに、まさか一発目から二日酔いとは心が折れる所業だ。我ながら情けない。
「地味に辛い」
「懲りたら今後酒を飲まないことだな」
私がやったら似合わない流し目をスマートにやってのけて、しかも絶妙にマッチしていて腹が立つ。あと、自分が思った以上に酒に弱いことにがっかりだ。
「父は強いはずなのに」
「強い弱いの問題じゃない。軽いもんだったから良かったが、あの飲み方じゃアル中真っしぐらだって言ってるんだ。」
既に3回は聞いた。お説教はもう十分、今後オレンジジュースだけでも我慢します。
いつもあまり喋らない分ものすごく叱られた気分だ。むしろマスターがあんなに一息に喋るなんて…なんでもない。心配されているのはわかっている。ただ、反抗期なのだ。
店の雰囲気作りにぴったりだと、マスター自ら選んだという木目の美しい椅子を蹴ろうとして、椅子には何の非もないのに理不尽だと考え直す。でも、何かに当たりたいのだ。カウンターから抜いた足の置き場に困ってふわふわ浮かせているところを彼に見つかり、なんだお前はという顔で首を傾げられた。
私たちしかいない店内は、空気が重くなる。マスターの愛想笑いとやらも登場する場もなく、ただ静かに時間が流れて行くのを見守るのみ。音楽の一つや二つ流せばいいのに、それすらない。知らず楽器ケースの止め具をなぞる。
ここで私がサックスを吹き始めたらどうなるのだろう。
「体調悪いなら帰っていい。今日はもう閉めてやる。」
沈黙を破って彼はその滑らかな声で誘惑を提案する。彼の声音はいつも通りの無色だ。彼が気にしてないとはいえ、私の都合で店に迷惑がかかってしまうのは本意ではない。
そして、出来れば彼と一緒にいたいというのは我が儘だろうか。
「大丈夫だから」
弄んでいた止め具を外してサックスを取り出す。静かな店内に私の動く音が染み渡る。磨き上げた吹奏楽器の金色が目に刺激的だ。消して明るくない店の照明を反射して見事に倍増された光量で目に届く。
「眩しい」
思わず目を細める。何が、なんてはっきり思考するほど無粋なことはしない。太陽に手をかざすのは当然、でも本当に眩しいものは直接見ることもできなくなる。目を合わせるのも無理。もちろん、誰が、とも言わない。
訂正、ただ気恥ずかしいだけかも。
「ねえ、今日は早く追い出してもいいから、少しだけ吹かせてくれないかしら。」
静かな店の雰囲気にやられて、変なことを言い出してしまった。マスターは手元のグラスから目線だけ投げてはすぐに戻した。
「お前、そのちょっといい子ぶった口調なんとかしろよ」
相変わらず突っ込むところがナイスである。本題からはそらされたけれど。
わかってるのだ本当は。今日の胸元にスパンコールをたっぷりあしらった素敵なドレスだって、少しシャドウを濃くしたメイクだって、こんな口調も併せてただの背伸びだっていうことは。あなたにとってはまだ子供な私には似合わないっていうのでしょう。でも、だけどね、どんなに似合わないっておかしいって思われても、あなたに着飾った姿を見てほしいって思いはわかってくれないかな。
うつむき気味にサックスのストラップをいじる。
もう、帰ろうかな。
「頭は痛くないのか」
「そのうち収まると思う、たぶん」
マスターは一瞬私を振り返って、すぐカウンターの作業に戻った。
「好きにすればいい、お前のステージだ。」
「...はい」
そういうことじゃないんだけどな。
私のサックスだって、同じなのだ。マスターが聴いてくれなかったら、ここで演奏する意味なんてない。
楽器を選ぶときにかっこよさからすぐ決めた。迷いなんてなかった。大人びた楽器を持っていれば、大人に早く近づけるような気がした。今はその対象が明確になっただけ。
思いはいつも変わらない。距離を縮めたい、ただそれだけなんだ。
ねえ、少しくらい、ほんの少しでいいんだ。気付いてくれたって、気にかけてくれたっていいでしょう。
軽く音を出してから、開店前の時間、たった一人の客の為に吹いた。客とは言えない、だって彼はずっと忙しい手を止めなかった。音は届いているのだろうけれど、聴いてくれていたかはわからない。
