表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

雪がやんでいたら、遠出をしよう 後篇

前篇の続きです。

 5


 最後に人に会ったのは図書館に住んでいたときだ。彼がやってきたのは、一階の文学の棚で本を読んでいたときだった。大きな音がしたので行って見ると、大きなそりを牽いた大男が見えた。彼は図書館に大またで入ってくると、棚から乱暴に本を持ち出し、玄関前に出ると火をつけて暖をとった。いきなりの乱暴な行動だったが、別に図書館は僕の物でもないし、まあ、すでに誰の物でもないのだが、今のところここは僕の住みかであるし、流れ込んでくる煙で、煙くさくされる事に腹が立った。それに正直恐かった。もう警察もいないし、世界は闘争状態でもあるのだ。だが、彼は悪い人間には見えなかった。こそこそしていないし、防寒を考えた合理的な格好をしていた。それに、背負っているリュックサックにはかわいらしい雪だるまのぬいぐるみが括りつけてあった。


「こんにちは」と僕は彼に言ってみた。


 彼は僕のほうに振り返った。目の大きな優しそうな男だった。僕を頭の先からつま先まで一瞥してからこう言った。「えーっ、お前、ここで暮らしているのか」少し訛りのある面白い声だ。

「うん・・・、そうだよ」

「ふうん、そうか。どのくらいここにいる」

「二週間くらいかな」

 僕がこう言うと彼は頷き「そうか。なあ、俺と行かないか」と言った。

「・・・・」僕は思いもかけない彼の言葉に驚き返答を窮した。

「俺は南に行くんだ。なあ、大きなお世話かも知れんが、ここにいるとお釈迦になるぜ、お前は見たところ、健康そうだ、体格だって悪かあない。俺と来い」と彼は大きな声で言った。

 彼の言葉にどきりとする。どう答えていいかわからない。でも、僕は断った。

「悪いがいいよ」


 彼は鼻を膨らませてから息を吐くと「そうか、なら仕方ない。いや、いい別に気にしなくて良い。」と笑って言った。


 彼はこうなる前は消防士していたといった。彼の名前は塚田寛之と言った。彼は親切な人だった。僕に色々な事を教えてくれた。街にはまだ多くの人がいる事、南に行けば救助の手があるかもしれないといったことを彼は話した。それにここに残るなら、彼は地下に移動したほうが良いといった。地下なら地上が閉ざされても生存できるかもしれないとアドバイスしてくれたのだ。そして、彼は行政が地下鉄の施設を利用して備蓄している食糧や水の事を教えてくれた。


 彼は僕が出したインスタントコーヒーを飲むと「悪いな、俺はもう行くぞ。小降りの日は先へ進めるからな。なあ・・・、もう一度言うが、俺とこないか?別に親切の押し売りをしたいって訳じゃないんだ。二人で助け合ったほうが生存の可能性が高まると思うんだ。正直に言うが地下にこもったって先が知れている」と言った。


 僕は黙った。僕の心は大きく揺れていたのだ。人とあって話をすること、たったそれだけの事が、一緒にいこうという言葉が僕を心の奥から揺さぶってきた。この街の終わりを見届けることよりも、彼と一緒に行きたくなったのだった。あれほど心に決めていた事なのにあっさりとそれを捨てそうになったのだ。


 僕は葛藤していた。


 でも、僕はそれを断ったの。「わるいが、僕は行くわけには行かない。僕はここに残るって決めたんだよ。僕はここから離れることが出来ないんだ」


 僕は自分の思いをうまく言葉に出来なかった。


「そうか、なら仕方ないな」と彼は残念そうに言った。


 彼はそれからしばらくもせず出て行った。


 彼は立ち上がりそりに自分の荷物を括りつけると、僕のほうを向き肩を叩いた。


 僕は自然に右手を出した。彼は力強く握ると言った。


「じゃあな、気をつけてやれよ。それとな、他の人にあったら、俺が教えた備蓄のこと教えてやれよ。あと、先が知れているって言ったけどな・・・、それは実は俺も同じなんだ。俺と来たって救助の当てなんてないんだ。本当は・・・」


 僕は首を横に振った「ありがとう。そして、君が助かる事を祈っているよ」と僕は言った。


 彼が去った後、僕はこうなってから初めてひとりだと感じた。広い図書館に僕はたったひとりだった。急にこの図書館が広く感じられた。僕は膝を抱えてソファーにも垂れた。時間が体感され、冷や汗が背中を垂れて行く感じがした。僕はたったひとりだった。どこまでいってもひとり、世界と僕は主観で対峙し、さしはさむ物もなかった。気が狂いそうだった。「言葉がなければいいんだ。心なんかない方がいいんだ。ケモノだったらこんな思いはしない」と僕は独り言で強がりを言った。手が震えていた。消防士の後を追いかけたいという気持ちが急に湧き上がってきた。僕は立ち上がって「しっかりしろ。自分自身で選んだんじゃないか」と叫んだ。


 それから人にあった事はない。消防士との出会いは僕の最後の出会いかもしれない。


 消防士が去って、すぐに大きな嵐がやってきた。地上の道すべてが雪に埋まりはじめ、食糧の確保が難しくなったのだった。僕は図書館に住む事を諦める事にした。移動する事が出来なくなってしまう前にここを捨てて消防士が教えてくれた通りに地下に移動するのだ。


 僕は何枚かの音楽ディスクとサバイバルの本、カフカの『城』そしていつか必ず読もうと思っていた『カラマーゾフの兄弟』を持って行くことにした。もっと本を読みたかったなと僕は思った。


 僕は「さようなら、ありがとう」とお別れを誰もいない図書館に言いそこを去った。


 6


 しばらくして僕は彼の言った通りに地下道に入り、巨大なビルの地下深くで暮らすことにした。水と食料も彼に教えてもらったところから調達しておいた。


 今日は出かけようと思う。雪の上を目指そう。はるか上まで積もってしまった雪上を目指すのだ。僕は時々、地下街をたどって、地下鉄のトンネルを歩いて、街をあちこちへと移動している。そして、ほんのたまに雪上へ行く、いつまでも地下にいると昼か夜かがわからなくなって、感覚がおかしくなってくるのだ。それに街がどうなってしまったか見ておきたい。


 僕が今いるのは巨大なオフィスビルの地下5階の機械室である。ここから出発する。昨日から準備しておいたナップザックに必要な品を入れる。折りたたみのナイフ、二本の懐中電灯と電池、ライターとコンロ、チューインガム、乾パン、ミネラルウォーター、インスタントコーヒー、そして、サバイバルの本を見て作ったかんじきを入れ、音楽プレーヤーを持って歩き出す。


 なんとなくシューベルトの“鱒”を聴く。僕は時々この曲が聴きたくなるのだ。この曲を聴くと鱒のいる川の様子が目に浮かび、美しい川べりを散歩している気分のなるのだ。そして、僕はこういう曲が作る事が出来た、時代に愛おしさを感じる。どうしてこうも人は健康だったんだろうかと。僕らは、そう、なんと言ったら良いだろう。喩えを言うと、一人ひとりが小道に入り込みすぎてしまったんだと思う。誰もいない小道に誰もが一人づつ入っている。みんな地の底へ向かって穴を掘っている。そして、互いはけしって声を交わすことも無い。いや、こんな考え方はやめよう。地下に住んでいるとどうにも考えが後ろ向きになる。“鱒”が流れ出す。暗い地下道を川の流れのような旋律が明るい水辺に変えていく。僕はゆっくりと歩きだす。


 非常階段を登って地下三階まで来た。ここからは地下鉄を歩いていく。とりあえずひと駅歩き、別の地下鉄の線路を歩き、ターミナル駅を目指す。そこには巨大なビル群があり、その中の幾つかのビルは地下鉄の駅から直結している。そこからまた非常階段をずっと上へ登っていき雪の上へ出るのだ。上手くいって雪がやんでいれば外も歩ける。


 でも、この間は別のビルだったが同じやり方で、雪の上に出ようとして失敗した。地上から入り込んだ雪が凍りつき、もう地下の通路さえも閉ざされていたのだ。ほんの少し前までは、所々に雪の隙間があって、そこを通ってビルからビルへ移動することも出来た。残念な事に最近はちょっとづつ隙間が小さくなり、所々雪は崩れてきている。そういった雪の隙間を歩いていると、時折、氷河を思わせるギギッという膨大な圧力がかかっている音がしている。そのうちこんな隙間は雪に埋もれてしまうのだろう。そう考えると恐ろしくなる。