マスターに絶対聞こえるようにあえて響くような声を出す。
「はい、今日のイベントはこれにて終了です。御拝聴ありがとうございました。私はとっとと追い出されますね。」
何の反応も返ってこない。期待もしていなかったもの、これでいい。
ばたばたと忙しなく音を立てて、入り口の曇りガラスの扉が激しく音を立てるのを後ろに聞きながら、私は『ステージ』から退場した。
「で、俺には聴かせてくれないの、君の大事なサックスは」
「あなたのためにあるんじゃないもの」
何度目だろうか、この似非クラスメイトだ。前回のアドバイス後、結果は報告するようにと言われていたのでそれを口実に、内実文句を言いに呼び出してみた。もちろん誰の、なんて無粋なことは言わない。
彼はあっさり白状した。マスターの後輩だったなんて、私も仕組まれたものだ。ちゃんと大学の付き合いにも参加していないとこうして自分にツケが返ってくるのだなとしみじみ学んだ。以後、少しだけ気をつけよう。
「というわけだから、あなたの先輩には朴念仁ってミドルネームをつけたらいいと思う。」
「それミドルネームの領域越してるから。...しっかしわからないなあ、何であんなんに惚れたのさ。」
それ聞いちゃう?目線で語る。
「あ、聞いちゃヤバいやつな。軽く3時間は語られそうだ、君のへたくそな落ちのないのろけ話を。」
「話が下手で悪かったね。どうせマスターだってあんまり話さないんだから似た者同士でいいコンビじゃん。」
「そこ、まだカップルって言えないあたり、自信のなさが現れてますよ」
まばたきを忘れる。完全に図星だ。
ああ、そうか。私自身がマスターの隣の席に座ることにびびってるんだ。自分じゃ不十分だと自覚しているから。
どんなに大人っぽく着飾ったって、しゃべり方を変えてみたって、そんなの些末な問題。
私が年甲斐もなくまだ子供だから。彼に言われて気づくなんて、それも含めてやっぱり私は未熟なんだ。
奴は見た目相応の顔して笑った。この童顔、高校生くらいで丁度いい。
「ところで、将来音楽の道には進まないの。随分先輩のところでサービス業してるようだけど、趣味としてって感じ?」
全くもって彼の思考が読めない。なぜいきなり飛んだ。
社会人なんてまだ先のこと、特に希望もなくやってきた私は、目の前に横たわる図星すぎる問題のせいで頭がいっぱいで、奴の質問をうまく日本語にして返す心の余裕はなかった。
「どうかな、正直今の大学も近くて丁度偏差値が合ってたからってだけで選んだし、音楽は好きだけどこんななあなあな人間が音大とかだめじゃない?続けたいとは思うけど。」
「へえ、本当に自分のことは無関心なんだね。」
その返答も空気と一緒に吸い込んでそのまま吐き流す。
「まあそのうちどっか私でも行けるとこ就職して、お茶汲みからOL頑張りますよ。この情勢だから大手だとなおよしってところかな。」
親にパラサイトするのだけはごめんだ。
「とか言ってあなたも就活じゃないの?そろそろ働き口探しておかないとやばいのはそっちでしょ。」
「そうなんだよなーー、……一か八か頼んでみるかな。」
「?伝があるならいいじゃない。」
「………伝と言ってもねえ…。」
「私は頼るあてもなく、もはや自分でなんとかするしかないんだから。」
「悲劇のヒロイン気取っちゃって。それだから子供っぽいんだよな。」
「!!」
自信がない、自覚がない。
それを再確認したからってへこんでる場合じゃないことは明らか。私は開き直りを決めた。
曇りガラスで見えないことを盾に、ふう、と一息つく。気合いを入れ直していざ出陣だ。本日の藤色のベアトップワンピースの裾を無駄にひらめかせ、黒のサンダルをカツカツさせて登場はドラマチックに。
「こんばんはマスター、先日は失態をさらしてしまってごめんなさい。ちゃんと立て直してきたから。」
マスターはさすがにぽかんとした顔。手元が止まってますよ。
「...今日は非番のはず」