 ここで僕は“鱒”を止めた。転倒は命取りになるので慎重に懐中電灯で道を照らしながら歩く、地下鉄のプラットホームまで来ると、ベンチに座って水を飲んで少し休憩した。


 目の前には僕が通勤に利用していたステンレス製の電車が動かなくなって放置されている。車両の四つあるドアは開け放たれている。僕は懐かしさを感じ、電車に乗ると車両の中を歩いてゆく。


 ちょっと前まで多くの人が乗っていた電車、押し合いへしあいして、我慢して乗っていた電車、僕も毎朝乗っていた。その頃の事がよみがえってくる。この電車の中でみんなは色んな事を考えていたはずだ。毎日の生活、ささやかな成功への夢、家族の事、学校の事、今日の仕事の事、みんなが各々の切実な、等身大の現実にむきあっていた朝の電車。


 学生は単語帳をめくり、長距離通勤の会社員は腕を組んで、シートで寝ている。難しそうな顔をしている女あり、その向こうでは中年の男が指を舐めながら新聞をめくっている。嬉しそうな顔をしてメールを早打ちしている若い女もいる。僕はそんな光景を思い出しながら車両の中を歩いていく。


 真ん中ぐらいに来たとき、僕はそれが、床に何かがあることに気がついた。懐中電灯で照らすとそれは同じ懐中電灯だった。光を左に照らすと、気がついた。懐中電灯の横には白いスニーカーが見え、僕の心臓はびくりと跳ねた。スニーカー、ジーンズ、ダウンのジャケット、それは茶色のモケットのシート上にずり落ちるようなかたちで、仰向けに転がっていた。傍らにはその荷物があった。もっとよく照らすと白い肌が見えた。僕は生きているかもしれないと思い静かにゆっくりと触れた。しかし、それはすっかり冷たくなっていた。僕は目を瞑り、祈りを捧げると足早にそこを去った。


 線路に下りてさらに慎重に歩きターミナルへと着く、ここらは仕事でたびたび来ることがあったからおおよその構造を知っている。


 はじめに、A2の改札を出て目当てのビルに入る。このビルは雪が降る前に巨大な銀行が入っていたビルだ。僕はこのビルがなんとなく好きではなかった。それには理由がある。黒っぽい長方形の外観は黒御影の墓石を連想させ陰気な感じがした。それにこのビルはひときわ他の建物よりも天高くそびえ、周りの建物と調和を欠き、さらには周囲を威圧していた。僕はこの建物に支配への志向というものを感じるのだった。


 次に、改札から共用通路に出て、非常階段をめざす。目に付くのは氷、あたりは一面凍りついている。外につながる通路から凍りつき始めているのだ。この間はほとんどなかったのに、危惧していた通りだった。非常階段にたどり着くと上へ上へと昇り雪の上へ向かう。


 晴れていればいいなと思う。この間は25階が雪上だった。あれから、かなり経っているから、どこまで積もっているかわからない。


 とりあえずあたりをつけて29階に昇ってフロアを歩くことにする。休み休み登ってようやく目的の29階に着き、フロアに出る。大きなオフィスがあった。パソコンにパテーション、デスク、電話、コピー複合機とかが使われていたままに残っていた。


 僕は外を見るためにオフィスを歩き、このフロアの一番奥のガラスに囲まれたパテーションに来た。どうやら管理職のデスクらしい。奥には金庫があり空けられたままになっている。どこからか無造作に持ち込まれたシュレッダーには半分がバラバラになった書類が突っ込まれたままになっていた。機密扱いの文書かもしれない。僕は床に落ちていた書類を拾ってみた。英語だった。難解な文章って訳じゃないから読めないこともない。しかし、機密文書ではなく、大して興味をそそる内容でもない。僕はそれを足元に捨てると進んだ。


 その奥にはクーロゼットがあった。中を開けると、仕立物のスーツの上着が残されていた。着てみたがかなり大きく、日本人の体型とは違う、この部屋にいた管理職は欧米人だったのかもしれない。