3度も鏡で確認して盛ったグロスがぼんやりした明りでも輝きを放つように、余計に唇を震え動かす。
「ゲリラライブにやってきたの。御迷惑だったらおいとまするから安心してね。」
塗りすぎだと怒られてから控えめにしていたアイシャドウもラメにして一度もきれいに成功したことのないウインクをする。
ああ、自分が痛い。でも、これも計算のうちだとあいつが言っていた。
『いいか、落ち込んでる様子を見せちゃいけない。こんなことでへこむなんて子供じゃないか、君もそう思っているんだろ?』
ああ、もちろんだ。釣り合わないって言われてもいい、落ち込んだりしない。ひとかけもそんな素振り出してたまるか。
マスターはそんな私の内情を知りもせずさらりと一言告げた。
「言っただろう、お前のステージだと。好きにすればいい。」
無意識にうなづく。
それだけ聞ければ十分だ。
さあ、ステージに上がろうか。
「...お前、何で来たんだ。あの子が来るとわかってたのか。」
「いやー、だってどうしても気になるでしょ。あの子何しでかすかわかんないし、まあ余計な入れ知恵をしたのは俺だけど。」
ため息が漏れる。この碌なことをしでかさない後輩はまた彼女に何か吹き込んだらしい。
「妙なことしてくれるな。普段どれだけ俺が振り回されてると思っているんだ。今日だってどうしても悪い予感がする。」
「だってあんたたち俺が余計な事しないと全然進展しないんだもん。ていうか、事態が動いた後の展開のはずなのに、前と同じ状況に逆戻りってどういうことさ。」
奴は頬杖をついてくるりと椅子を回し彼女の方に体を向けた。そしてはあ、と大きくいきをついた。
「あの子、何もないところで一人でに突っかかって転ぶからな。先輩も余計にフォローしてないから全部後手に回ることになるんだ。」
「手の打ちようもないけどな。」
後輩からの前情報により、彼女が抱えている些細な問題については把握済みだ。中高生でもあるまいし、年が離れていることくらい別段気にすることでもないのに。
「朴念仁、ね。わかってやれない女心いや、こども心か。」
「十分大人だろ」
「…やっぱミドルネーム足す?」
「なんだそれは」
ゲリラということで私のソロライブとなったわけなのだが、なぜかいつもより反応が大きいような気がする。
強面ドラムの安芸さんがいないからかなと、適当に理由をつけて自分を落ち着かせる。それに、今日は特にお客さんに影響されている場合じゃないのだから。
アップテンポな曲と穏やかな曲を入り混ぜて、演出は大胆に、徐々にヒートアップする空気。拍手に踊らされてだんだん激しさだけが増していくばかり。私も乗せられて、熱に浮かされたかもしれない。
何かいつもと違った。頭の中で自分の知らない別の意識が動いているみたい、脳が意識が私じゃないものに乗っ取られてしまったかのよう。戸惑いを背に体は勝手に動き出す。理性がスピンオーバーしないように必死になって制御しているのに、自分で空振りする一歩手前まで滑りに行っている。目が回らないようにしないと、でも、ものすごく興奮する。自分だけの時間だという自由と、ストッパーのいない開放感がますます私を加速させる。かろうじて指が回るけれど、下手したら次の瞬間ちがう曲を始めてしまいそう。もう何が何だかわからない。
息も続かないのにすぐ次の曲へ移りかわり、へとへとになっても意地悪な意識は体を勝手に操り、ためらいもなく限界を超えてしまう。この熱い空気にやられて脳が作り出してしまった麻薬が意識をもうろうとさせる。眼前で火花が散ってる、狂いそうだ、おかしくなりそうだ。でも、やめられない。まるでそう、中毒になってしまったみたいに。
スピンのかかったタイヤが次のレースに向いた瞬間。
かん
鋭い澄んだ音が鳴り響いた。
とたん、私の体は瞬間冷凍されたように動かなくなった。
異質な音はすぐに音源の位置を表した。
マスター。
カウンター席にもたれるように座り、店の主人としてはよろしくないけれど、それで何処か映画のワンシーンみたいに様になってしまうのが悔しい。こちらは何をしてもあんな風にはきまらないのだから。