 僕はスーツを戻すと、奥に立てかけてあったゴルフのクラブを幾つか見つけた。ウッドが二本、パター、アイアンがそれぞれ一本づつ見つけた。どれもずいぶん使い込んだものでヘッドの鍍金は剥がれ、グリップはゴムが凹むくらい磨り減り、手の油で光っていた。僕はそれを見るとこの部屋にいた人を強く感じた。僕は少し躊躇したが、アイアンを手に取ると窓辺に行った。そして、渾身の力をこめて窓を叩き割った。風が勢いよく入ってきて、部屋の中のものが舞った。床に散らばっていた書類も、刻まれかけていた紙切れも風に吹かれて流れていった。割れた窓枠のガラスをアイアンで落とすと、僕は下を覗いた。雪上は窓から1メートルぐらいで僕の胸下ぐらいだった。僕は外に出るために椅子を掴むと下へと投げた。ざっという柔らかい音がする。僕はナップザックから手製のかんじきを取り出し足に付けた。それからアイアンを下へと放り、僕は雪上へ飛び降りた。


 このあたりの地理はだいたいわかっているつもり。心配は無いと思う。回りのビルを目印にして僕はゆっくりと歩き始めた。僕の吐く息は真っ白、寒いけど実に爽快。見回すとところどころ大きなビルだけが雪原に頭を出している。


 僕は今空中を歩いていることになる。空中散歩だと考えるとなんとも愉快だ。雪が無かったら僕はまっさかさまに地上に落ちて死んでしまうだろう。足の下には、街が埋葬されている。マクドナルドも電車もタクシーもみんなこの下に氷付けされて埋まっているのだ。雪原に顔を出しているビルはこの街の墓標ではないか。ガラス張りの無個性な巨大な物体はあまりにさびしい感じがすると思った。


 空を見上げる。空には小さな晴れ間が広がっている。ねずみ色の濃淡の紙を、カッターで小さく切りとったような雲の切れ間から、こわいくらいに青い空が覗いている。北のほうの空は真っ黒な雲で一杯になっている。もし、急に天候が変わって吹雪になったらおしまい。ブリザードの中、五十メートルさえも人は戻れない。僕はそんな事を思った。


 僕は音楽プレーヤーのスイッチを入れた。今度は同じ盤に入っている未完製交響曲が流れ出す。なんだかここで聴く曲じゃあないなと思い、それからふと気がついてラジオにモードを変えてみた。何も入らない。周波数を変えてみる。すると微かに、雑音の中にとぎれとぎれのポップな音楽と共に声が聞こえてきた。僕はあわててもっと聞き取れるようにいじってみる。ビートルズが流れている。レット・イット・ビーだ。そして、人の声が聞こえてきた。でも、すぐに雑音が混じり聞こえなくなっていく。


 そうだ、僕はこれが聴きたかったんだ。少しでも良いから人の声が聞きたかった。まだ人はどこかで生きているんだ。どこかはわからないけど、沖縄?シンガポール?リオデジャネイロ?いやどこでもいい人は生きているのだ。


 僕はどっかの高層ビルの屋根に寄りかかった。僕はラジオに耳を澄ます。だが、いくら調節しても声は鮮明にならない。僕はラジオを抱えて目を瞑った。そして、ずいぶん長い事そこにいた。


 夕闇が静かに訪れようとしていた。人の時間ではなく自然の時間が流れている。僕は立ち上がった。もうラジオからはノイズしか聞こえない。ふと、あの消防士の事を思い出した。彼はあのラジオを流してきた向こうの世界にたどり着いたのだろうか、もしそうだとしたら幸いだと僕はそんな事思った。


 また、ゆっくり歩き出す。僕はまだ目を開いて見届けなくてはならない。今日のことも明日のことも記し、僕の軌跡を残していくのだ。それになんの意味があり誰の役に立つのだろうと思った。でもすぐに思い直す。いや、すべてにはじめから意味はない。意味は見出される物なのだ。僕は感じようと思った。この情景、足元に眠る街、そしてそれらの積み重なったすべてを。


お読みくださいましてありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