呼びかけようと声を出そうとして吹き込んだ息はサックスの最後の音をもらす。それもフシューと気の抜けきった音、今まで何を奏でていたかも忘れてしまったかのよう。
マスターの手には美しいフォルムで中の液体を眩い光にさらすカクテルグラスがこれまた見事に長い彼の指で掲げられている。彼はカウンターに置いたワインボトルと乾杯していたのだろう。そして周囲の目が彼にスポットライトを当てたと確認してから、染み入るような低音ヴォイスで
「本日はこれにてライブステージを終了いたします。本日お越しいただいた皆様、ご清聴誠にありがとうございました。今宵の晩餐、最後までお楽しみください。それでは失礼いたします。」
マスターがドラマチックに終止符を打った。
彼はおもむろに立ち上がりずかずかとステージ上にあがりこみ、私の頭を押さえて一緒にお辞儀させた。やはり魔法にかかったように硬直していた観客たちも、ようやく氷解してパラパラとした拍手を送り出した。私はかろうじて拍手を受け止め、いや意識は全然違うところに飛んでいた。マスターに触れられたところからじんわりしみるぬくもりに、胸がさっきまでの興奮とは違う意味でドキドキと高鳴る。横目で見るマスターは救世主のはずなのだが、精神的にいじめられてるように思えてならなかった。
頭上からの圧力がなくなって頭を上げると、私への拍手を一緒に受けている顔と出会った。マスターの決して私には向けない作り笑顔が私を不安にさせる。マスターはひととおりの歓声を身に受けてから私の頭をつかんだまま、そしてその作り笑顔を変えないまま私を店の奥に連れ帰ってくれた。
あとの店の様子はどうなったか知らない。マスターのことだからうまいこと仕組んでいたのだろうけれど、例の彼の後輩が後々私にこの件のことでしばしばからんでくる。君らには貸しがあるんだとかなんだとか。どうやらマスターが彼にその後の対応全てを丸投げしたからということらしい。就職に困ったら、きっとマスターが雇ってくれるよと返せば、少し思案した後でそれも面白そうだと、底意地の悪い笑みを浮かべた。おそらくこの付けもマスターじゃなくて私に返ってくるのだろうなと思った。
さて、バックに連れ帰られた私だが、つかまれた頭を強制的に正面に向かされていつもの何も見えない無の表情のマスターとご対面することになる。腕一つ分でつながれた距離が予想外に近い。
「何か言いたいことは」
マスターのぞくぞくするような声が私だけのために紡がれる。
これを聞いては素直になるしかない。
「・・・ありがとうございました」
「・・・」
感謝の言葉は彼のお気に召さなかったようだ。何の反応も返してくれない。じゃあ、こっちか?
「ごめんなさい・・・?」
やはり無反応という反応を返してくれる。表情も一切変えないし、これでは、本当に状況が理解出来てない子供みたいだ。叱られているのと大差ないではないか。
内心いじけ、むしろこっちからも無反応で応戦してやるかと意気込んでいると、上からため息が降ってきた。この近距離で吐息とか言葉を発する時の息遣いとか聞こえて、本当に心臓に悪いことをこの男は知っているのだろうか。いや、わかっててやってる、とか。続けてハスキーな声はもらすようにささやいた。
「お前は、何のことを謝っているか自覚しているか」
「・・・ゲリラライブ勝手にやり始めたからじゃないの?」
「それについては俺は好きにすればいいと言っただろう」
「じゃ、じゃあライブやっといて自滅したこと?」
「それも自己責任の範囲だ。こちらとすれば勝手に自滅しとけって感じだな。」
酷い。勝手に自滅しとけなんて、確かに自己責任だしごもっともだけど、酷い。
でも、じゃあなんで。何がいけなかったの。どれが彼のお気に召さなかったの。やっぱり自分に責任もとれない子供だから?それでも私はやれるだけやってみたつもりだったのに。私にはキャパがないってこと?大人になるっていうのはそんなにも超えられない壁だったってことなの?
つかまれたままだった頭からぬくもりが離れて行った。消えていく体温に寂しくなる。私が答にもたどり着けないくらい無知だから、ついに見放されてしまったのか。でも、せめて何が悪かったのか、教えてくれたっていいじゃないか。私だって一方的に置いて行かれたら対処の仕様がないし、もっとはっきり言って直し方を教えてくれないと反省しないんだって、わかっているだろうに。ああそう、こんな大切な事すら自分で気づけないくらいには私は無自覚な子供なんだ。 「私じゃダメってことなの・・・」
そんなの言ってくれなきゃわかんないよ。
「頭冷やせ。」
うつむいた私の額に冷たい物が当てられた。ひんやりとしていて、泣き出しそうな顔には気持ちのいい冷たさだった。見上げれば、ワイングラスを掲げるマスターがいた。頭に当てたほうの別のグラスには氷が入っていたらしい、それを私に手渡し、ボトルを傾け、濃い色の液体を注いだ。さらに、すでに何か入っている自分のグラスにも軽く注いで一口なめる。
私はもらったグラスの処理に困った。
「これは何?オレンジジュースの次はグレープジュースですか。」
「馬鹿、香りで分からないか。果実酒だ。甘いから飲みやすいだろう。」
原液のまま飲むやつは少ないいないだろうが、とマスターはさらにシュワシュワしている炭酸水を持ってくると私のじっと見ていたグラスに適当に注いだ。グラデーションのごとく色の薄まっていくさまが美しい。
彼がアルコールを私に注いでくれたということは、子ども扱いをしているわけではないのだろう。でも、さらに謎が深まるだけだ。マスターの一挙一動に目が釘付けになる。
長細いスプーンを預けられ適当にまぜろということなのだと解釈し、くるくると回せばそのスプーンを取られマスターが自身の口元に持っていくのを見て、また何を思ったか赤面してしまう。全く、口惜しいほどに慣れない。
どうした?という風に振り向かれてはまた赤い顔を隠すためにうつむくしかない。
挙動不審がばれてしまうので、思い切ってグラスに口をつけた。
「・・・おいしい。」
「お前は注目を引き付けるんだ、いい意味でも悪い意味でも」
「目立ちすぎるってこと」
マスターは首を左右に振った。
「カシスソーダの意味は教えてもらえなかったのか」
カシスソーダ。この炭酸の入った甘いお酒のことか。
「炭酸ジュースでごまかしてるわけじゃないんだよね・・・」
べしっと額に衝撃が走る。でこピンは地味に痛いからやめてほしい。確かに愚かなことを口走ってるのはわかるけど、否、本当にただ痛いだけ。
痛みと衝撃でうっすらたまった涙が彼のなめらかな手先で拭われる。反動で頬をかすめた感触がこそばゆい。
それだけのしぐさが、なんでこんなに優しいのか。でも思い違いかもしれない、私はまた読み違えてしまうのか。
彼にそぐわない茶目っ気のある瞳がじっとこちらを覗き込む。私の瞳を通じて脳の中まで見透かされてしまっている気分にさせられる。なのにこの目を見るとそらすのさえもったいないと思ってしまう。吸い込まれるように私が無意識で距離を縮めたのかわからないけれど、ぐっとマスターの端正な顔が近づいた。かと思えばすぐに離れていってしまった。ひらりと通常運転の距離間を取るマスターに戸惑いを隠せない私はどんなひどい顔をしていたのだろう、吹き出されてしまった。
「お前は本当に20になったのか、わらわせるためにわざとやってるのか」
もちろんそんなつもりはない。変顔を見せるくらいならもっと色気のある表情の研究とかの方がしたい。似合わないのを承知だけれど、欠片も効果がないんじゃ意味ないし。
「考えてることがこうも簡単にわかっちまうっつーのも考えものだな。」
どうせポーカーフェイスなんて無理ですよ。私はそっぽを向いてふてくされた。まったくさっきまでの甘々な空気はどこへ行った。
「悪意あってからかっているわけではないんだ。」
またからかわれていたようだ。もうこうなったら、何を言われても鉄の心で対峙してやろう。決意を固めて身構える。
「そうでしょうよ。私はいつだって子供扱いなんだから」
さあ来い、と防御壁を張った時、それを一撃で粉砕する爆弾が投下された。
「 仕方ないだろう。男ってのは昔から好きな女には素直になれなくて、からかっては自分をどのくらい気にしているか毎度確認せずにはいられない生き物なんだよ。」
「…そんなの、小学生男子の戯言だとばかり」
戯言とも言ってられないところが悲しい男の性だよなと、冗談なのか本気なのかわからないような薄い笑みを浮かべるのを見ていると、最近距離感を感じていていたはずのマスターがなんだか同世代を相手にしているように思えてきてしまう。
…じゃなくて、その論理で言うところのマスターが純情あまのじゃく少年なんだとしたら私の立ち位置って……。
「特に俺のために懸命に背伸びして自分を磨いて綺麗になってく姿なんて、侵し難い、否、いっそのこと壊して自分だけのものにしてしまいたいもんなんだよ。」
衝動に駆られて触れようとしては理性に止められて。大人になったって、常に冷静でいられるわけじゃない、わかるか。
そうつぶやく声すら熱を帯びていて。
体に今まで感じたことのない寒気とも似たような震えが走る。徐々に甘い刺激となって指先までを染み透っていけば、ようやく脳が動き出す。狂った神経は体内のどこにこんな量あったのかとおどろくほどの熱量を顔に集めては発散しだす。こんな言葉がお小言だって?誰だそんなあほなこと5分前まで真剣に考えていたのは。冗談じゃない。私はなんて馬鹿だったんだ。
「お前が気になって仕方ないって言ってんだよ。」
こんなの口説き文句じゃないか。
マスターは照れたように笑う。
「お前はすぐ先へ先へ進みたがる。方向も定まらずに猪突猛進するから下手すると俺の元からいなくなってしまう気がしてな。無意識で襲ってくれと言わんばかりの雰囲気まとってくるしで、他から手を出されてあっという間にさらわれてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたもんだ。たまに子供扱いすると年相応以下の返しをしてくるから、ああ戻ってきたって安心するんだ。」
やっぱり笑われるくらいおかしな顔をしているだろうから、マスターの目が見られない。実際問題、精神衛生上見られない。
「…そんなの、言ってくれなくちゃ一生わからないよ。」
「だから今伝えてやってんだろ。普通なら察しろで終わりだってのに、この鈍感。余計な手間かけさせやがって。」
あれ、やっぱり迷惑がってるってことだよね、さっきの言葉は私の勘違いだったのかな。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。悪い、言い方を変える。あんたはその手間に値するだけの価値があるってことだよ。」
勘違いじゃない…。そんなこと言って、調子に乗っちゃうよ?
「なら、普段寡黙なマスターがこれだけしゃべってくれてるのも全部私のため?」
「おまっ…今さら何を。」
マスターは額に手のひらを当てて俯く。ん、なんかやってしまった感が。聞いてはいけないことだったのか、若しくはそんなバカなこと言ってんじゃねーよ的な。
固まってしまった私は悲愴的な表情をしたただの人形と化した。もう、何も言えないし、マスターのほうも見れない。
「ああ、ガキには直接いってやらないとわからないんだっけ?」
「…え?」
その瞬間、目の前が急に暗くなった。頬に添えられた手のぬくもり、いい匂いがする、と思った時にはもう唇に柔らかい感触が乗っていた。
「お前が好きだ。ずっと前から。」
「………何か言えよ。」
「ーーーーー目開けたまま寝るなよ。」
「寝てない!」
マスターのバカ。
「信じられないよ。」
「じゃあ信じなくてもいい。」
「えっ!」
「お子様にはもう少しだけ猶予をやる。」
猶予?ようやく通じたと思ったのに?また子供扱い?
時間稼ぎにしか思えない。
「そんなことしないで。せっかく…だってやっと……今までの私の努力が、」
「その努力に見合う報酬は出ないな」
さっぱり意味がわからない。
「好き、は私の欲しい好きとは違うの?」
そうならば、私はぬか喜びの記憶を抹消しなければならない。
マスターは私の頭をがさがさかき混ぜて呆れた声で言った。マスターのかすれ気味の声すら熱を帯びているようで、くらくらする。
「後で面倒だから訂正しておくが、お前が求めているような甘ったるい生温い感情ではない、という意味だからな。恋愛感情という意味では違いない。ただし期待されているようなもんじゃないな。」
期待?
「私は好きって言ってくれただけで十分。」
求めるなら…期待なんて未来に先延ばしはしない。さんざん子供扱いで待たされたんだから、今のうちに欲しいものはもらっておかないと。
「曖昧なものよりもっと残るものがいいよ。」
交渉術は、自分の希望のひと回り上を提示し、すり合わせの中で本来の希望に近づけていくもの。伝授してくれた『クラスメート』はこう言った。彼は何を望んだのだろう。そんな疑問すら吹っ飛んでしまうくらい、心臓が鳴る。
「見合わなくても報酬はくれるんだよね。
それなら、マスターのところにお嫁に行きたい。」
言い切って不意をつかれた様子の彼は、すぐに挑戦的な笑みを浮かべた。
「いいぜ。ただし、プロポーズはやりなおさせてもらうがな。」
あれ?通ってしまった。彼女にしてほしいって頼むつもりだったのに。
「そのかわり、お前は解雇だ。」
「………はい?え、ちょっと待って嘘でしょなんでなんでなんで」
「お前、受験やり直してこい。」
「え、ちょ、意味わかんな…」
「ここの何処かなら許容する」
そう言ったマスターは傍の紙袋から数枚パンフレットを取り出す。受験校の選別まで済んでいるとはさすが私のマスター……ていうかこれじゃ恋人というか保護者というか、
「なんか、オカンっぽい…」
「声に出てるぞ。」
「ハイすみません!」
ていうか、このパンフレット、全部音大関係のだ。
今の大学やめて、音大を再受験しろってこと?
「どういうこと。私もう受験範囲からっきし脳みそから抜け出てるんだけど」
「安心しろ、今フロアにいるやつに教えさせる。ああ見えて次席で入学している。」
「んな、ばかな……留年してるくせに。」
「単位計算間違えたのは確かに馬鹿だな。が、この話を持ちかけたのはあいつだぞ。」
「……初めから説明して。」
なんでも奴のツテというのが、マスターのことだったということだ。自分の頭を活かせばいいのにサボり症な彼はマスターのところで雇ってもらうことを考えたらしい。問題だったのは人件費。欲のないマスターは店の宣伝もしないしステージ料も取っていない、現在のバイトだけでギリギリの経営をしている。そこで一旦私の首を切って一人分の人件費を浮かし、その間私は演奏家としてある程度成長した頃再び戻して、一つのショーとして独立させるつもりらしい。ついでに私が
それまでに彼は経営を見直して稼ぐらしい。前払いとして私の学費に補助を出すという約束をして。
「優しいね、マスター。」
「もしお前が演奏家としてやっていきたいと思うなら奴を雇い入れる。それを鑑みてフロアで奴が上手く対応できるかテスト中だ。」
根回し早っ。
「俺にパラサイトも嫌だろう?」
全部バレてる。どこまで繋がってるんだ、この先輩後輩は。
「ええ、もちろん受けてたとうじゃないの!」
ニヤッと笑う、その姿も飛びつきたくなるほど魅力的で。
私は乗せられてしまったのだろうか。
「あ。そうだ。明日までに私の荷物運ぶから。」
「ここに住むのか。部屋は空けようと思えば開けられるが」
「ううん、大丈夫。練習はフロアでもできるし譜面台と一人分の空間があれば十分。私、マスターの部屋に住むから。」
「………は?」
「報酬、でしょ?押しかけ女房はいらないなんて言わないよね。」
言質はとったもの。慌てるマスターなんて珍しくて面白い。マスターの前髪をかきあげる仕草は大好きだ。
「………お前、ただで済むと思うなよ。」
「済まさないでよ。」
挑むような視線で口角をあげる。
「ーーーっ」
始まったばかり、ここからが勝負になってしまったわけだけれど、ひとまず奴に憎まれ口の一言でも言ってから引っ越しの準備をしよう。
ああ、その前に、いつものアレをしなければ。
「マスター、オススメのカクテルは?」
おしまい
ちょっとマスターの性格が一話と比べて面白くなってますね。
ひとまずここで、完結です。そのまた後日談とかは追々追加するかもしれません。
御読了ありがとうございます。